怪事捜話
第十四談・メリー・メリー・コールミー⑧

「問題は……メリーさん本体をどうやって呼び寄せるかだよね……」
 眉をひそめて眞虚が見渡す視界の中に、相変わらずメリーさんの姿はない。彼女たち二人の周囲にあるのは結界と、それを破るべくうごめく無数の黒の軍勢だけだ。
 しかし杏虎はそれに関してはさほど気にしていない様子で、どうしたものかと顔を向ける眞虚を見ながら、「大丈夫」と言わんばかりにピッと親指を立てた。
「杏虎ちゃん? 何か考えが?」
「ん、まあ。賭けに近いけどね。一応考えはあるっちゃある」
「一応って……」
 大丈夫なのかと眞虚は思うも、自分から出せる策があるわけでもなく。だが「賭け」と言いながらもあまりにも自信ありげな杏虎の様子を考えて、やがて覚悟を決めたように首を縦に振った。
「――わかった。杏虎ちゃんの考えに賭けてみる」
 杏虎はその答えを聞いてニッと微笑み、それから静かにくうにらんだ。
「ええっとそれじゃあ……そうだね。これからあたしが矢を放つから、眞虚ちゃんは……アレだ。犬神を捕まえた時に使ったとかいう結界の準備してて」
封縛ふうばく結界の?」
「まあうん、そんな感じの名前の奴。それじゃあお願いね」
 己の頭の中にある段取りだけを一方的に話すと、杏虎は弓を空へと向けて構え直した。まさか天を穿うがつとでも言うのだろうか。これから起こそうとしている行動によって何が予測されるのか一言も告げぬままに事を進める友人の姿に、眞虚は呆れた溜息一つ、けれども告げられた通りに新たな結界を展開する心の準備だけを整えた。
(杏虎ちゃんが何を考えているのか正直よく分からないけど、もう乗っちゃった賭けだもんね……!)
「準備出来たよ」と眞虚が告げると、杏虎は弓く右手に蒼い輝きを宿し、矢へと変えて天に叫んだ。

雨月張弓・破魔光矢レインボウ・バスターアロー!」

 刹那光の矢は打ち放たれ、流星の如く尾を引きながら天に大きく弧を描く。それはさながら飛行機雲か、はたまた黒と黄色の世界に生まれた青色のか。そんな異物の誕生を察知してか、結界を崩すことに執心していた黒い軍勢は目のない顔を空へと向け、その侵攻の手を止めた。……まるで呆気にとられたように。それは間近で見守っていた眞虚もまた同じだった。
 杏虎の手の中から打ち放たれた光の強さに圧倒されていた。不気味な二色の世界を裂いて天を目指す破滅的な青色を、只々美しいと思っていた。
 息を呑む。数秒の陶然。その後、眞虚は漸く杏虎の成そうとしている事に気が付き、改めて絶句した。
 彼女は気づいたのだ。――杏虎は妖界を、今はメリーさんによって展開されている・・・・・・・・・・・・・・・・この妖界そのものに攻撃を仕掛けようとしているのだ、と。
 現世と僅かに乖離かいりした妖界は、人ならざるモノたちが身を潜める棲み処であり、狩場でもある。杏虎がしようとしていることは、そんな空間への攻撃である。
 攻撃。そう、『妖界』という空間の攻撃だ。あまりに無茶苦茶で荒唐無稽こうとうむけいな発想であるが、杏虎の中にはそれが可能かもしれないという仮説があった。魔に類するモノを撃ち滅ぼす退魔宝具・雨月張弓。その哲学的とも屁理屈とも云える力を以てすれば、あるいは――と。
 そんな杏虎の攻撃はしかし、妖界の破壊を目的としたものでは無かった。
 杏虎は考えたのだ。ここがメリーさんの領域テリトリーであるならば、その場を荒らされることをあるじたるメリーさんが良しとする筈はないと。
 今現在のメリーさんは、云わば妖怪としての本能だけで動いているような存在であるが、ならば猶更の事、この『場』というものにこだわる筈である、と。
 蜘蛛クモだってアリだって、荒らされた巣をすぐに見捨てたりはしない。余りに壊滅的で決定的な被害でない限りは、また同じ場所に糸を掛けたり、巣穴を修繕しゅうぜんしようとしたりするものだ。
 無論、だからとてメリーさんという妖怪が都合よく領域を守る行動に出るかどうかは未知数だ。――だが杏虎は可能性に「賭けた」。己の推論に賭けて、後はひたすらに矢を射るしかなかった。
あたれ・・・!)
 願い放った矢が黄色の空の彼方に消える。その様を見て眞虚も願う。
「お願い……!」
 祈り呟く言葉が溶け切る前に、塗りつぶされた天面がピシリと音を立て、空に巨大な亀裂が生じた。矢がったのだ。それも、思った以上の威力で。
 亀裂はその起点から二方向に駆け巡り、十秒もかけずに天を二分する。既に割った卵の殻をつなぎ合わせたように走る亀裂。それが見えているのかいないのか、顔のない黒の軍勢たちは混乱するように身を揺らし始めた。
 バラバラに、滅茶苦茶に。まるで彼らの操り主――メリーさんの動揺を体現するかのように。

『ヒび……?』
『ナん、で? どうしテ……?』
『そらガ、ふたツに、なにを……されタ』
『わレる、せカイが…………アア……!』

 黒いモノたちはそれぞれが別々にメリーさんの言葉を吐き出すと同時にバラバラの行動をとり始めた。怒り狂ったようにより一層の力で結界を叩き始めるモノ、同じ仲間同士で潰し合うように殴り合うモノ、何をしたらいいのか分からなくなったように立ち尽くすモノ、逃げ惑うモノ。そこには既に統率された軍勢は無く、恐慌に身を任せて荒れ狂う黒い群衆だけが在った。
「ねえ杏虎ちゃんッ!? これっ、本当に大丈夫なのっ!?」
 不安を叫ぶ眞虚に向き直り、杏虎は「多分ね」と苦笑いを浮かべ、それからキッと眼力を強く辺りを見渡し、やったとばかりにニッと笑った。
だけど・・・当たりだ・・・・……!」
「えっ!?」
 我が意を得たりとばかりにほくそ笑む杏虎の視線を追い、眞虚は再び息を呑むこととなった。
 杏虎の視線を射止めた漆黒の建物の上。現実世界で見れば恐らくコンビニ付近にあった二階建のテナントビルの屋上に該当するであろう場所に、メリーさんの姿があったからだ。
 モノトーンのロリータドレスにハニーゴールドのツインテール。澱んだ瞳で闇の塊の如き地上を見下ろす彼女は何を思うか、小さく口を開いて何事かをブツブツと呟いているように見えた。
 その姿を認めた眞虚は、彼女の名を叫び出しそうになる気持ちをぐっと堪え。代わりに己に与えられた力の名を、魂を込めてぶのだった。

「草萼自律じりつ封縛ふうばく結界ッ!!」

 紺碧こんぺき。杏虎の蒼とはまた違うあお
 対照の行動を縛り封じる術式を与えられて展開された護符群は一纏ひとまとまりの壁となってたちまちメリーさんに襲い掛かり、想定を超えた状況に呆然する彼女の身体を確実に捕えた。
『……っ!』
 メリーさんが何事か思ったように目を見開いた時には、既にその身の自由は無く。連動するように黒い群衆もまた一切の行動を停止した。狂ったように結界を壊しにかかっていたモノも、互いに攻撃を繰り返していたモノも、逃げ惑っていたモノも、そもそも立ち尽くしていたモノも。皆等しく行動を止め、場は驚くほど静かになった。
 それは二人にとっては想定以上の結果であった。なぜなら黒いモノたちの無力化が叶った時点で、この戦闘における二人の勝利は確定してしまったのだから。
 一時は最悪の事態も覚悟した二人にとって、それは嬉しい誤算である筈だった。単にこの怪事を終わらせるだけならば、後はあのメリーさん本体を討てば終わりなのだから。
 だが……彼女たちは互いに相談するまでもなく、己の中でその選択を却下した。

 決めたからだ。メリーさんを救う事を。約束したからだ。
 故に彼女たちは最も楽な解決法を棄て、敢えて不確定な方法に望みを託す。

「杏虎ちゃん、今ッ!」
 眞虚が叫び、杏虎はその手の中に新たな矢を生み出す。そのやじりがメリーさんを捉える射線上に、眞虚は新たに封滅と封壊の護符を喚び出した。
 彼女たちの持ち得る手段はこれが全てだ。この方法でメリーさんを元に戻すことが敵わなければ、後はもう――。
(だからお願い、届いて)
 祈るように目を瞑り、眞虚は己の護符に言葉を載せた。
「届いて。メリーさんの心の欠片に。『くまのぬいぐるみ』の思い出を」
 眞虚は再び瞼を開くと、己の力で縛り付けているメリーさんを見て、それから杏虎に視線を遣った。
「杏虎ちゃん、お願い」
「了解」と短く答え、矢を放つ友人の姿を見ながら、眞虚は静かに決心した。

 もしもこれで駄目だったなら、その時は――と。

 少女が誰にも言わない思いを胸に見守る中で、矢はメリーさんの身体を貫いた。



 バラバラになった世界の底で、引き千切られた欠片が浮かんでいた。
 かつて自分が何者だったかすら思い出せない程に砕かれてしまったそれは、分断された記憶の一部を無限に夢見る。

 その夢の中に、少女が居た。小学校の中学年くらいだろうか。とりわけ美少女というわけではないが愛嬌と笑顔があり、活発で好奇心旺盛……捜せばどこにでも居るような、平凡そうな娘だった。
 だが、彼女の家庭は崩壊していた。生まれてこの方顔も見た事の無い父親、月に数回安物のインスタント食品と僅かな小遣いを置いていくだけの母親。そんな母親が時折連れて来るのは毎回違う男で、彼らの中には少女に暴力を振るう者もいれば、背筋が寒くなるような優しさを向けてくる者もいた。
 故に少女は母親が連れてくる男たちが皆嫌いで、母親の事も大嫌いだった。
 唯一母親をたしなめる事ができた大好きな祖母は、数か月前に写真の中の人間となった。葬儀に参列した『親戚』なる人間は、少女に優しい言葉をかけつつも、棺の中の実母に思いつく限りの暴言を吐く母親を前に、皆こぞって目を逸らした。
 少女に味方は居なかった。少なくとも、彼女に認識できる範囲では。
 母親に怯え母親の男に怯え、人気ひとけの無い家で暮らす少女は孤独だった。

 そんな少女を、それ・・はじっと見つめていた。
 闇の底から、ただひたすらに、じっと。
 それは哀れみの視線などではなく、獲物を狙う獣の視線だった。少なくとも、始まりにおいてはそうだった。
 人間を獲物と捉えるそれは、闇の底から覗き込み、ずっと少女を狙っていた。
 家での少女は独りぼっち。守ってくれる家族もいなければ、消えて悲しむ家族もいない。闇に潜むそれからすれば、またとない獲物だった。
 故にそれは少女を見つめ、見つめ。やがて置きっぱなしの機械を介して、ご丁寧にも犯行予告・・・・をしたのだった。

『もしもし、わたし*****』

 逃げたければ好きにしろ。けれどもわたし・・・は逃がさない。
 少女からは見えざる場所でほくそ笑みながら、それは確かにそう告げた。


 そこで一旦夢は終わり、壊れた世界を漂うそれは、ほんの一時目を覚ます・・・・・
 そしてもやの掛かったような思考の片隅で考える。あの少女は誰なのか、と。
 だがその答えが導き出されることもなく、それの意識は再び欠片の夢の中に沈んだ。
 沈む直前、視界の片隅に青色の光を感じながら――。


 次の夢の中は、白い雪が静かに舞う冬だった。
 アスファルトに落ちては溶けつ雪を見つめながら、それは少女の家の前に立っていた。
 人気ひとけのない寂しい家。玄関の前に立ち、呼び鈴替わりに電話を掛ける。もしもし、わたし***さん。お決まりの言葉を用意しながら、少女が電話に出るのを待つ。
 家の中から微かに響く、固定電話のコール音。一回、二回、三回、四回……しかし少女は応答しない。
 さてはすっかり怖がっているな。それは思う。ここに来るまでの道程で、それは少女への電話を繰り返してきた。いつものように、義務的に、追い詰めるように。
 少し前の電話までは律儀に応じていたが、さては家を逃げ出したか。もしくは意地でも応じないように耳を塞いで知らんぷりを通しているのか。……だが「うるさい」との怒号が聞こえないところから察するに、少なくとも母親は不在のままであろう。
 そんな風にそれは考え、クスリと笑って目を閉じた。
 瞼を下ろした暗闇の向こうに、今もけたたましく鳴り続けている少女の家の電話が見える。それは単なる空想イメージではなく、それには生来そういったこと・・・・・・・ができた。
 宣言したあらゆる場所に姿を現し、『電話』と名の付くあらゆるものを操る能力。その能力故に彼女・・は電話を持たずしてその声をどこかの電話に伝える事ができたし、任意の電話の受話器を下ろし、強引に通話を通すことなど朝飯前だった。
 故にその時も、いつものように受話器を下ろし、少女に己の声を聞かせてやろうと思ったのだ。既にここまで追い詰めたぞ、と。死刑宣告にも等しいそれを聞かせて、果たして少女がどう反応するか……。彼女にはそれが楽しみで仕方なかったのだ。
 だが、しかし。受話器を下ろし、揚々と『決まり文句』を宣言した彼女の耳に飛び込んできたのは、逃げ場を無くした悲鳴でも、逃げ出した後の沈黙でもなかった。
 げほげほと激しい咳の音に交じる、隙間風のようにヒュウヒュウと荒い呼吸音。苦しそうな呻き声。
 それを耳にした瞬間、彼女の頭は真っ白になった。何事が起っているのか理解できなかった。
 それまで幾多の人間をその手で屠って来た筈の彼女が、まるで恐ろしい事を前にしたかのように呆然と立ち尽くしてしまったのだ。
(そレは、なんでだっタっけ……?)
 ふと、夢を見ている彼女は疑問に思う。だが相変わらず靄のかかったような思考はまともな答えを導き出さず、今し方浮かんだ疑問もゆらぐ霞のように消えかかる。
(ううん、デも……確かに何かガあったはず、なの……)
 ぼやける頭でなんとか答えを掴もうとする彼女を、青い光が静かに照らした。
 冷たい色の、優しい光。そんな光に照らされて、彼女は遠い昔に聞いた声を思い出す。

 ――切らないで――!


 彼女がその声を聞いたのは、少女への何度目かの電話をした時だった。
 数日かけてじわじわと少女の生活圏に近づき、事務的にその報告をした直後。それまで困惑した様子で電話を受けるだけだった少女が、突然そんなことを叫んだのだった。
『待って、切らないで!』
 それは彼女にとって意外な言葉だった。否、己と話をしようと試みた人間自体はこれまでにも何人か居たのだが、怒るでも怯えるでもなく、まるで縋るように「切らないで」と頼む人間は初めてだった。
 そんな言葉を耳にして、彼女はほんの少し考えた。『これまで』のように冷徹に通話を終わらせる事も出来たのだが、こんな正体不明の相手に対して「切らないで」と頼む人間が果たして何を話すのか、それはそれで興味深い。
 故に彼女は通話を切らず、しかし一言も発することなく少女の言葉の続きを待った。
 少女は応答がないながらも切れた様子のない通話に暫し戸惑った様子だったが、十秒程過ぎた後に、意を決したように言葉を続けた。
 囁くような言葉を。それを聞いた瞬間、彼女は耳を疑った。目は生まれてこの方ないくらいに大きく見開かれ、口は無意識の内に息を呑んだ。

『なるべく早く来てね。私を殺して』

 その当時、"彼女"の噂は子供たちの間で一大ムーブメントを巻き起こしていた。
 彼女の名を知らない者は殆ど無いと言っていいほどで、少女もきっと"彼女"を知っていた。その電話を受けたものの末路がどんなものか、という憶測込みで。
 少女はその末路を死と解釈し、その上で"彼女"にそれを願った。僅か10歳程度の少女が、である。
 そんな暗い願いが、捕食者として人を狩るだけだった彼女の感情を僅かに動かした。それまで意識したことすらないような胸の奥がズキリと痛い。
 どこか恐ろしい気持ちを抱えて通話を切断し、彼女は考える。それこそ初めて思うような事を。
 本当にあの娘でいいのか? ――と。

(あア、そうだ。わたしは……)
 彼女は思う。思い出す。そうだ、そうだったんだと。
(わたしは……あの子の願いを前に初めて怖くなって、悲しくなって……悩んで、でも電話を続けて、少しでも話しをしようと思って……)
 ゆっくりと思い出が蘇る。少女の家の前に辿りついたあの日の事。
(あの子の苦しい声を聞いて、呆然として、それからは勝手に体が動いてたんだ。……初めて、人間ヒトを助けた。救急車を呼んで、インフルエンザだって、母親は来なくて……)
 病室のベッドの横で、少女の意識が戻るのを待っていた事を。意識が戻った少女に、「お話と全然違うね」と笑われた事を。暫くしてから少女が児童施設に入る事に決まって、その時に少女が大事にしていた、昔祖母から貰った『くまのぬいぐるみ』を貰ったことを。
(それで「また会おうね」って言ってたあの子に「もう会ってやるもんですか」なんて言っちゃって、泣かせちゃったっけ……そうだ、そうだったんだ……わたしは――)

 ぽたりと涙のようなものが頬を伝い、メリーさん・・・・・は思い出す。己の大事な過去を、くまのぬいぐるみをくれた少女の事を。そして……己が終焉に向かおうとしている事も。
 降り注ぐ青い光に見守られるようにして、メリーさんの欠片はボロボロと崩れていく。アンナによって注がれたは眞虚たちの再生の願いをも上回る劇物で、メリーさんの欠片は辛うじて己が己である事を思い出したものの、既に風前の灯火も同然であった。
(なにがどうなってこんな風になっちゃったのかわからないけど、小鳥ちゃんたちが助けてくれようとしたのかな……。……だけどごめんね、わたし、もう帰れそうにないや――)
 思い、崩れかけのメリーさんは静かに目を閉じる。彼女の中には悔いはなく、大切な思い出を再び思い出せた事への満足と感謝だけがあった。

「ありがとう、小鳥ちゃん、白薙ちゃん。私を殺して――」

 虚無に消えつつある世界で、メリーさんは最期にあの少女と同じ願いを呟き……。

 ――その瞬間だった。あの青い光よりもずっと暖かいものが、消え行こうとする彼女の手を掴んだのは。
「え……」
 驚き見開かれたメリーさんの両目に飛び込んできたのは、大きな白い翼。
 白鳥のような純白の双翼と、それを背に生やす人影。
 メリーさんははじめ、それを天使かと思った。だが果たして天使の姿をした誰かは、知っている少女の声をして叫んだ。「メリーさん!」と。――それは眞虚の声だった。
「え……小鳥、ちゃん……? なんで……?」
 メリーさんが戸惑い見つめる視線の先には、確かに眞虚の顔が存在していた。だがしかし大きな翼もまた健在であり、メリーさんはすっかりわけがわからなくなってしまった。
 そんな彼女を優しく抱きしめ、「殺さないよ」と眞虚は言った。

「殺さないよ。あなたの心も、思い出も。絶対に――殺さない」

 静かにそう告げて、眞虚は何事かを呟いた。直後、メリーさんの心の世界は白い光に包まれて、やがて何も見えなくなった――。



 それから。
 すっかり夜になった街で意識を取り戻したメリーさんはすっかり正気に戻り、けれどもアンナに襲われてからの自分が何をしていたのかをさっぱり覚えていない様子で、起こった事を説明しても今一つピンと来ていない様子だった。
 眞虚と杏虎はそれぞれ呆れ、けれどもメリーさんが元に戻った事を正直に喜んだ。結局、その日はそのまま解散となり、ぬいぐるみ捜しの件は一旦お流れとなってしまった。
 とはいえ、そもそもアンナの茶々が入った時点でぬいぐるみを捜すことよりメリーさんをどうにか元に戻すことが優先事項となってしまった二人は、その事をすっかり忘れていた……のだが。後日メリーさんから『北中・美術部 小鳥眞虚、白薙杏虎』宛ての手紙が届き、あの後くまのぬいぐるみを無事発見したということが知らされたのだった。
 なんでも、ぬいぐるみは神池の畔にある祠の中に押し込んであったようで……メリーさんから話を聞いた狩口の考察では、ぬいぐるみを拾ったのは小さな子供だったのではないか、との事だった。
『可愛らしいぬいぐるみを拾ったものの、親に拾ったもので遊ぶなと怒られたのだろう。だが捨てるに忍びなく、偶々・・丁度良く・・・・雨風を防げそうなお家・・を見つけ、後で取に来るつもりでそのまま忘れたのではないか』というところまでが狩口の推論である。それが果たして真相かどうかは兎も角、流石は小説家の妄想力であると、手紙を読んだ美術部一同は感心した。
 眞虚もまたすっかり忘れてしまっていた約束とは言え、メリーさんの気がかりが消えた事を喜んだ。傍らの杏虎はついぞぬいぐるみに拘る理由を聞きそびれた事を思い出して内心悔しがると同時、ふとあの時・・・起こった事を思い出して僅かに表情を曇らせた。
 あの時、私が見たものは……と。
 杏虎は確かに目撃していた。考え得る唯一の手段を以てしてもメリーさんを救えないのかと絶望しかかった時、今や何事も無かったかのように無邪気に笑う友人が見せた異形の姿を――。
 その答えを知る眞虚本人は黙して語らず。

 だが、その正体を知るものが他に存在する事を、……杏虎はまだ、知らない。



「――やって、しまったね」
 メリーさんが元に戻ったその日の晩、四日目の月が照らす夜の夜都尾稲荷の境内けいだいにて。八尾異は寂しそうに目を伏せた。
 どこからともなくチリンと小さな鈴の音が立ち、その隣に房が立つ。
「はーあー、全くやれやれですよ。アレを封じ込めるのに苦心しましたっていいますのに、自分から破られてしまったんじゃあ、もう何とも言えませんですよ」
 あからさまに肩を竦めて見せた後で、房は己のもう片隣へチラリと目を向けた。
「……それとも、それでも怒っておいでですか? 水祢様」
 顔をしかめた視線の先で静かに佇む水祢は、小さく舌打ちを一つ。

「ほんっとうにもう……大馬鹿」

 忌々し気に呟いて、睨み付ける夜闇の向こうで。
 不穏な風が、ざわりと吹いた。



(第十四談・メリー・メリー・コールミー・完)

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