影とは、ついてまわるもの。万象に存在して輪郭をなぞるもの。
一方に光が当たれば、もう一方は影。追いかければ逃げ、逃げれば追う、決して切って離せぬ存在。
この世が光と闇でできている限り、影はどんなのもにも生じ得る。影とは私。物体がそこに在る証明。
そんな影が、独り歩きするならば。
影を失くしたそれは、果たして何者なのか。
――九月中旬。
夏休み明けすぐの体育祭も無事終了。クラスごと違う色の旗の下戦ったのも一週間ほど前の事。次のクラス対抗行事ごとは来月の芸術祭・合唱コンクールまでお預けなので、学校中に広がっていた闘争ムードは一旦解除。まだ暑い日が続くながらも比較的穏やかな日常が続いていた。
「暑いのってヤになっちゃうわ」
熱気籠る二階西女子トイレ、たった一つの窓に寄り掛かりながら花子さんはぼやいた。
全開にしているというのにちっとも換気が進まず、トイレの中は相変わらずムシムシしている。
「前のドア全開にして換気できたらいいのにぃ……」
花子さんが恨めし気に睨むトイレの入り口ドアは、ぴったりと。本当に憎らしいまでにぴったりと閉じられている。
生徒たちはまだ授業中。どうしようもなくお腹の具合が悪いような女子が出てこない限り、当分開く用事はなさそうだ。
はぁー、と花子さんは溜息を吐いた。
「いっそ自分で開けちゃおうかしら」
言いながら窓枠に手をかけて身を乗り出し、トイレ内よりいくらかは涼しさを感じる外気に出来るだけ触れようとする花子さん。腕以外ほとんど体が浮いているその体制は大変危険なのだが、心配はいらない。
彼女は見た目こそ普通の生徒と変わらないが、北中の裏の住人のおおよそ半分を統べる「トイレの花子さん」。その気になれば、ふわりと宙に浮くことだって造作もないことだ。
そんな彼女の横に、にゅっと手が伸びる。血の気のない真っ白な手。
「あら、気が利くのね」
花子さんはそんな手を片手で掴んでぴたりと頬にくっつけた。
「冷たぁい」
ひんやりとする腕にうっとりする花子さん。件の手の先に人影はなく、ただ長い長い腕がゴムホースのように伸び、トイレの個室まで続いている。
彼、ないし彼女は「赤紙青紙」という妖怪だ。「赤い紙、青い紙」といえば多少通りがいいだろうか、問答系の妖怪で、回答に応じて何らかの出来事を起こす系統の怪異である。
赤い紙と答えれば血まみれに、青い紙と答えれば全身の血が抜き取られて真っ青になって死ぬ、という物騒な話がメジャーだが、この学校の赤紙青紙はそんなことはしない。紙が切れた個室で絶望する生徒にそっと新しいトイレットペーパーを差し出す心優しき(?)妖怪である。一応「赤い紙は~、青い紙は~」といった質問をしてくるので「赤紙青紙」と呼ばれているが、基本無害だ。
ただ「どこからともなく出てくる長い腕」という、インパクトのある容姿故に腰を抜かしてしまう生徒が続出し、無害にも関わらずこの界隈で七不思議が語られるときの常連になってしまっている。哀れ。
「いい子ね赤紙青紙。今度新しいハンドクリーム買ってきてあげるわ」
花子さんのお褒めの言葉に、赤紙青紙は嬉しそうに腕を揺らした。くすぐったそうにする花子さんは、しかしその直後、眼下の景色に何かを見つけて「あら……」と呟きを漏らした。
「ねえ、あれ。乙瓜じゃない? ……ええ、そうよ。代理人の乙瓜。こんな時間に何やってるのかしら」
不思議そうに首を傾ける花子さんと、長い腕をくるりとくねらせて、?マークのような形を作る赤紙青紙。
花子さんは更に身を乗り出して、というかもう宙に浮かんでそれをよく見ようとする。しかし。
「あ……あらら? どこ行ったのかしら?」
ほんの数秒の間に、花子さんが見つけた「乙瓜」はどこかへと姿を消してしまった。
――一方。
学校では四時間目の授業が終わり、やっと給食の時間。給食当番の班が配膳の準備をする中、その他の班は机をくっつけて待機中。
献立表によると、今日の給食はアイスが出されるようで、生徒たちは心躍らせている。烏貝乙瓜もその一人で、口には出さないものの内心ワクワクして待っていた。
そんな時、同じ班の男子・天神坂がふと話を振ってきた。
「そーいや烏貝、おまえ夏休み中に千葉行った?」
「?」
唐突な問いに首をかしげる乙瓜。
「いや、お盆の少し前なんだけど。5日だったか7日だったか、とりあえずその辺」
天神坂は更に日時を出してくるが、乙瓜には何が何だかわからない。そもそも、夏休みは合宿以外ほとんどの日を家で自堕落に過ごしていた乙瓜。千葉になんて行った覚えはない。
「千葉何て行ってないけど……」
「おっかしいなァ、……お前嘘ついてない? 本当に?」
「ここで嘘ついてどうすんだよ」
天神坂は怪訝そうに首を捻った。乙瓜も捻った。
「親戚ん家に行ったときに海岸で日傘差したお前そっくりな奴見たんだけどなァ」
「……私日傘とかもってないし。他人の空似じゃねーの。千葉には親戚もいないし用もない」
「うわそれ千葉の奴に失礼だなあ」
「個人的な話をしてるンだよ、特に貶すつもりはねぇ」
ぷいっとソッポを向く乙瓜。向いた先には王宮が立っていた。覚えているだろうか。朝一ブービートラップの男子である。六月頃にトラップを咎められたため、掃除用具入れの中に潜んで飛び出してくるというサプライズに転向した彼は、現在後期生徒会役員選挙に立候補して絶賛選挙活動中だ。外面がいいのか主張する展望が受けたのか知らないが、思いの外他の学年からの評判はいいらしい。
「ヘイ、ユー。どうした不細工な顔して! ハハ!」
「あまり私を怒らせない方がいい」
「いや失敬、自分としたことがつい暴言を吐いてしまった」
すまんすまんと言いつつも謎の高笑いをする王宮。何に影響されたのかわからないおかしなキャラ付けも手伝い、そのウザさには一学期よりも磨きがかかっていた。
「ところでユー。先週の日曜日に霞ヶ浦付近にいなかったかい?」
「は?」
王宮の言葉に、乙瓜は目が点になる。奇しくも天神坂と同じような質問だったが、勿論乙瓜はそんなところには行っていない。
しかし否定する間も与えず、王宮は一方的に話を続けた。
「偶々あの付近に行く用事があったんだが、まさかユーがあんな可愛い私服着てるとは思わなくて一瞬見違えたよ。どうも知人とすれ違ったような気がしたから振り返ったら、なんと君がいるじゃあないか! ピンクの日傘差した――」
「そうそれ、それな!」
日傘、という単語が出たところで天神坂が割って入る。
「ピンク色の日傘、俺も見た見た!」
「なんだ天神坂も見たのかい。あれは傑作だったろ」
「今年一番笑った」
本人(?)を前にして失礼なことをのたまいながら勝手に盛り上がる男子二人。しかし乙瓜は憤慨するよりも愕然としていた。
「……ちょっとまて、ちょっとまて。おれ――、私は千葉にも霞ヶ浦にも行ってねぇぞ! お前ら一体何の話してんだ、担ごうとしてんならマジやめろ」
反論する乙瓜。天神坂と王宮はピタリと口を閉じて顔を見合わせると、互いにきょとんとした表情で言った。
「本当にお前じゃァねえの?」
天神坂の言葉にうんうんと頷く乙瓜。
「担ぐだなんて人聞きの悪い、僕はただ見たままを語っただけさ。……不快にさせたのなら謝らざるをえないが」
一方の王宮は言い訳じみたことをぶつぶつ言っていたが、どうやらでっち上げではないようだ。
「まあ、世の中には自分に似た人間は三人ほどいると言われているし、恐らく他人の空似なんだろう」
「お、おう……?」
何やら一人で勝手に納得し、王宮は歩き去ってしまった。見れば、わけのわからない話をしている間に配膳が始まっているようで、気の早い生徒たちが並び始めている。
「おう、俺らも並ぶか」
天神坂が立ち上がる。乙瓜はどこか釈然としない思いを胸にしまい込み、促されるままに立ち上がった。
「ところでさぁ烏貝」
「何?」
「……お前のそっくりさん見たって話、部活とかで割と聞くぞ。本当に、本当にお前じゃないんだな?」
しつこく食い下がる天神坂を呆れた目で見ながら、乙瓜は再三の否定の言葉を口にする。
「しつこい。違うったら違う」
「だけど」
「なんだよ、言いたいことあるなら要点をまとめてさっさと簡潔に答えろ」
乙瓜はいい加減苛立ってきていた。次から次へと一体何だというのかと。
機嫌悪そうな乙瓜の言葉に溜息を一つ吐きつつ、天神坂は言った。
「お前じゃないとするなら、どんどん古霊町に近づいて来てるんだよ、そのそっくりさん」
その日給食に出たアイスの味を、乙瓜はあまり覚えていない。
そんなことなど忘れてしまうくらいの出来事が、彼女に身に降りかかったからだ。