怪事戯話
第四怪・放課後の狩猟者②

 放課後の階段、放課後の怪談。
 古霊北中の階段は、隠れた闇のスポットだ。西階段と東階段と二つの階段があるが、どちらも常に薄暗い影に覆われている。明かり窓はあるのだが北向き故に殆ど意味をなさず、蛍光灯もあるのだが、冬場の本当に暗くなる時期にしか点けられることはないという。それは何も北中ここだけではなく、多くの学校がそうなのではないだろうか。鉄筋コンクリートの、昭和の、戦後の、あの時代の匂いが染みついている校舎の、多くが。
 真っ暗闇ではないが、常に一定のかげが連続して存在できる場所。それが階段。
 例えば、異世界に通じているだとか。例えば、階段の段数が増えるだとか。古い学校には階段にまつわる怪談が幾つか存在する。もしかしたらそれは、階段という闇のスポットに対する本能的なおそれが生んだものなのかもしれない。

 そんな階段の踊り場おどりばに、乙瓜と魔鬼は立っていた。
 二階西女子トイレの脇、一階へ下る階段の中点。一階から昇っていくと視界の正面にあたる壁には、大きな姿見が張り付けてある。消えかかった文字を頼りにするなら、もう何十年も昔の卒業記念に寄贈されたものらしいが、そんなことは二人にとってどうでもいいことだ。
 一階でも二階でもない半端な位置に立ち、上の廊下にも下の廊下にも通る人影と気配がないことを確認し合うと、一階に降りる方の階段へと向かい、目を閉じた。
 並んで右側に魔鬼、左側に乙瓜。手を繋ぎ、さらに魔鬼は階段内側の手すりを掴んだ。
「……いくよ」
「おう」
 目を閉じたまま慎重に一歩、また一歩。ゆっくりと、踏み外さないように階段を下りていく。

 二人は何も、遊んでいるわけではない。この学校に伝わる「てけてけ」の召喚方法を試みているのだ。

 その話を聞いたのはたしか、五月の末だったか。
 戮飢遊嬉は、いつもの美術部怪談の中で、ふと語ったのだ。

 ――てけてけっているじゃん。あの、都市伝説の。下半身だか足だかがなくて、手で移動するっていうお化け。噂が広がる過程で学校の階段にも取り入れられたお化けなんだけど、あれはこの辺の学校にも出るらしいのね。
 放課後、一階と二階の間の階段で。踊り場から目をつぶって、一階に向かって一言も喋らずに、一歩、二歩、三歩……って降りていくじゃん。するとぺたぺたって音がするんだって。
 ちょうど床を素手で触った、あんな感じの音。ぺたり。遅れて、引きずる音。
 聴こえても、まだまだ振り返らないで。まだ一歩、二歩、でも踏み外さないように降りて。……すると、音がついてくる。ぺたりぺたり、ずるりずるり。音がどんどんついてくる。
 振り返らないで。立ち止まらないで。目を開けないで。どんなにゆっくりでもいいから、階段を降り切って。降り切らないとダメ。
 階段を下りて、一歩、二歩、三歩。トン、トン、トン。全ての階段を降り切ったら、振り返ってもいいよ。するとね。
 髪の長ーい、でも下半身のない女の子が、階段をずりずりって降りてくるの、見えるから。

 このような話だったと、二人は記憶している。
 オチはたしか、全力で走って目の前の昇降口から逃げれば助かる、だったか。本来てけてけは召喚型の怪談ではないのだが、遊嬉の話が本当ならこの界隈かいわいでは階段を使って呼び出せる(?)のだろう。
 まあ、都市伝説なんて総じて後付満載だ。噂に尾鰭がついてだんだんと進化していく、そういうものだ。胡散臭いと疑ったところで何が始まるでもないし、とりあえずやってみるのが吉。
 そんなわけで、彼女たちは階段を降りているのだった。

 ……トン、……トン。
 閉ざされた視界。見えない先。等高ならまだしも、下り階段という足の降れるもののない場所に一歩を踏み出すのは、なかなかに恐ろしい。
 前方が見えている時ならばさっと昇降できてしまうような段差が、今は足の先の神経に集中してやっと一段。且つ、「声を出してはいけない」というルールに従い、気配と音だけで互いの状況を把握しなくてはならないという制約が付きまとう。
 相手より早くても駄目。相手より遅くても駄目。声をかけてタイミングを合わせても駄目。僅かな衣擦れの音と上履きのゴムの音を頼りに、闇の中を、下りる、降りる。
 そして、何とか六段ほど下った時だろうか。それは唐突に訪れた。

 ぺたり。

 ……音。音。異音。

 二人の立てる静かな音に混じって、一つ。小さな音が、異質な音が、落ちる。

 ――来た……!
 先に思ったのは魔鬼か、乙瓜か、それとも両者同時だったか。
 しかし一声も発せられない彼女たちは、口中の唾液を飲み込むことしかできない。

 来た。居る。後ろに、いる。
 踊り場の上から強烈に嫌な気配を感じながら、しかし二人には前進すること以外の選択肢はない。

『聴こえても、まだまだ振り返らないで』

 降りるしか、ない。

 一歩、二歩。
 ぺたり、ずるり。ぺたり、ずるり。
 音はついてくる。気配を隠す事もせず、それでいて急に襲い掛かってくる風でもなく。じわじわと追い詰めるように追ってくる。

『振り返らないで。立ち止まらないで。目を開けないで』

 一歩、二歩。
 ずるり、ぺたり、じゃらり。ずるり、ぺたり、じゃらり。
 ついてくる。途中から鎖のような金属的な音を混ぜながら、しかし止まらない。ついてくる。
 互いにつないだ手と手を無意識に強く握りしめる。

 一歩。十一歩目。あと一歩。
 じゃらッ……がしゃん。ずるり、ぺたり。
 勢いを持って金属が跳ねる音。引きずる音。掌の音。硬質な音。鈍重な音。柔らかく冷たい音。

 一歩。十二歩目……! 一階の床!

 そこからの行動は、恐ろしく速かった。
 どちらもスイッチの入った機械仕掛けの人形のようにカッと目を見開き、あれほど固く繋いでいた手を振りほどく。目と鼻の先には昇降口の下駄箱。何とも言い難い奇声をあげつつ滑るように廊下を横断すると、昇降口の邪魔な柱の前でくるりと方向転換。両者ともども階段から十分な距離を保って振り返った。
 襲われた野生動物のような顔つきで二人が凝視する先には。

 和製ホラー映画の中の怨霊のような長い長い髪と、死体のような土気色の肌の手。髪の長さだけなら花子さんといい勝負だが、埃をかぶった蜘蛛の巣のような灰色のそれは、重力に逆らうことなく垂れ下がり、それの顔を覆い隠している。
 纏っているのはセーラー服だろうか、しかし引きずられたせいかボロボロだ。そしてそれは上半身にしか着せられていなかった。といっても、下半身裸なのではない。
 ないのだ。五体満足の健常者ならあるはずのところに、しかるべきところに、ないのだ。――下半身が。

 髪の長い、下半身のない女の子が。階段を、手だけで、体を引きずりながら。降りてきていた。

「あれが……てけてけ……!」
 乙瓜が呟く。するとそれ・・は呼応するかのように顔を上げた。
 にこりと笑う顔があった。荼毘だびに付される前の死人のような顔色だった。黒々と大きな目には生気がなく、死んだ魚か人形の目玉の様だった。
「……おうおう、花子さんがアレだからもっと生物生物してるのかと思ってたら、思ったより生ける屍リビング・デッド寄りじゃあないか」
 呆れと焦りの中間くらいの表情を浮かべる魔鬼の手の中には、既に得物の定規が握られていた。なにかしてこようものならいつでも戦れる、臨戦態勢だ。
 一方の乙瓜も、スカートのポケットに手を突っ込んだ状態で身構えていた。その中に札が入っているのだろう。
 場に緊迫した空気が流れ始める。てけてけはその顔に死んだ笑顔を能面のように張り付けたままで二人を見上げ、階段から降りる手を止めている。
 しかしそれも束の間。てけてけは再び始動する。虚ろな目で二人を捕えたまま、細い手をぬぅっと突き出す。ぺたり、と。階段を終えて一階の床につけた手の指先はすりむけていて、ひどくボロボロの様子であった。
「来るのか……来るなら来いッ!」
 乙瓜がポケットから何枚かの札を掴み、取り出そうとした瞬間。

 じゃらり、じゃらり。
 階上から金属の。
 ぺたり、ぺたり。素手か素足か、生肌が床と触れ合う音。
 引きずる音はない。ゆったりとした、けれどもてけてけよりもはるかに速いテンポの音。
 音が来る。二階から。てけてけの上から。音が来る。
 それはすぐに降りてきて、てけてけの一歩分後ろに立っていた。

「なっ……?!」
 乙瓜が驚愕の声を漏らす。
 魔鬼もまた目を見開き驚嘆をあらわにする。

 真っ白な素足。真っ白なシャツ。真っ白な髪の毛。真っ白な目。細い体躯。
 薄暗がりの中に姿を現したそれは。

「火遠……?」

 心なしか火遠に、火遠と水祢の兄弟に。――良く似ていた。

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