「う、裏切るつもりか! 卑怯だぞ!」
美術部全員の気持ちを代弁するように指さし叫ぶ深世に、しかし火遠はやれやれと言った顔で。
「おいおい、何を期待していたのか知らねぇけど、本番まで『講師』に頼るなよ。それに嶽木一人に対し君たちは六人なんだから、今更一人増えたところで大して変わらないだろ?」
違うかい? と言う火遠の隣で、そうだそうだと嶽木が言う。もうすっかり舌足らずキャラじゃない。
(何だかしらんけど……油断を誘うために嵌められたのか……?)
乙瓜は嶽木のしたたかな性格にようやっと気づき、今の今まで本性を感じさせなかった役者ぷりに戦慄した。
――とんでもない。こいつはとんでもない……!
一方、なかなか始まらないイベントに観客席の幽霊たちがざわめきはじめる。はっきりと声を上げるものから、うめき声をあげるもの、催促するように手を叩くものまで様々だが、とにかく早く始めろということらしい。
「ごめんね、みんなとっても楽しみにしていたから、もう待ちきれないみたいなの。始めてもらえるかしら?」
彼らの気持ちを代弁するような花子さんの言葉に、火遠は頷いて答える。
「皆様お待ちかねとなっちゃぁ期待に応えざるを得ないな。それじゃあいい加減始めよう」
その一声に幽霊たちがわっと歓声をあげる。
大げさだなあと思ってみている美術部に、壇上から声がかけられる。
「君らも席の方に移動しなよ。ステージ前に突っ立ってたんじゃ、折角見に来てくれた彼等に迷惑だよ。それに、ホールってのは一つの楽器なんだ。あらぬところにあらぬもんがあるだけで響きが変わっちまう。……対戦相手を妨害してでも勝ちたいなんて、みっともないことしたくないだろ?」
嶽木はそう言って、美術部に移動を促した。
言っていることは尤もなので、美術部はいそいそと移動を開始する。花子さんが「ここよー」と示してくれた場所には、成程六人分の席がある。
全員が着席したと同時、ステージの照明が一旦落とされ、辺りは真っ暗になる。少しして、客席の左斜め前、集会の時に司会者が立つ位置に、スポットライトではなく青い火の玉の明かりがぼうっと灯る。
ゆらゆらと不確かな明かりに浮かび上がったのは、スタンドマイクと赤マントのエリーザ。どうやら司会のつもりらしい。
彼女はマイクに向かって「あー……あー」と一言二言喋った後にアナウンスを始めた。
「北中幽霊生徒の皆さん、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございまーす。本日は生きてる人に代わりまして、日没前の体育館を占拠! いたしまして、これより妖怪コンビ対現役生徒の歌唱対決という名の第一回古霊北中裏音楽祭を開催しまぁす! 司会進行は私、エリーザ・シュトラムが務めさせていただきます。……と、花子お姉さまー! これで決まってますかー?」
ぶんぶんと手を振るエリーザに、花子さんはにこやかに手を振りかえす。それに気を良くしたのか、エリーザは高いテンションで続ける。
「はいはーい、それじゃあ早速プログラムの一番から始めたいとおもいまーす! トップバッターは我らが妖怪幽霊陣営、草萼嶽木と火遠姉弟だー!」
どうぞ! の合図と共にステージに再び明かりが灯る。定位置に立った二人と、ピアノの前の幽霊少女がはっきりと姿を現す。嶽木はほんの少しだけ服装を変え、火遠と同じホットパンツを履き、前髪の一部を髪の毛と同じ緑色のヘアクリップで留めていた。
「…………? そういえば思ったんだけど……何か足りなくない?」
たった三人だけとはいえ、一応揃った彼らを見て、不審そうに魔鬼が呟く。
「足りないって、何が?」
隣席の乙瓜が反応すると、魔鬼は割と真剣な顔で。
「……指揮者。いなくね?」
その言葉に、美術部のほぼ全員が「あ」という顔になる。
ずっと録音の音源で練習していたからすっかり失念していたが、生演奏となると勿論テンポが変わる。ましてや、互いに目くばせ確認し合って歌うわけにはいかない発表の場、全体のテンポを統率する指揮者がいないのでは、バラバラになってしまうのでは……?
今更そのことに思い至り、美術部に動揺が起こる。
どうすんだよ! とひそひそ言い合う彼女らをチラリとみて、花子さんは言った。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。幽霊少女の腕なら練習音源と同じ速度を崩さずに弾くなんてわけないもの。それにね、あなた達の指揮者は――」
花子さんのその先の言葉は、エリーザの大きな司会の音声が遮って聞こえなかったが、すぐに何を言わんとしていたのかわかることとなる。
「――伴奏はおなじみ、誰も名前を知らないけれどみんな腕前を知ってるこの人、音楽室のピアノ幽霊だー!」
エリーザの紹介に深々と頭を下げる幽霊の彼女に、期待の拍手が雨霰のように鳴り響く。そんな拍手の豪雨のなか、壇上に躍り出るもう一つの人物がいた。
ステージライトにはっきりと映し出されたのは第三者……ではなく。先程まで隅っこで司会に徹していた筈のエリーザだった。
一緒に持ってきたステージマイクをポンっと掌で叩くと、それは忽ち指揮棒へと姿を変える。
それを王のステッキのように高々と持ち上げ、彼女は堂々と言い放った。
「指揮者はまたまた私、エリーザが務めさせていただきます! 尚私と幽霊ちゃんは後攻の美術部の指揮伴奏もいたしますのでよろしくおねがいしまぁす!」
――つまり、そういうことらしい。しかし司会者が指揮者なんて滅茶苦茶である。
美術部が不安を抱きながら見ている中、エリーザは真ん中の指揮者の位置へ移動。観客に背を向け、ピアノの彼女を見、すぅっと指揮棒を上げた。
そして、一振り。
激しく賑やかな前奏が始まる。体育館の音響がいいからか練習で聞くCD音源よりはるかに力強い生音に、美術部は気圧されそうになる。
前奏の終わる手前、すっと息を吸い込むのがわかる。その動作は寸分のずれも無く完全にシンクロしていた。
歌い出し。伴奏が大人しくなる。
嶽木がやや高く、火遠がやや低く。しかし完全に一致したタイミングで重なる歌声は、ものの数秒で観客幽霊の心を鷲掴みにした。無論、美術部も例外ではない。
たった二人きりの重唱、しかし合唱に勝るとも劣らない歌唱力。黒梅魔鬼はそれが素人には到底出来ないものであることに気付いていた。
歩深世は、また違うことに気付いていた。指揮棒をふるう珍妙な恰好の赤マントの彼女が振るう指揮のテンポが、ちっとも狂わないことに気付いていた。突然横から出てきて完璧に指揮をする彼女に、深世はただただ感服した。
そしてなにより、ピアノの彼女のすごさには誰もが気付いていた。
難曲ではないものの、走らず、遅れず、それでいて丁寧な伴奏。そんな伴奏と指揮と歌唱の三つが合わさって、とんでもなく贅沢な音楽が今、体育館ホールに満ちている。
――ヤバイかもしれない。
ふっと、乙瓜の胸に浮かんだ気持ち。
正直なところ、一週間の『特別講習』は彼女自信も驚くほどの上達をもたらしていたと同時に、漠然とした自信を芽生えさせていた。
その、せっかく育った自信の芽が。まさに今、折られようとしている。
『負けないようについてこい』
始まる前に嶽木がいった言葉が、各々の脳裏に蘇る。
(だめだ! このままじゃ戦う前に負けてしまう……!)
乙瓜は己を奮い立たせた。
目を逸らすことも耳を塞ぐことも許されない。それは敗北を認めたことになる。
(聴き届けるんだ、最後まで。俺たちの合唱が終わるまで、まだ負けは確定しない……っ)
勝負の行方なんて気にしない観客が音楽に心酔している中、折られぬように身構えるのは何も乙瓜だけではない。大なり小なり美術部全員が同じような気持ちだった。
ほどなくして、火遠と嶽木の歌が終わる。滝のような拍手にとともに、ステージの明かりが落ち、一礼した二人の姿が闇に消える。
「ほら、次はあなたたちの番よ」
花子さんが声をかける。緊張した面持ちで席から立ち上がる少女達を見て、花子さんはほんのちょっとだけ困ったように笑う。
「そんな顔しないの。怖い顔して歌ったら、折角の歌が台無しになっちゃうわ。……確かに、あの二人の歌は非の打ちどころがないくらい完璧だったけれど、でも、あなたたちにはあなたたちだけの良さがあるはずよ」
彼女なりに励ましているのだろうか、花子さんはにっこりと笑った。
部員たちは思いがけない言葉にきょとんとするものの、互いに顔を見合わせあうと、花子さんに一礼した。
「あの、ありがとうございますっ」
眞虚が代表するように言う。花子さんはほんのちょっぴりにやりとすると、右手でVサインを作った。
部員たちが足元おっかなびっくりで真っ暗なステージに立つと、またいつの間にやら降りていたエリーザの司会が響き渡る。
「さーてさてプログラムの二番、早くも名残惜しいですが本日最後の大見せ場、後攻は花子さんが認めた理の調停者代理、烏貝乙瓜と黒梅魔鬼含む北中現役美術部の皆さんだー!」
調子のいいアナウンスと共にステージライトが灯る。六人というややさびしい人数だが、きちんとパートごとに並ぶ彼女達を見て、幽霊少女はぺこりとお辞儀をする。
再びよっと登壇するエリーザが部員たちに向かってウィンクする。そして幽霊少女と目くばせし合って、さんはいっと指揮棒を振るった。
伴奏が始まる。先と同じ前奏が流れ出す。
ステージから見える視界は暗く、しかしその先には幽霊とはいえ大勢の観衆の視線がある。
(――やっぱり、大勢を前にすると大なり小なり緊張するもんだな……)
緊張で高鳴る胸の鼓動。どうかそのせいで歌が止まってしまわぬようにと願って、乙瓜は息を吸い込んだ。
――拍手の中、美術部の合唱は終わった。
ステージの照明は消えず、代わりに幕が下りる。観客幽霊は見えなくなってしまったが、拍手喝采の音は幕越しでもわかるくらい大きく、そして長く続いていた。
結論から言おう。
彼女達美術部の合唱は、完璧とまではいかないが、素晴らしいものだった。
ピタリと一致ということはないが、誰一人として支えることなく、誰一人として走ることなく足並みそろえて最後まで歌いきった。
観客の幽霊たちの中には、在りし日のクラスで合唱曲を練習した日々を思い出して感涙する者もいた。それが未だ鳴りやまない嵐のような拍手の理由だった。
「……終わった……?」
想像以上の反響に驚き、幕が下りきってからも呆然と突っ立ったままの彼女達に「終わったよ」と声をかけるのは、指揮者のエリーザだった。
「まず最初に。正直、私も驚いたよ。だって先の二人の歌を聞いたら君たちみんなガチガチボロボロになっちゃうかと思ってたもん。いやあプレッシャーに耐えてよく頑張ったね、感動した」
指揮棒を持ちながらパチパチと小さく手を叩くエリーザ。しかしその途中で無意識に指揮棒をスタンドマイクに戻してしまい、驚いて尻もちをつく様はイマイチ決まらない。
そんな彼女を見てクスリとする美術部に、もう一方から手を叩く者がいた。
嶽木だった。
彼女は嬉しさと惜しさが入り混じったような複雑な表情で、「まずはおめでとう」と言った。
「悔しいけど、言い出した手前少しでも『いい』と思ってしまった以上は負けなんだろうね」
嶽木はふぅと溜息を吐き、「それにしても、」と続けた。
「あの凄い拍手、みぃんな少女たちに向けられてるんだぜ。ここでおれが負けを認めなかったら認めなかったで、酷いブーイングを浴びそうだ」
やれやれ、と笑う嶽木。もうすっかり疎らになったものの、まだ熱烈な拍手を送っている奴がいるらしく、幕の向こうの音は終わっていない。そのことにほんの少しの呆れと、ほんの少しの悔しさを感じているような、けれど決して嫌味ではない笑いだった。
「なぁんだ姉さん、嫉妬かい?」
嶽木の後ろからすっと火遠が姿を現す。嶽木は「嫉妬なんかじゃあないさ」というものの、頬を膨らませてプイとそっぽを向いた辺り、やはり少しは悔しかったのだろう。
「とーこーろーでー」
猫のように伸びをしながら杏虎が言う。
「これでとりあえずは今回の怪事解決ってことでいいのかな、先生。『音楽室の怪』は解決、もう夜の音楽会終了ってことでお二方納得でオーケー?」
そこで「姉さん」と火遠が促すと、嶽木はちらりと杏虎を、美術部を振り返ってぼそりと言った。
「その気がなくてももう解散さ。見てごらん」
言って、ピアノの方を指さす。
全員がピアノに注目すると、そこには穏やかな笑顔で微笑む幽霊少女の。しかしその姿はいつにも増して透けていて、殆ど背景と同化しつつあった。半透明が透明に。普段姿を現さない彼女の姿が消えたって、何ら不思議なことはないのだろうけど。今目の前で起こっている透過は、単に姿を消すだけのそれとはなんだか様子が違うように思えた。
幽霊少女は鍵盤を鳴らす。
高いドの音の後、『ありがとう』の言葉。
「どういう、こと……?」
不安そうな眞虚に補足説明するように、嶽木は言う。
「彼女は、二十年前の在学当時、あちこちのピアノコンクールで賞をもらう程の腕前だった。だから必然的に、その年の合唱コンクールの伴奏も任されていたんだ。だけど――」
そこで一旦区切って、声のトーンを落とす。
「――だけど彼女は、同時に持病を抱えていた。普段は何とも無かったんだけど、その日。合唱コンクールの前日に限って酷い発作が起こってしまって、そのまま……」
嶽木は暗い顔になる。ほとんど消えかかっている幽霊少女もさびしそうな顔をしていた。
「その時彼女がクラスのみんなと一緒に本番を迎えられなかった曲が、『怪獣のバラード』なのさ」
辛そうな二人を察してか、それを言ったのは火遠がだった。
その言葉に、美術部は。何故歌で勝負させたのか、漸くその意図に気付いて納得する。
「……とても仲のいいクラスだった。本当は当時の彼女のクラスメイトがよかったのだけれど、大人になったら人間なんて散り散りさ。みんなみんな子どものころとは変わってしまう。当時のままのクラスメイトはもう集められない」
嶽木の言葉に続き、低いシの音。
『そのことがずっと哀しくて。とても、とても心残りだった』
直後、高いソの音。
『でも、もういいの。あの時の曲を、中学校のあの時の、合唱曲の伴奏を弾けたから。いいの。沢山拍手も貰っちゃった。私、嬉しかった』
少女はにこりと微笑む。そしてより薄くなり、いよいよ消えてしまいそうだ。
眞虚は言う。
「ねえっ!……消えるのって、消えてしまうのって怖くないの!?」
高いレの音がそれに答える。
『だって私、もう死んでるから。ずうっとふらふらしてたら、お父さんやお母さんに怒られちゃうでしょ?』
はにかむ少女の目には、しかし涙の粒が浮かんでいた。
ポロロンっと連弾の音が鳴る。
『さよなら嶽木。ありがとう美術部。きっと生まれ変わっても忘れない。……じゃあねっ』
幽霊少女は消えていく。手を振りながら初めからなかったかのように消えていく。
ピアノの音も、少女の声も、もう聞こえない。
目に今にもあふれ出しそうな涙を浮かべた眞虚の肩に、深世がそっと手を乗せる。
「……怪事、これにて」
――一件落着。
乙瓜の言葉が少しだけしんみりとしてしまったステージの上に響き渡った。
夏の長い夕終わり、沈む西日は赤赤と。
巣に変える鴉が一羽二羽、カーァカーァと鳴いている。
「もう、鴉は怖くないのかい?」
彼女が自転車を押す後ろから、もう一人の彼女は言う。
「もう平気。もう慣れた」
車輪は回る。カラカラ、カラカラ。
彼女は言った。
「まだそれ、持ってたんだね」
「友達から貰ったものなんだ、棄てやしないよ」
もう一人は笑った。カラカラ、カラカラ。
「また会えたね、――遊嬉ちゃん」
にこりと笑う緑色と相乗り。戮飢遊嬉は自転車に跨った。
「相変わらず優しいことで」
チャリンチャリンと自転車は行く。
(第五怪・最後の奏楽、楽器の歌声・完)