怪事戯話
第二怪・見ずの訪れ、水の音すれば③

 いない、やっぱりいない。
 可能性可能性、他の可能性はどこにどこに。
 ――気配。
 やはりあの女、あの近く……! そうだ、そうだそうだそうだそうさ、きっと兄さんは、きっとそこにいる。

 行かなくちゃ。まってて……。

 今、行くからね。


 美術室。まだ他の部員が誰一人として訪れていないそこに、乙瓜と火遠の一人と一匹だけが存在していた。
 室内の電気を付けて荷物を置き、いつもそうするように檜の作業椅子に腰掛け、同時に六人程度は作業できる広い作業机に手をついた乙瓜の眼前には、火遠がふわふわと浮いている。
 両手で頬杖をつき布団に寝転がるような体勢でふわふわと浮いている人間大の妖怪の姿は、そう言うモノだと一応理解したとはいえ、やはり妙だった。

「……解決って、つまり退治だろ? おまえ自分の弟やっつけても別に構わないのかよ」
 乙瓜はだるそうな調子で宙に浮かぶ妖怪に語りかけた。
「お生憎さま、少なくとも俺たちの種族には家族の概念ってものがよくわからないんでね」
 当の妖怪はけろりとした様子で言い放つ。直後に「ただ、仲間という概念ならあるかもしれないけどね?」と付け加えはしたものの、あんまりにもあんまりではないかと乙瓜は思った。
 弟……水祢と言ったか。短い遣り取りしか交わしていないとはいえ、あちらの兄に対する執着は火遠の語るような「仲間」への感情とはまた違うように感じられたが。
 妖怪というモノはよくわからない。まあ、本格的に遭遇したのがつい昨日なのだから、わかっていたらそれはそれで凄いのだけれど。かといってこの先わかりたくもないというのが、乙瓜の率直な意見だった。
「ふむ。君は今とても失礼なことを考えているね乙瓜。まあそれ事態は別に構わないけれど、一つ大きな勘違いをしているようだから訂正しておこうか?」
 火遠は右の手の人差し指を立てた状態で、ぴっと乙瓜の顔の手前に付きだした。
 本当に顔面すれすれで乙瓜は本能的にびくりとしたが、大袈裟に反応したら恥ずかしいと思って難でもない風を装い「なんだよ」っとだけ言っておく。
 そんな乙瓜の内心を見透かすように火遠はにやりとして続けた。
「怪事の解決は何も原因が再起できないようにこてんぱんにしてしまう事じゃないのさ。只少しだけ懲らしめてやればいい。倒すということは殺すということとは大いに違う。つまり俺は水祢を殺せと言ってるわけじゃない。あの少し神経質で思いこみが強くてちょいとばかし鬱陶うっとうしい弟を懲らしめて欲しい、それだけなのさ」
「……へえ。ようはちょっと懲らしめればいいのか……っておい、何だかんだで鬱陶しいとか言ってるじゃないか、本当はついでに厄介払いが出来たらいいなとかそういう魂胆なんだろ?!」
「さあてね。知らないね」
 とは言うものの、火遠は思いっきり乙瓜と目線をそらしている。
 ――な、なぐりてぇ……!
 しかし乙瓜は腹の奥底からわき上がってくるイライラを必死で飲み込んで抑えた。それは我慢したからではない。何だかんだでこの妖怪と出会ってからまだ24時間も経っていないし、出会いが出会いである。また命の危険を感じるような場面になったらどうしようという思いが一瞬彼女の脳裏に過ぎったからである。
「……ていうか、懲らしめるっても一体どうしたら――」
 相手は妖怪。人間とは違う存在。異質体イレギュラー。昨晩の火遠の様に人には及ばない力を振るわれたらどうしようもないじゃないか。
 自分は人間。確かにちょっと変梃な目を貰いはしたけど、只の人であることに相違ない。ゲームじゃないのだから、望めば力が手に入るとか、そういう都合の良い展開もない。
 唯一対抗できそうな人物を挙げるなら、経緯は知らないが己の事を魔法使いと言っていた黒梅魔鬼くらい。だが、頼り切りというのは無理があるのというのは、言われなくても解っている。
 一体どうしたら――、そう乙瓜が言いかけた時。
 
 ガラッ。  
 美術室の白く塗られた木製の引き戸が、勢いよく開いた。
 
「しつしまこんにちやっほーーー! 一年・戮飢遊嬉推参致しまーしたーー!」
「遊嬉テンションたけー」
「えと、失礼しまーす」
「あー、先輩達いないねー」
 入ってきたのは乙瓜と同じクラスの美術部四人組。戮飢遊嬉と白薙杏虎、そして小鳥眞虚と歩深世だった。
 何故か妙にテンションの高い遊嬉は兎も角、残りの三人は至っていつもと同じ状態だ。普段一年が屯っている窓際の机に一人ぽつんと居る乙瓜を見つけると、各々思い思いに話しかけてきた。
「ちょーっと乙瓜ちゃーんはさー、何でもーいつも一人で行っちゃうかなあ。同じ教室なんだから部活くらい一緒にいこーぜ!」
「う、うん」
 指でつんつこつんつこと突くという過剰で不思議なスキンシップを取る遊嬉に圧倒されながらも、乙瓜は「そういえば火遠の奴は?」と辺りを見渡す。
 火遠の姿は何処にもなかった。恐らく他の部員が来た一瞬で姿を消したのだろう。……器用な奴め。
「何を探してるんだい?」
 乙瓜の様子に杏虎が何と無い風に話しかけて来るが、よもや「妖怪の所在を確認している」とは言えないので「ちょっと塵? が目に入ってさ」と、愛想笑いで曖昧な返事を返すしかなかった。
 しかし一瞬の後、最初自分は妖怪の事を話すつもりじゃ無かったっけ? 完璧にタイミングを見失ってしまった……。と、乙瓜は少し後悔する。
 仕方ないので魔鬼が来るまで待つかと思い、話題をそらすことにした。
「そ、そういえば魔鬼は? 今日遅いな」
「んー魔鬼ちゃんー?」
 眞虚が答える。
「なんか放送委員会で急な呼び出しがあって少し遅れるんだって」
「そうか……いや、ありがと」
 乙瓜は魔鬼が放送委員会に入っていたことを完全に失念していた事に気付く。放送委員会は毎日の校内放送に関わってくるから臨時の呼び出しが割と多い方なのだ。
 せめて証言者が後一人いれば話しやすいのにと、乙瓜は己の意思の弱さを呪った。
 そんな時。

 ズスーッ……ガラガラッ

 鈍い摩擦音を立てながら、美術部の扉がゆっくりと開いた。
「噂をすれば魔鬼かな?」
 なんて、遊嬉が入り口の方を見遣る。続いて深世が、杏虎が、眞虚が、そしてワンテンポ遅れて乙瓜が目線を向ける。
 だが、そこにいたのは魔鬼ではなかった。かといって、美術部の先輩の誰かでもなかった。

 黒の、しかし何処か青みがかった短髪。双眸そうぼうは光の射した海中の如く青く輝いている。
 白いワイシャツに黒のネクタイとベストにハーフパンツ、膝丈ひざたけのソックスと、学生のような出で立ちではあるが、勿論この学校の制服ではない。
 背丈はそれほど高くなく、陶磁器のような青白い素肌は少しでも強い力をかければ壊れてしまいそうにすら見える。
 そんな少年が、扉からすぐの所に、佇んでいた。

 彼は大きな瞳で美術部五人の居る方を見遣って開口一番にこう言った。
「兄さんを…………返して!」

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