怪事捜話
第十一談・幻想暴走フェスティバル⑤

「ちょっと待てっ! ……いや、ちょっとどころじゃなく待て!」
 乙瓜は叫んだ。普段なら悪目立ちを気にして大勢の人前で叫ぶことなどないのだが、今回ばかりは話が別である。
 何しろ体育祭がいきなり滅茶苦茶にされてしまったのだから。
 それも知らぬ間柄でもない裏生徒たちによって。大霊道に起こっている事やその為に美術部が何をしているかを把握している花子さんたちによって! ……叫びたくもなるというものだ。
 だが幸いかな。花子さんのかけた認識妨害の術のお陰か、周囲は乙瓜にさほど関心を示さない。人々はまるで劇でも見ているかの如く静まり返り、各々の観客席・・・でじっとしている。
 今の彼らには都合の悪い事・・・・・・は認識できないのだ。
 今現在起こっている事は体育祭の舞台裏、本来観客に見えてはいけないもの。だから術中に在る人々には認識されないし、疑問にも思われない。それは恐らく花子さんが体育祭プログラムの進行を宣言をするまで続くだろう。
 そんな人々の虚ろな視線に囲まれながら、花子さんはゆっくりと乙瓜に視線を移し、不思議そうに首を傾げてみせた。
「なぁにかしら乙瓜?」
「なぁにかしら、じゃねえ! いきなり現れたと思ったらどういうことだよこれはッ!」
「どういうことも、こういうことよ? 私たちも体育祭に参加したい、それだけ。……やだ、怒ってる?」
 憤る乙瓜の言葉を受け、花子さんは両手で口許を覆った。
 ……わざとらしい驚きのポーズ。乙瓜はそれを見て益々許容しがたい気分になった。今にも花子さんに向けて駆け出し、勢いのままに一二発食らわしてやりたいような、そんな感情が沸々と湧き上がる。
 しかし乙瓜は思い留まる。ここで花子さんを直接攻撃したってどうにもならないと、彼女にはわかっていたからだ。
 衝動をぐっと飲みこんで踏みとどまり、感情を眼光へと変換する。
「怒ってないわけねえだろ……。お前らこれ怪事だぞ、わかってるのか!?」
「わかってるわよ?」
 花子さんはあくまでものほほんとした調子で答え、朝礼台の上で躍る様に一回転した。
 その身に纏う体操服は、やはり先程のエリーザと同じ学校指定のものであり、胸元には一丁前に『花子』と刺繍ししゅうが施してある。

 彼女は本気であった。あの満月の夜の思い付きから、本気で体育祭へ向けての準備をしてきたのだった。
 だから言う。本気で言う。あの日ミ子に言ったのと同じお願い・・・を、両手を摺合わせて言う。
「分かってるけど、お願い。見逃して? 今日一日だけ表生徒に混ぜて参加させて貰うだけでいいから、ねっ?」
 可愛らしく身をくねらせて言う花子さんに、乙瓜は思いっきり嫌そうに表情を歪めた。
 怒りを通り越して呆れで閉口した彼女に代わり、隣の青団テントから「ふざけるな」と声がする。
 それは深世の声だった。どうやら彼女も術にかからなかったようだった。
 ほどなく彼女は青団の群れの中から飛び出してくると、感情の限りをその場にぶちまけた。
「ふ、ふざけるなーッ! 何で体育祭まで来てお化けと宜しくやらなきゃならないんだよッ! 私のささやかな平穏のひとときを返せ、返せーッ!」
 深世は既に涙目だった。
 握りしめた拳を振り上げながら叫ぶものの、花子さんに向かっていかない辺りは相変わらずのお化け嫌い故か。見るのには慣れたとはいえ、直接やり合うのはまだ怖いらしい。
 そんな深世に遅れ、魔鬼もまた人だかりを掻き分けて姿を現す。
 彼女は彼女でその顔面を真っ赤に染め上げ、ともすれば深世以上に憤った様子で花子さんにギャーギャーと喚き始めた。
 どうやら彼女的には、認識できないとはいえ親の視線のある状況で怪事に関わるのは嫌らしい。複雑な心境だ。
 花子さんはそんな彼女らの様子にやれやれと肩を竦め、それから何かを思い出したかのように乙瓜ら赤団のテントへと視線を戻した。
 そしていつの間にかテント前方に立ち、特に抗議の様子もなく立っている遊嬉と杏虎の二人をその視界の中に捉えると、「貴女たちは?」と首を傾げた。
 そんなご指名を受け、遊嬉と杏虎は顔を見合わせると、それぞれ左右に首を振る。
「んー。あたしはからは特に反対しないよー」
 伸びをするように頭上に手を組み遊嬉は言う。
 杏虎も腰に手をやったまま「あたしもあたしも」と頷いて、「つまんなくて面倒な事になりさえしなければ別に」と続けた。
「ていうか、今日一日付き合えば怪事解決って事になるんだよね?」
 続け様に問いかける杏虎に、花子さんは頷く。杏虎は「ならいいんじゃね」と静かに腕を組み、遊嬉も「ばっちこい」と手を叩く。
「お前らそれでいいのかよ!?」
 深世が吠えるが時すでに遅し。台上の花子さんは再びニコリと笑い、改めて体育祭の開催を宣言したのだった。

「それじゃあプログラムの一番からね。そろそろ開会式をはじめましょう!」

 たちまち、人形のようだった生徒たちに表情が戻り、他愛もない雑談が復活する。
 死んだようだった会場にも活気が蘇り、グラウンドの片隅にはカメラのベストポイントを捜して保護者が行き交い、出店も何事も無かったように賑わい始める。
 同時にどこに潜んでいたやら、幽霊やら妖怪やらの裏生徒が現れ、当たり前のように団テントに紛れ込む。
 そこにはエリーザの姿もあればたろさんや闇子さんの姿もあり、てけてけのように明らかに普通の生徒とは一線を画す裏生徒たちの姿もあった。
 しかし花子さんの術中に在る人間の生徒たちはそれらの存在に全く驚かない。
 あたかも彼らが居るのが当然であるかのように振舞い、中にはかねてからの友人であるかのように半透明の生徒に話しかける者の姿もあった。通りがかりの保護者や教師も、まるで微笑ましい光景でも見るかのような表情だ。
 乙瓜その光景に改めて花子さんとその一味の恐ろしさを思い知り、平然と再開した体育祭プログラムに――しかし花子さんの思惑通りに書き換えられたプログラムに従うしかないと悟った。
 秋晴れの空に開会時間を告げる花火が上がった――。



「なぁんでたろさんまでちゃっかり参加してるんだよ! 唯一まともだと思ってたのに!」
 開会式後、一年生のリレー種目が始まる前の僅かな待機時間。入場門付近をうろついていたたろさんを捕まえて、乙瓜は憎々し気にそう言った。
 たろさんの手にはいつの間に買ってきたのやら、ちゃっかりとかき氷のカップが握られている。すっかりお祭り気分といった様子だった。
 そんな気分を害されて、彼はすっと眉根を寄せた。ストローのスプーンを氷の山に刺して、不服気味に口を開く。
「そんな事言われても困るでござるよ、拙者は花子殿の決定に従っているだけであって。……あ、乙瓜殿。かき氷食べるでござるか?」
「いらねえよ! ていうか仮にも生徒側が競技やってる真っ只中に買い食いするな! ……ったく」
 不機嫌に腕組み砂を蹴り、乙瓜はフンと鼻を鳴らす。
 それからふと入場門に並ぶ一年生へと目を遣ると、アンカーだからか最後尾に立つ明菜が緊張と恐怖半々の表情を浮かべる明菜の姿があった。
 どうやら彼女にも術はかからなかった様子だが、乙瓜は安堵よりも彼女の事が哀れになってしまった。
 なぜなら。青団である彼女の横に立つ赤団側のアンカーは本来の相手ではなく。どういう死に方をしたのか、首から上がすっかり消えてなくなってしまっている幽霊生徒へと変わってしまっていたのだから。
「ああ、彼女生前はいつもアンカー任されてたから速いでござるよ。家の農作業の手伝い中に事故があったらしくて、今でこそあんなふうでござるが」
 乙瓜が同情の視線を送る横で、たろさんは事もなげに首なしの彼女・・について語りだした。自分の身内に興味があるのだと思って少し嬉しくなったのだろうが、乙瓜が気にしているのは勿論そんな事では無い。
 ……というかあの人女だったんだ、とは思わないでもなかったが。
 生きている者と死んでいる者の感覚の違いか、それからも幽霊生徒のスペックと死因を嬉々として紹介していくたろさんに眩暈を覚え、乙瓜はそっとその場を立ち去った。
(そういえば、たろさんや花子さんは何年生のところに混ざるつもりなんだろうな……)
 ふとそんな疑問が彼女の脳裏を過るが、あの場に戻っていくのも億劫おっくうなので忘れることにした。……どうせその時が来れば分かる事だろう。  まだ二年の種目も始まっていないというのに、乙瓜はすっかり疲れ切った表情であった。
 戻り着いた団のテントには、今し方始まったばかりの一年の種目に声援を送る両団生徒の姿がある。
 見知った先輩やクラスメートの中には、やっぱり当たり前のように幽霊生徒が混じっていた。
(なんだよ、楽しそうに出来るんじゃねえか)
 乙瓜はその光景を見て素直にそう思った。
 彼女はこの場に居る何人かの幽霊生徒を平時の学校で見かけた事があった。
 しかし花子さんたちのように賑やかにしたりあちこち動き回ったりする者は一握りで、大半はそれぞれの思い入れのある場所でじっとしていたり、延々と同じ行動を繰り返しているだけであった。
 だのに、今この場に居る彼らは生者に混じって笑ったり飛び跳ねたりしている。見た目綺麗な幽霊も、体の一部を失った幽霊も。まるで死んでしまった事自体を忘れているように。
 それはおどろおどろしくも愉快でご機嫌で、見ていて決して悪くないと思える光景だった。
 ……隣のテントで遂に気を失っている深世にとっては、あまりよろしくない光景だったようだが。
「……花子さんは、何を思ってこいつらを体育祭に混ぜたんだ?」
 グラウンドを見つめ、乙瓜は小さく呟いた。
 丁度目の前のコースを駆けて行ったのはエリーザだった。普段人間にびくついている彼女の表情は、めったに見れない程清々しい笑顔だった。
 益々頭を捻る乙瓜の隣に、すっと誰かが並び立った。顔を向けると、そこには平時通り穏やかな表情の八尾異の姿があった。
「やあ。なんだか大変な事になっちゃったね」
 事も無げに言う彼女にも術はかかっていなかったようだ。
 どうやら元々ある程度怪事事情を知る人間に対しては、認識妨害は無効であるようだった。
 異は続ける。
「あの時君が噛みついてた彼女がこの学校の花子さんかい? 時々見かけてはいたけれど、彼女がそうだったんだね」
「……なんだ、八尾さんはあの時ちゃんと気が付いてた・・・・・・のかよ」
「うん? ああ、おかしな放送からの一連の事だったら、ちゃんと把握しているよ? それはぼくだけじゃなくて、他にも何人かいる筈。まあでも、ぼくらは美術部きみたちとは違うからね。多勢に無勢、長い物には巻かれろ……ってね。見ないふりも、また一興」
 そうだろう、と。異は唐突に背後を振り返った。
 驚き乙瓜が振り返ると、彼女の視線はその先にあった気弱な視線とぴたりと重なる事となった。
「ねえ。斉藤ちゃん?」
 視線の主の肩に手を置き、異はニコリと微笑んだ。
 当の彼女――斉藤メイはビクリと肩を震わせると、目の合っていた乙瓜に助けを求めるよう口をパクパクとさせた。
 乙瓜と斉藤は、一年の時よりクラスも違えば部活も違うので殆ど面識がないものの、去年の合宿やマラソン大会前の足の幽霊騒動の時に若干の接点があった。
 "友達"とは断言できないが赤の他人でもない、そんな斉藤のすがるような視線を受けて乙瓜は只々困るばかりである。
 異は異で機嫌よさげな調子で斉藤に顔を寄せると、嬉々とした声音で「君、最初からわかってたよね?」と囁きかけた。
「な、ななな、何のこと!? 私知らないし分からないからっ……! 女の人とか花弁の事とか全然わからないからぁっ!」
 否定を吐きながらあからさまにボロを出す斉藤は、異の言う通り状況をはじめから理解しているようだった。
 彼女は次の瞬間己の発言の矛盾に気付き口を押えた後、観念したように首を縦に振った。
 聞けば、彼女にはエリーザの放送からの記憶がしっかり残っており、幽霊生徒が自分達の中に混じっている事に関する不安や恐怖もはっきりと存在していたらしい。しかし周囲がまるで気にしていない様子なのと、言及したら何か恐ろしい事が起こるような気がして知らんぷりをしようとしていた、と。
 隣のクラス――つまり青団であるのに乙瓜ら赤団のテントに居たのは、無視を決め込んでいても普通に怖かったかららしい。
「少し前までは歩さんの近くに居たんだけど、倒れちゃったから……烏貝さんたちが話してるの聞いて、つい……」
 斉藤は言いながらおどおどと周囲の様子を窺い、小さく悲鳴を上げて身を縮めるのだった。
 異はそんな斉藤の肩を改めてポンポンと叩き、「まあ、起こっちゃった事だから」と何の慰めにもなっていない言葉を送る。
「そんなあ、じゃあ私どうしたらいいんですか……烏貝さん!」
 今にも泣き出しそうな斉藤を前に、乙瓜は今頭にある無責任な言葉を言うべきか言わざるべきか一瞬迷うが、結局伝えることにした。

「なるべく一人にならないようにしてれば、多分大丈夫なんじゃないか……」



 泣いても笑っても体育祭のプログラムは進んでいく。
 結構な数の裏生徒が混じっているにもかかわらず、花子さんの記憶操作と夜毎の練習の成果か、種目進行への影響は殆ど見られなかった。
 二年生のリレーでは開幕から杏虎と闇子さんが競い合い、ほぼ同時にバトンの渡ったアンカー対決では、遊嬉とてけてけがデッドヒートを繰り広げた。
 両の腕だけで高速に動き回る怪異とちょっぴり只の人間離れした少女の大接戦は、一生に一度見られるか否かの物凄い光景であった。最終的に僅差で遊嬉が勝った瞬間は、観客・応援共に大いに沸いた。
 以降も人と既に人で無きものたちによる熱い戦い・時代を超えた友情芽生えるドラマチックな場面が展開され、あれよあれよの内に時刻は昼。疲れ切った生徒たちには一時間ばかしの休息が与えられた。

「気付いたんだけどさあ」
 重箱の一段いっぱいに詰められたから揚げを箸で掴みつつ、乙瓜は傍らの眞虚に言った。
 体育祭は混沌とした事態になってしまったが、乙瓜は一応眞虚を同じテントに呼び込む事を忘れていなかったのである。
 彼女らの向かいに座る乙瓜の祖父母はいつになくにこやかな表情で眞虚にもっと食えと重箱の中身の大量のから揚げを勧めている。
 眞虚はそれに苦笑いを返しつつ、乙瓜の言葉に「なあに」と返した。
 乙瓜はすぐ目と鼻の先に居る祖父母を気にしてか、少しだけ声を潜めて話を続けた。
「俺の勘違いじゃなければこの体育祭、生徒だけじゃなくて保護者にも人じゃない奴混じってると思う」
「……本当?」
 眞虚は目を白黒させて辺りに目を遣った。テント内をさりげなく見渡し、それからテント外を歩く人々へと視線を移す。
 しかしなかなかそれらしきものを見つけられないでいる眞虚を見兼ね、乙瓜は言った。
「例えば、敬老席の方にはヨジババが居たし……あ。ヨジババってのは闇子さんの婆ちゃんな」
 ほれ、と指さす乙瓜に従い、眞虚は敬老席に目を向けた。
 そこには今日日珍しく紋付羽織姿の老婦人が座っており、丁度闇子さんと話している所であった。
 眞虚にはそれまでヨジババとの面識が無かったし、乙瓜らほど学校妖怪と親しいわけではなかったので、言われなければ恐らく気付かなかっただろう。
 闇子さん共々そこに居るのが当たり前と言わんばかりに堂々と存在している二人を見て、眞虚は「はー」と息を漏らした。全く驚くやら感心するやらである。
 その間にも、乙瓜は次々とあちらこちらに潜む人ではない観客の存在を指摘していく。どうやら午前の種目中やその合間に気付いてかなり気になっていたようで、今のうちに話せる友達に話しておきたい様子だった。
 彼女の祖父母は認識妨害が効いているからか、それとも単に耳が遠いからか。相変わらず余所行きの笑顔で眞虚に重箱の中身を勧めている。
 眞虚は我が道を行く烏貝家の人々にちょっぴり困りながら、しかし乙瓜の事をほんの少し羨ましく思ったのだった。
 どうやら、乙瓜の両親もまた仕事の都合が付かずに今日この場に来る事が出来ないのだと言う。しかし乙瓜には自分と違い、駆けつけてくれる祖父母が居る。
 眞虚にはそれが羨ましくて。だが妬ましいというよりは、なんだか胸が暖かくなるような。そんな気持ちになったのだった。

 一方、同じころ。既に昼食を終えた魔鬼は、小遣いポケットに学校前庭に設けられた売店付近をぶらぶらしていた。
 本当は一度乙瓜の所にも寄ったのだが、祖父母と眞虚と一緒に大量のから揚げをつついているようだったので、声をかけずにそのままここまで来てしまったのだった。
(しっかしまあ、おかしな体育祭になっちゃったなあ)
 朝から続く前代未聞の状況に思いを馳せながら、魔鬼は出店に並ぶかき氷やらチョコバナナやらを買うともなしに見つめていた。
 体育祭ジャック宣言があった時はふざけるなという気持ちが強かった彼女だが、花子さんの術の恩恵が後になって北中入りした人々に対しても有効であったお陰か大した混乱もなく、美術部である自分達が何かしなくてはならない事態にはならなかった為、徐々に「まあ、仕方ないか」という思いに変わっていたようだ。
 ちょっとした巡りあわせで小学生の時分から魔法使いなどと言う珍奇な肩書きを手にしてしまっている彼女だが、その稀有な能力を衆人環視の、それも家族の目の前で振るうのには未だ抵抗がある。
 故に今の状況は不幸中の幸い。午後になってから花子さんたちの気が変わり、トンデモ勝負で雌雄を決そうなどと言い出さない事を願いながら、魔鬼は溜息交じりに天を仰いだ。
 見上げる先には夏の間に自分達が仕上げた、そして今朝乙瓜と見つめた体育祭シンボルが、相変わらず堂々と掲げられている。
 屋上の鉄柵からワイヤーで固定されているそれをぼんやりと眺める魔鬼は、ふと。その鉄柵の向こうに人影を見た。
 休憩時間中とはいえ体育祭の真っ最中。防犯の為校内の諸教室や屋上に通じる扉等は施錠されている筈だし、実行委員の教師生徒だとしても、終了後の片付けまでそこに用は無い筈だ。
 物理的な施錠等関係ない裏生徒の誰かだとしても、体育祭に混じり楽しむために現れた彼らが態々あんな孤立した場所に向かうのは些か不自然ではないだろうか。
 魔鬼は思い、訝しむように屋上の人影を凝視した。そこに居るのは一体何者かと。
 すると相手にもその思いが通じたのか、何者かは鉄柵に手を掛けて、ひょっこりと地上を、そして真っ直ぐに魔鬼を覗き込んだのだった。

 その顔を見た瞬間、魔鬼の表情は凍り付いた。

 屋上から覗き込む顔、それは。魔鬼の良く知る彼女と瓜二つの顔であり、そして。

(同じ、だけど違う……! 決して忘れるものか、決して忘れてなるものかッ……!)

 一年前、あの雷雨の日。彼女に耐え難く忘れ難い記憶を植え付けた、烏貝七瓜の顔だったのだから。
「おまえ……七瓜……」
 記憶の底から湧きだす屈辱と、何の予告も無しに再開した事による混乱とが入り混じり、凍り付いた魔鬼の口からやっと吐き出された言葉がそれだった。
 はるか上空より見下ろす七瓜は、そんな魔鬼を見て悲しむような憐れむような表情を浮かべると、意を決したように鉄柵を飛び越え、宙へ身を躍らせた。そして只の人間ならば無事では済まない高さから難なく降り立つと、爪先揃え姿勢を正して静かな瞳を魔鬼へと向けた。
「貴女とは・・久しぶりね……」
 いつの間にか手にした日傘を広げながら七瓜は言う。日傘は晴天の空から降り注ぐ日光を遮り、七瓜の姿に影を掛けた。
 魔鬼はその一連の動作を悪い夢でも見るように見守った後、目にキッと力を込めて七瓜を睨み付けた。
「今更……今度は何しに来やがった……!」
 押し殺すような声で魔鬼は問う。強張り固まっていた体は自然と戦闘態勢を取り、得物の定規はないにしても、妙な動きをすればいつでも反撃に出られる意志を相手に知らしめる。
 周囲には依然大勢の人々が闊歩していたが、花子さんの術中にあるからか、今まさに始まろうとしている場外乱闘に対して誰も関心を示さない。
 それは魔鬼にとっても好都合だったし、勿論七瓜にとっても好都合である筈だった。
 しかし七瓜は戦闘体勢を取ることなく、静かに首を横に振るのだった。
「今は貴女と戦いに来たんじゃないわ」
 言って、七瓜は戦う意志が無いことを示すように一時日傘を置き、両の手を高く掲げた。
 だが魔鬼は、だからとて彼女の言葉を信じることなく。依然として鋭い視線を向けたまま、体勢を崩そうとはしない。
 わけもない。一年前に魔鬼が七瓜にされたことを考えれば。
 そう簡単に信用してなるものか。魔鬼は思った。
 その感情は七瓜にも伝わっていた。
 人はそう簡単には過去の己に対する仕打ちを忘れない。
 仮にそこにどんなに正当性があったとしても、どんなに深刻でやむを得ない事情があったとしても。当人が感じた事が事実であり、全てであるのだ。
「……あの時はごめんなさい。私が言っても、貴女には嘘に聞こえるでしょうね。あの時の私はまともではなかった。……そんな言葉もいまさら言った所で、醜い言い訳にしかならない。……でも謝らせて。ごめんなさい」
 七瓜はゆっくりと手を下ろし、目を伏せながら頭を下げた。
 魔鬼はそんな彼女にさげすむような視線を浴びせながら、「で?」と冷ややかな言葉を投げつけた。
「本当に私と戦う意志は無く、あの時への謝罪の気持ちすらあるとして。じゃあ一体何をしに来た? また乙瓜の命を狙うか? 影女」
「乙瓜の事は……もう狙わないわ。……本当よ。誰かを操り傷つける魔法も、もう手元に無い。私は……ただ、ここへ行くように頼まれただけ……。貴女達に伝えるために……」
「伝える……? 何を?」
 依然として心の警戒を解かぬまま、魔鬼は七瓜に問いかけた。
 七瓜は己に向けられる敵意の眼光に不安な瞳を返すと、ゆっくりと、そして明確に。長い言葉を紡いだ。

「【月喰の影】がやってくる。明確な悪意と明確な敵意を持って、日常を脅かしにやってくる。
 それは【いつか】なんて不確定未来じゃなくて、目と鼻の先の【間もなく】。その未来が現実となった時、ヘンゼリーゼは動き出す」
「……ヘンゼ……リーゼ?」

 その名を聞いた瞬間、魔鬼はハッと目を見開いた。瞳を染め上げるのは一瞬前までの憎悪と嫌悪ではなく驚愕と困惑。
 ――ヘンゼリーゼ。それは一年前に三咲と名乗る少女から告げられた、恐らくは七瓜や三咲と何らかの関係を持つ魔女の名前であった。
 魔鬼はその名に心のどこかで引っ掛かりを覚えるも、どこでその名を聞いたのか、何故こうも引っかかるのかを思い出すことが出来ず、今までうやむやのまま考えることを止めていたのだった。
 まるで蓋をするように。まるで目を逸らすように。……だのに。
 今再び聞かされたその名の前に封印は解け、緩んだ蓋の隙間から噴出するのは謎と疑問。

 ――ヘンゼリーゼとは己にとって何者か。何故己の中でこうも引っかかるのか。
 ――自分は何かを忘れている。それはきっととても大事な事。
 思い出せ、思い出せ。内なる自分が問いかける。己から己へ問いかける。
 それが鼓膜で捉える現実の音でないことを知りながら、魔鬼はさっと耳を塞いだ。

 ――頭の中が煩い。

 突然青褪め耳を塞いだ魔鬼を見て、七瓜は顔色一つ変えず、「確かに伝えたわ」とだけ告げた。
 二人の間にはしばしの沈黙があった。それは現実にしてほんの数十秒だったが、当人たちにとっては何分にも感じられた。
 凍り付いたような時間の後、七瓜は静かな動作で日傘を拾い上げる。
 土埃を軽く払うとゆっくりときびすを返し、その場を立ち去らんとした。
「……待て七瓜!」
 その背中を呼び止め、魔鬼は言った。
「ヘンゼリーゼは、私の過去に――」
 果たして関係があるのか否か。それを問うより早く、七瓜は振り向きもせずに告げる。

「――魔導書グリモワール。貴女が何故魔法使いであるのか。それが答え」

 言葉が終わるより早く、七瓜の周囲を青い薔薇の花弁が舞う。それは転移の魔法。ここではない何処かへの移動術。
 魔鬼は消えゆくその背中に手を伸ばそうとして、しかしその手は空を掴み、只彼女の残した薔薇の花弁のひとひらを掴むのみであった。
「私は……どうして……? あいつは、何を……」
 既に脳内の言葉たちは霧散していた。魔鬼は呆然と立ち尽くしながら、七瓜の消えていった場所を只々見つめていた。
 そんな彼女の肩を、ぽんと叩く者が居た。魔鬼は肩をビクリと跳ねさせ、背後の者へと振り返った。
「そ、そんなにびっくりしないでよ! こっちがびっくりしちゃったよ……!」
「幸福ヶ森……さん?」
 そこに立っていたのは果たして、去年から引き続き同じクラスの幸福ヶ森幸呼であった。
 休憩時間だからか青鉢巻きを器用にたすき掛けした彼女は、右手を腰にフゥと息を吐き、左手の親指で団のテントの方を指し示した。
「魔鬼ちゃん、ご飯終わって暇ならテントの方行ってダンスのリハしよ? 皆少しずつ集まってきてるからさ」
「あ……えと、うん! そうだね、そうする」
 止まりかけた思考を動かし、状況を飲み込んだ魔鬼はコクリと頷き、努めて明るい声を出した。
 結局出店では何も買えなかったが、この際そんな事はどうでもよかった。先程の妙な出来事から少しでも思考を逸らせさえすれば。
(全部後だ、後。今は目の前の事に集中しなきゃな……!)
 思い、魔鬼は団のテントへと駆けだした。急に走り出したものだから、幸呼はすっかり置いていかれてしまい。一人残された前庭で、不満げに頬を膨らませた。
「ちょっと、魔鬼ちゃんってばっ! ……もう」
 既に届かない不平を吐き、幸呼は不機嫌に腕組みした。
 どうにもならない思いをぶつけるようにコンクリートの地面を運動靴の底で蹴ると、溝に溜まった砂埃が小さな煙となって吐き出された。
 その煙が消え去るのを見守った後、幸呼は先程魔鬼が見つめていた場所――七瓜が消えていった前庭の一所に目を遣った。

 彼女は、見ていた。
 魔鬼が黒衣の少女と何やら不穏な遣り取りをする様を、はっきりと見ていた。しっかりと認識していた。
 花子さんの認識妨害蔓延するこの北中で。彼女もまた見ないふりをする一人であったのだ。この異常な状況を正しく認識し、敢えて口を噤んできたのだ。
(魔鬼ちゃんや、美術部の子たちは私と同じ。本当の事が見えてるし、今おかしなことが起こってるって気づいてる。さっきのあれ・・・・・・もおかしなことで、だから周りの人はみんな気にせず素通りしてたんだ)
 幸呼の足は自然とその場所・・・・へと向かった。
 今となっては最早もはや青い花弁の一つも残っていないそこに立ち、彼女は天を仰いだ。
(――七瓜なのか。あの女の子は確かにそう呼ばれてた。乙瓜と同じ顔の女の子。よく似た名前の女の子。……どうしようか、どうしよう。私もしかしたら、とんでもない事に気づいちゃったのかも――ううん。思い出しちゃったのかもしれないんだ。でもそれを魔鬼ちゃんや乙瓜に伝えた方がいいのか、悪いのか……)

「わからない、ね」
 ポツリと漏らし、幸呼はグラウンドに視線を戻した。
 団のテント付近には既に昼食を終えた生徒たちが多々集い、両団午後一番のダンスの軽いリハーサルをしながら熱い火花を飛ばしている。
 休息の終焉、戦の再開。
 立ち止まっている時間はもうないことを悟り、彼女もまた走り出すのだった。

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