夢想に続く一瞬の暗闇の中に、乙瓜の瞳は何かをみつけた。
本来そこに在るべきではないものを。そもそも現世とは異なる夢想世界の事なんて知るはずのない乙瓜だったが、本能的に感じ取れた。
闇に潜む赤い光。
丁度何かの眼のように、二つ並んで輝くそれを確かに見て。乙瓜はふっと振り返る。
……だが、そこにはもう赤の輝きはない。
代わりに砕けた心の欠片が心許ない白を瞬かせる、夢想の世界が広がっていた。
「っと。ここが魔鬼の夢想の世界かー。……っても、見てくれはこないだのエリーザの世界と変わらないけど」
遊嬉は辺りを見渡すと、それから思い出したように尻を擦り、憎々し気に「あんにゃろー」と呟いた。
「何も叩き飛ばす事ないじゃんねぇ? ……ねえ?」
「うん? あ、ああ! そうだなっ!」
同意を求める遊嬉の言葉に我に返り、乙瓜は慌てて振り返った。
遊嬉はそんな乙瓜の様子に「なにぼーっとしてんのさー」と呆れるも、すぐに一つ息を吐いて、「まあいいや」と光の欠片に向き直った。
「ここであたしらがやるべきことはたった一つ、この欠片の中から魔鬼の核となり得る思い入れの深い一欠片を見つけ出すこと。あの悪魔がメリットとかなんとか言ってたように、ここにある欠片は前の時よりは多くない……ように見えなくもないか」
「……見えなくもないって……、まあ、見えなくも……ないな」
頼りない言葉を吐きながら二人の見渡す周囲には、正直エリーザの時と大差ないようにしか見えない量の欠片が蛍のように明滅している。
少ないと言われれば少ないような気もするが、あくまで気がする止まりである。
「もしかして協力的なフリした嫌がらせなんだろうか……。前回の時にヒント出せとかしつこく言ったからか?」
「いやまだ早い、悲観的になるのまだ早いよ乙瓜ちゃん! ……でも参ったなァ。ゲームだったらハードモードばっちこいだけど、これはちょっとノーヒントが過ぎますぞ……?」
「だろ? だろ? ねえこれ嫌がらせ? 新手の嫌がらせ!?」
二人が揃って困り顔を浮かべていると、その間にどこからともなく一枚の紙が落ちて来た。
重力なんてあってないような世界の中でひらひらと舞い落ちるものに気づいた乙瓜は、何の気無しに紙をキャッチし、凝視した。
「何それ?」
「いや、何か書いてあるっぽい」
覗き込んで来る遊嬉にそう答え、乙瓜は紙に書いてある文章をたどたどしく読み上げた。
「『欠片のさがしかた。学校行事、些細な会話でもいい。クロウメマキの人生が変わる程の思い出、なんでもいいから思い当たる事を言え』……なんだこれカンペ? ヒント?」
「ヒントっぽいねえ」
「ノーヒントとか言って結局ヒントくれるのか……優しいな」
「存外見守ってるのかも知れないね」
乙瓜と遊嬉は紙の落ちて来た天面を見上げ、恐らくどこかでこちらの行動を見守っているであろう夢想世界の主に感謝の意を伝えた。
……ついでに「嫌がらせとか言ってごめん」とも。
「さぁって、今度こそちゃんとやり方が分かった事だし、とりあえずまあやってみよっか」
「おう……だけど遊嬉、魔鬼の印象に残ってそうな事について何か心当たりあるのか?」
「んーまあ、一応保育園から一緒なわけだから、ある程度は。……つっても、家庭の事情とかになってきたら流石にわかんねーけどさー。……いや、待てよ」
遊嬉はそう言って、少し考えるように虚空を見てから、改めて乙瓜に言った。
「例えばさ、乙瓜ちゃんは今まで生きて来て一番今日までの自分の根幹になってるんじゃないかって思う経験って何さ? こればっかりは忘れない思い出っていうか、人生を変えたような出来事とか」
「ほぁ!? え、なんで俺の、えっ!?」
藪から棒な質問を受けて素っ頓狂な声を上げる乙瓜に、遊嬉は「何でもいいから言ってみ」と詰め寄る。
乙瓜はたっぷり目を泳がせた後、「分かったよ」と頷き、少しの間記憶をたどるように黙り込んでから口を開いた。
「急に聞かれても何が一番だなんてわかんねえけど……でもそうだな。人生が変わったかどうかで言うとやっぱアレじゃないか……? 火遠の奴との契約――」
乙瓜がそこまで話すと、遊嬉はパチンと指を鳴らした。まるで我が意を得たりとでも言うように。
しかし唐突なその行動に乙瓜は目を丸くして、改めてまじまじと遊嬉の顔を覗き込んだ。
その視線の先の遊嬉は不敵に微笑むと、ピストルの形を作った手を乙瓜に向けた。
「それ! それだよそれ!」
遊嬉は興奮気味にそう叫ぶと、今の一瞬で頭にたくさんのクエスチョンマークを発生させている乙瓜に対し、その理由を語り始めた。
「わざわざヒントに書いてあるくらいだから、『人生が変わる程の思い出』ってのが鍵なんじゃないかとあたしは思ったわけ。それで、単に印象に残りそうな事なら入学式に卒業式に、遠足とか運動会とか家族旅行とか色々と思い浮かぶわけなんだけどそれが『人生が変わる程の思い出』になる人ってのは早々居なくない? って。だけどさ、何かが劇的に変わったっていうのなら、あたしは魔鬼に関して一個だけ思い当たる事があるワケよ。多分、乙瓜ちゃんも」
銃口の人差し指から見えない何かをバァンと放つと同時、遊嬉は核心を言葉にした。
「魔法だよ。魔法に関する思い出だ。それも多分、始まりの」
刹那、ひときわ大きな欠片が二人の前に浮かび上がり、その内側から眩い閃光を放つ。
それは、魔法使い・黒梅魔鬼としての始まりの欠片。まるで新星爆発の如き鮮烈な光に包まれて、乙瓜と遊嬉はその記憶の中へと飛んだ。
さらさらと流れる川の水は傾きかけた太陽を映して橙に輝き、対岸に並ぶ杉木立には蜩の声が谺する。
彼方の空にはもくもくと聳える入道雲。遠くのエンジン音と共に、橋を渡る軽トラックの影一つ。
近くて遠い、いつか昔の夏の夕べ。どこか川の畔。
幻めいた川の輝きを裂いて、小さな石がパシャパシャと跳ね、ぽちゃんと沈む。
石を投げたのは少女だ。
小学校の中学年くらいだろうか。肩で切りそろえた黒髪に、ぱっちりとした愛らしい瞳。
彼女は不機嫌そうな顔を浮かべて、たった一人で水切りをしていた。
邪魔なランドセルと帽子を川辺に置き、適当な石を拾っては投げ、拾っては投げ。
まるで何かに八つ当たりするように、少女はそれを繰り返す。
そんな彼女の背後の土手に、ふと誰かが立ち止まった。
「水辺に一人で遊んでいると危ないよ」
投げかけられた忠告に、少女は手を止め振り向いた。
涼やかな女の声。一体誰だろうと、少女は土手の上を見上げたのだった――。
乙瓜と遊嬉が我に返ったのは、丁度そのタイミングだった。
本来記憶の世界に存在しない彼女たちは、幽霊のような半透明となって川辺の少女――過去の黒梅魔鬼から分裂する。
彼女たちはかつての魔鬼がそうしたのと同様に土手の上を見上げ――驚愕に目を見開いた。
西日を浴びる土手の上に立っていたのは、スーツ姿の女。
鴉のように黒いスーツと同じ色の鞄を持つその女の顔は、少し大人びてはいるものの、黒梅魔鬼によく似ていた。
だが、その女は過去の学校行事でチラリと見かけた魔鬼の母や姉たちではない。
母にしては若すぎるし、姉にしては大人すぎた。それになにより、魔鬼の母たちはそこまで魔鬼とそっくりではないのだ。
だからそう、そこに居たのは『黒梅魔鬼』をそのまま大人にしたような女だった。
「……んなっ、えっ!?」
殆ど意味を成さない言葉を乙瓜が吐くと、記憶の中の女は僅かに瞳を動かし、それから目を細めてニコリと笑った。
ここは記憶の中の光景なのだから、それは魔鬼に向けられた笑みなのであろうが――しかし乙瓜は戦慄した。
(あの女、俺たちを見た……?)
気付くか気づかないかの一瞬、その瞳が確かに自分たちを見たような気がして。乙瓜は己の背筋に冷たいものが駆け抜けていくのを感じていた。
ふと隣を見ると、遊嬉もまた警戒するような表情で女を見つめている。彼女もまた気づいたのだろう。
……だが、こんなことは本来あり得ない筈なのだ。
ここは魔鬼の記憶の中であって、とっくに終わった時間の中であって、決して実際のその時間にタイムスリップしているわけではない。
……だから、あり得ないのだ。この世界の人物が、乙瓜と遊嬉を認識するだなんて。あってはいけない事なのだ。
そう、あってはいけない。ある筈がない。乙瓜は思い直すようにぶんぶんと頭を振った。
(気のせい……か? 川を見た?)
思い直し、乙瓜は再び女に目を向ける。
黒い女は今度こそ魔鬼の方にしっかりと目を向け、記憶の中の異物になど一瞥もくれない。
……やっぱり、気のせいだろう。
乙瓜は少し安心して、魔鬼と女との遣り取りに注目した。――傍らの遊嬉が変わらず厳しい表情である事には気づかないまま。
「水辺で一人で遊んでるのは危ないよ。お友達と来るか、お家の人と一緒に来なさい」
「友達いない。家は今誰も居ない」
改めて注意する女を見て不機嫌そうにそう答えると、魔鬼は再び女に背を向け、足元の石を拾い上げた。
女はそんな魔鬼を見て困ったように腕組みし、己の履いているハイヒールのパンプスに目を落として少し考えるように首を傾げ、それから一人納得するように頷き、草の茂った土手の斜面を下り始めた。
音に気が付いた魔鬼は女が川辺に向かって下りてきているのを見ると、嫌そうに表情を歪め、「こっち来ないでほしいんですけど」と吐き捨てた。
しかし女は構わず土手を下りきり、その場から逃げ去ろうとしたのだろう、ランドセルと帽子に手を伸ばした魔鬼の手を捕まえた。
「ちょ、離して……っ! あんまりしつこいと防犯ブザー鳴らすからな!」
「鳴らしたいなら鳴らせばいいわ。でも、放っておいたらあなたまた危ない所に行って憂さ晴らしみたいな遊びをするでしょう? そうして事故にでもあったらどうするつもりなの? そうでなくても誘拐されるかもしれないのよ?」
「…………。あんたは誘拐しないの?」
「そう言う風に見えるなら、今すぐ防犯ブザーを鳴らしたらいいよ。結果的に人目が集まるなら、溺れそうになっても助けてもらえるでしょうし。ねえ?」
堂々と振る舞う女の姿に、幼き日の魔鬼はいじけたように「わかったよ」と呟き、ランドセルの側面にぶら下がった防犯ブザーから手を放す。
女もまた魔鬼の腕から手を離して彼女の目線の高さに屈み、優しい声音で「なにがあったの」と問いかける。
魔鬼は少しの間言いづらそうに口籠った後、この見知らぬ女に向けて今日の出来事を語りだした。
些細な事で学校の友人と口論になった事。
ささくれ立った気分のままに家に帰ってきたら、普段家にいる筈の祖父母がどちらも不在且つ玄関には鍵がかかっており、益々不機嫌となった憂さを晴らすために、こうして水切りをしていたという事。
ぽつぽつと語ると、魔鬼は再びいじけたように俯いてしまった。
「どうしてけんかになってしまったの?」
女は引き続き優しい声で魔鬼に問う。
魔鬼はそんな女をチラリと見上げ、「笑わない?」と前置きした上で話し出した。
「……アニメのキーホルダーとか下げてるの、ダサいって言われたから。四年生にもなったら、みんなそんなのとっくに卒業してるって。そう笑われたから、カッとなって……けんかになった」
言いながら当時の状況を思い出してきたのか、魔鬼の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
女は泣き出しそうな少女の肩にそっと手を置いて、それから砂利の上に転がったままのランドセルに目を向けた。
赤いランドセルの防犯ブザーの隣には、魔法少女モノアニメのキーホルダーがぶら下がっている。
「好きなの?」
女がそう問うと、魔鬼は口をへの字に結んだままコクリと頷いた。
魔鬼くらいの年頃の少女ともなると、興味の対象は幼年期に憧れがちな魔法少女を離れ、恋愛やファッション、アイドルへと移り変わっていく傾向が強い。
故に揶揄われたのであろう。
傾向や流行の型に嵌らない事は決して悪ではないが、それによって周囲との軋轢が生まれる事は決して珍しくはないのだ。
そんな事情からいじける魔鬼に、女は再び優しく笑いかけた。
それから鞄に手をかけると、その中から一冊の本を取り出した。
「あなたは決してダサくなんかない。好きなものは好きなままでいいの。だから、お姉さんからはこれをあげる。要らなかったら捨ててもいいけれど、どうか受け取って?」
言って彼女が差し出す本は辞書程の大きさと厚さだったが、革張りの表紙背表紙には所々金の箔押しが成され、更には本を閉じるための留め金までついていると云う、大凡務め人風の彼女の鞄から出てくるには似つかわしくない――言うなればそう、まるで魔導書のような様相で。
よろけながらもそれを受け取った昔日の魔鬼は、その魅力的なおくりものに目を輝かせるのだった。
「遊嬉、あれって……!」
唐突に現れた異様な書物に息を飲む乙瓜に、遊嬉は険しい顔のままにコクリと頷く。
「ここが魔鬼が魔法使いになった起点なら、原因はほぼ間違いなくアレだ。そしてあの女の正体は――」
遊嬉がそこから先を口にするより記憶世界の空気が凍った。
比喩ではない。まるでビデオを一時停止したように、魔鬼が、周囲の全ての動くものの全てが動きを止め、川のせせらぎや蜩の声が消え失せたのである。
それを知覚出来たのは、この世界の異物である乙瓜と遊嬉。そして――。
魔鬼に魔導書を渡した女が振り返る。
動くはずの無い過去の映像がくるりと向きを変え、二人の異物に振り返った。
そして乙瓜が驚き声を上げるより早く、黒い女はペコリと一礼し、そして言った。
「――そう。私こそが魔女。魔女ヘンゼリーゼ・エンゲルスフィア」
果たしてそれは、つい先刻まで優しく少女を慰めていた女と同一人物か。黒い魔女は不吉な声音でそう言うと、血と同じ色の瞳を鈍く輝かせたのだった。