怪事戯話
第一怪・現世に怪事ありて④

 ――十分前。

 烏貝乙瓜は美術室の前にいた。魔鬼に借りた鍵で南京錠の施錠を解き、恐らく美術室に忘れたと思しき己の自転車の鍵を探すために、だ。
「ちょっと失礼しますよー」
 静かに入り口の引き戸を明けながら、いつもの癖からか、或いは真っ暗な領域に立ち入る心細さからか口をついた挨拶の言葉。当然、外から閉めきられた真っ暗な中に人などいないので、乙瓜の挨拶に応える者はいないし、居よう筈もない。
 ――まあ、当然だよな。そう思いながら乙瓜は辺りを見回す。
 少し見渡すと、闇の中でチカチカと幽かに光るものが目に入る。
「ん」
 一瞬何かと考えるも、すぐに鍵には暗所で点滅するマスコットの付いたストラップを付けていたな、ということに思い至り、乙瓜は光源に近づく。
 当然というか案の定というか、光るそれは紛うことなき己の自転車の鍵だった。
(案外簡単に見つかったな、ストラップ付けといて良かった)
 安堵し、鍵をポケットに仕舞う。
 これで安心して帰れるな。戻ろう。

 そして乙瓜が踵を返そうとした、その時のことである。

 ――クスクス。

「!?」
 不意に背後に何者かの気配を感じた気がして、乙瓜は振り返る。
 美術室は乙瓜が来るまで無人だった。そして乙瓜の後に入って来た者はいない。つまり今美術室ここに居るのは乙瓜只一人だけである筈である。否、そうでなくてはならない。
 それを肯定するように、乙瓜の振り向いた先には誰も居ない。何も居ない。本棚には全校生徒分のスケッチブックや美術資料が整然と並び、壁には生徒の作品や有名絵画の贋作が、棚の上には物言わぬデッサン彫刻が並べられているのみ。
 静寂。
 美術室の中は耳が痛いほどの静寂と暗闇に包まれている。そう。乙瓜の他に人などいない。いようはずもない。
 ここには何の異常も異変もない。ここは人がいないだけの、至って普通の美術室だ。
「なんだ……気のせいか」
(暗闇が怖いだなんて、俺も案外臆病みたいだな……)
 何もないことに安堵して、乙瓜は今度こそ退室しようとし――

「気のせいじゃあ、なかったらどうする?」

 不意打ちのように背後からかけられた第三者の声に、乙瓜は今度こそ心臓が止まるかと思った。
 そこか反射的にばっと振り返る。顔が浮いている。人の顔だ。おぞましい化け物の顔ではない。薄暗い空間に白い顔が茫と浮かび、しかし生首ではない。体も生えている。
 だが安心より先にその体が「ヘン」な事に気付く。体勢が明らかににおかしい。ねそべっているような体勢だ。自分の背後に、この高さで寝そべれるような台はない。乙瓜には解っている。解っている……!
 その時になってやっと乙瓜は『それ』は宙に浮いているのだということに気付く。人のような姿をした『それ』は羽もないのに宙に浮かび上がっているのだ……!

「なっ、ななっ!?」
 見て気付くのと脳が理解する時間差タイムラグからか、乙瓜がやっとリアクションらしいリアクションを取ったのは、最初に『それ』の声に振り向いてから悠に数十秒が経過した後だった。
 盛大に尻餅をつき、そのままずりずりと一二歩分だけ後ずさる。
 それはそんな乙瓜の様子を面白おかしそうに眺め、ケラケラと笑った。小馬鹿にされているような様子に乙瓜は少しむっとして、『それ』を睨む。その段階になって、漸く乙瓜は『それ』の全体を認識した。
 重力に反して宙に浮かび上がるように揺らめく、異様なまでに長く赤い髪。ワイシャツとネクタイ、下は黒のホットパンツと同色のニーソックス。学生のようでありながら明らかに一般の学生と一線を画する服装が、脂肪を必要最低限まで削ぎ落としたような細身の躰を包んでいる。顔は少年のようにも少女のようにも見え、体つきと相俟って一見しただけでは性別の判断は付かない。
 だが、その顔の下部で嘲笑うかのようににぃと弧を描いた口が、乙瓜にはどうしようもなく嫌らしく見えた。下品ではないが生理的に頭に来るような笑み。
 ……殴ってやりたくなるような顔だ。少なくとも、乙瓜が抱いた第一印象はこうだった。

「……存外、驚かないねぇ?」
 反応が思ったより薄いことが不満だったのか、『それ』は口の弧を崩して不思議そうに首を傾ける。
「生憎とあんたの顔見てたら恐怖も何も薄れたわ」
 乙瓜は憎まれ口を叩くと、スカートの埃をパンパンと払いながら立ち上がった。
「で、結局あんた何者なんだ。少なくとも人間じゃないな?」
「そりゃァそうさ、それとも空を飛ぶ人間フライングヒューマノイドを見たことがあるのかい? お嬢ちゃん」
「ねーよ。だから割と真面目に心臓止まるかと思ったじゃねーか。それで、結局なんなんだ、あんた。質問に答えろよ。……まさか本当に幽霊って奴なのか?」
「幽霊? 幽霊だって?」
 何が笑いの琴線に触れたのか皆目検討が付かないが、『それ』は突如として大笑いをはじめた。
「そんなモノと一緒にされたんじゃぁ困るぜ」
 そして可笑しいのを抑えるのが辛いと言わんばかりの仕草で腹を押さえ、一寸の間を置いて語りはじめる。
「お嬢ちゃん、俺はね。幽霊なんて中途半端なモノじゃァないさ。それよりももっと上位の存在。産まれながらにしての怪異。人外。人ならざる超常怪奇の権化。――妖怪さ」
「はあ!? ようかい?」
「そ、妖怪。お嬢ちゃん達のお陰でやっと封印が解けて出てこれた。その点については感謝しているよ」
 ありがとう、と『それ』こと妖怪は丁寧で態とらしく一礼する。しかし乙瓜には何のことだかさっぱりわからない。その筈だ。いきなり妖怪なんていう、お話の中にしか出てこない存在に絡まれたって訳が分からないだろうに。
「……封印だか何だか知らねぇが、こっちは急いでるんだ。帰らせてくれないか」
 とりあえず「はいはいわかったわかった」と言わんばかりの態度で、待っている魔鬼の所へ帰ろうとする乙瓜。しかし。
「いやいや、誰が帰っていいなんて?」
 妖怪は当初のお茶目なのか悪ふざけなのか解らない態度から一変、冷たい声音で言い遣る。
「記念に一つ教えてあげよう。俺はね、『妖怪を狩る妖怪』なのさ」
「だからどうしたってんだよ! そんなこと関係ないねっ、帰る!」
 無視して出口に向かう乙瓜を冷たい目で見ながら、「無駄だよ」と一言。
 その瞬間、平凡でありふれた美術室の空間が変質する。
「……っ、あれっ!? 扉がっ……開かな……ッ!?」
「だから無駄だって言ったじゃないか。美術室ここの空間は閉じられた。もう出られないよ?」
「なんだと……あっ!?」
 取っ手を掴んでいた手に異様な感触を感じ、乙瓜は気付く。扉が開かなくなっただけではなく美術室自体が全く未知の異界へと変貌を遂げていることに。
 壁は赤一色の奇怪な光景を映し出し、魚の形をした黒い影の群れが泳ぎまわっている。ほんの少し前まで取っ手だったはずのモノは古びた樹の根とも葦ともつかぬものに変わり、扉は完全に消え失せている。

「ようこそ、アヤカシの世界へ」

 赤と黒の二色に浸食された世界で、赤い妖怪は禍々しく嗤った。

「……巫山戯るなよ妖怪。一体何様のつもりだ」
「なーに、目覚めの運動に一狩りいこうと思ってね」
「意味不明なこと言ってんじゃねぇぞ妖怪。『妖怪を狩る妖怪』だァ? っざけんな! 俺は普通の人間だ! てめェの趣味に巻き込むな!」
「普通の『人間』ね……。……ふむ、勘が外れたか? ……でもこの気配は確かに……。まあ、斬ってみればわかるだろ」
 怒る乙瓜に何やら腑に落ちない顔をしつつ、妖怪は一人で勝手に納得し、事を進めようとしていく。
 一方、乙瓜の方はというと、理不尽に閉じこめられた怒りは勿論そう簡単に鎮まるものではなく更に訳も分からぬままで未知の世界に引きずり込まれてしまった事による焦りも混じって、内心相当なパニックに陥っていた。
 ――どうする? どうするどうするどうするどうする!!?
 考えれば考えるほど混乱する思考。
「さよなら。恨むなよ、お嬢ちゃん」
 いつの間にかどこからか取り出した大鎌の刃を振り下ろさんとする妖怪。
 ――なんで。どうして。一体どうして。死ぬ? 死ぬ? 俺が、私が、死ぬ? 殺される? 何で? 私がなにをしたっていうの? どうして。ふざけるな。こんな所で? こんな場所で? 死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ、死ぬのは嫌だ、いやだ、いやだ、イヤだ、イヤだ、いや、死にたくない! 嫌だ! 嫌だ! ……嫌だッ!!
 ……ころん。
 その時、乙瓜の指先に冷たいモノが触れた。
 長く細く、鉛筆のような、否、鉛筆ではない。もっと重く、固く、鋭利な――

 乙瓜は藁にも縋る思いで無我夢中でそれを掴み、そして。

 ぐさり、と。

 妖怪の左目に突き立てた。

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