怪事捜話
第十一談・幻想暴走フェスティバル③

 九月三日水曜日、夕方。
 いよいよ沈まんとする太陽が赤紫に染め上げる西空の手前で、三日月が白く輝く頃。
 生徒たちが学校を撤収した頃合を見計らい、北中生徒会室には人でなきものたちが集う。
 そこにずらりと勢ぞろいした学校妖怪の主要メンバーたちをジトリと睨み、小さな人影が不機嫌な声を上げた。
「……何を考えているのですか」
「何って、特になにも。深い考えはないのよ?」
「そういうのが一番困るのですよ……」
 花子さんの呑気な一言に、人影――一ツ目ミ子は大きな一つ目をバチりと瞬きさせ溜息を吐いた。
「あのですね、いいですか。貴女達のやろうとしている事はとんでもないことですよ? 一般生徒の体育祭にこんな大勢で混ざろうだなんて、前代未聞にも程があります。どれ程の混乱が起こる事か……分かっているのですか? この間・・・の時とは違うのですよ?」
 ミ子は目玉以外の全身を覆う布の内から蟲のような腕を覗かせると、そのままバチンと机を叩いた。相当ご立腹のようだった。
「大丈夫よだいじょーぶ。取って食おうってわけじゃないし、ちゃあんと認識妨害の術もかけるわ。私たちはあくまで、ちょっと混ざるだけ。ね?」
 そう答え、花子さんは合せた両手のひらを頬の横に添えた。
「おーねがい。見逃して?」
「………………」
 ニコリと微笑み許しを請う花子さんを見て、ミ子は暫し黙り込んだ。その瞳には明らかな呆れの色が浮かんでいる。
 たっぷり十秒程の沈黙の後、ミ子は恨めしそうに口を開いた。
「……人の記憶の中の事実認識をうやむやにしたところで、怪事が起こってしまったこと自体は変わらないのですよ? 大霊道の状態にも少なからず影響します。……わかっているのですか花子様?」
わかってる・・・・・わかってるってば・・・・・・・・。……んもう。心配しなくてもこの埋め合わせは必ずするわよ」
 花子さんはむくれるように頬を膨らませ、その唇をツンと尖らせた。そして小さく何かを呟いた。
 ミ子はその言葉に目を丸く見開いて、それからまた少し考え込むように黙った後、はぁと溜息交じりに首を縦に振った。
「今回これきりですよ。約束は守ってくださいね」
 観念するように許可を下ろしたミ子を見て、花子さんはニッコリと微笑んだ。

「お墨付きね!」と。



 それから体育祭までの時間はめまぐるしく進んだ。
 生徒たちは日がな一日練習・演習・テント設営に駆り出され、校舎内にいる時間が平時よりも圧倒的に短い日々が続く。
 それは無論美術部とて例外ではなく。運動苦手の多い彼女らは、未だ真夏の気配残る日差しに焼かれ、クタクタの身体をゾンビのように動かし続けるのだった。
 ……只一人、遊嬉だけは大層元気な様子で走ったり踊ったりしていたのだが――彼女は例外中の例外であろう。
 どこかでテンポが遅れたやら何やらで容赦なく繰り返される音楽の中、全く疲れを感じさせない笑顔で飛び跳ねている遊嬉を見て、美術部のみならず誰もが思った。
 ――本当に何で美術部に入っちゃったんだろう、と。
 嶽木との契約抜きにしても生来運動神経抜群の遊嬉は、「ピンと来なかったから」という理由でどの運動部にも所属することはなかった。
 才能を惜しまれながら美術部に入った彼女は、しかし絵画や彫刻ではなく怪を談する事に力を注いだ。
 その事は未だに多くの同級生や教職員、そして同じ美術部の仲間からも疑問に思われている。
 だが、本人の口から「ピンと来なかった」以上の理由が語られる事はないだろう。……真相を知るのは当の本人だけなのであった。
 そんな謎はさて置き、当然といえば当然の成り行きで、遊嬉は団対抗リレー及び部活対抗リレーの代表となっていた。
「……普通こういうのって代表被り避けませんか?」
 体育祭前日、暮れゆくグランドを鼻歌混じりに歩いては目に入った雑草を抜く遊嬉の背を追いながら、明菜は言った。
 彼女の言う「こういうの」とは、勿論代表掛け持ちの件だ。
 明菜も明菜とて脚の速さばかりは周囲から一目置かれているので(ボールやラケット等を扱うと途端に駄目)、あれよあれよの内に一年のリレー種目のアンカーを任され、ついでに遊嬉と同じく部活対抗リレーの代表へと祭り上げられていた。
 その為か少し不服気味な明菜を振り返り、遊嬉はにっと笑った。
「いいのいいの。自分の出来る事で頼られるんだから。得意じゃない事に期待されてプレッシャー掛けられるよりはずっとマシっしょ?」
「そ、それはそうですけど……」
 明菜はどこか納得しかねる様子で口籠った。遊嬉はそんな彼女を見て何を思ったか、すっかり体育祭色に染まったグラウンドに目を遣った。
 トラックを取り巻くようにテントが建てられ、少し前まで石灰の印頼りだった入退場門もしっかりと立ち上がっている。未だ設営で動き回る生徒たちの上空には校舎から伸びる万国旗が交差して、いよいよ非日常の雰囲気を醸し出していた。
 それら一つ一つに目を向けて、遊嬉は言った。
「明菜ちゃんはさ、体育祭怖い?」
「……? どういうことですか?」
「うーん、……なんだろ。負けたら自分が怒られるかも、とか。そういうの。ある?」
「えと、そういうのはないですけど……」
 そう答えながらも、明菜は遊嬉の言わんとしている事が今一つ掴めずに首を傾げた。
 しかし遊嬉はそんな事お構いなしに質問を続ける。
「そか。おっけーおっけー。じゃあ、明菜ちゃん走るの嫌い?」
「嫌いじゃないですよ。……寧ろ陸上部があったら入りたいとすら思ってました。……というか戮飢先輩? この質問何の意味があるのか――」
 何の意味があるのか教えてくれませんか? と明菜が続けようとした時、遊嬉は唐突にあははと笑い出した。明菜は驚き言葉を止め、恐る恐る遊嬉の顔を見上げた。
 遊嬉は一頻ひとしきり笑った後、咽る様に呼吸を整えた後で改めて明菜を見た。
「じゃあ、なんも問題ないわけじゃん」
「……はい?」
 それが直前の問いに掛かる言葉だと明菜が理解するのには、少しだけ時間がかかった。
 つまるところ遊嬉は、怖くも嫌でもないなら代表を兼任することくらい問題ないと言いたいのだ、と。
「先輩、回りくどいですよ……」
 明菜は溜息を吐いた。対する遊嬉はニヤリとした。
「折角好きなら楽しもーぜー。卒業してからも夜のグラウンドを回り続けたくないならさー」
 両手の甲を見せて指先を地に向ける、所謂"おばけの手"を作って悪戯っぽく言う遊嬉を見て、明菜は漸く苦笑いを零した。
「どういう励まし方ですかそれ、意味わかんないですよ」
 笑う明菜は知らない。……いや、知らない方がいいのだろう。去年このグラウンドで起こった怪事なんて。
 遊嬉は一旦それを言いかけて飲み込み、お道化どけた調子で「なぁんてね」と返し。鰯雲いわしぐもの泳ぐ秋空に向けて、ぐっと両腕を伸ばしたのだった。

 明日はそれぞれ頑張ろうぜ、と。

 だが彼女は知らなかった。勿論明菜も知らなかったし、乙瓜や、魔鬼や。今グラウンドで明日へ向けた作業に勤しむ生徒・教師の誰一人としてそれを知らなかった。
 例年通りに行われようとしている明日の体育祭は、そのプログラムの一番目から崩壊するのだ……!
 それを知るのは学校に巣食う裏生徒たちのみ。そしてそんな彼らの動向を黙して見守る【灯火】のみ。
 一ツ目ミ子は花子さんのとある「お願い」を受けて沈黙を選んだ。火遠や嶽木は花子さんの動向などとっくに気付いていたが、敢えて美術部に伝える事はしなかった。

「いよいよ明日の今日まで来ちゃったわけだけど、本当に教えなくて大丈夫だったのかい?」
 最終下校もとうに過ぎ去り、生徒たちがすっかり引き揚げた後の音楽室で嶽木は言った。彼女が見下ろすグラウンド・設営されたままの体育祭会場には幾つもの火の玉が揺らめいているが、果たして教師たちは気づいているだろうか。
 まるで予行演習のようにトラックを踊る火の玉の群れに目を向けたまま、火遠は静かに首を縦に振った。
「構わないさ。……確かに花子さんたちのやろうとしている事は滅茶苦茶だけれど、ある意味ではチャンスかもしれないし……ね」
「チャンス、か。それはどういう意味でだい?」
 窓枠に腕を掛けながら嶽木は問う。眼下に広がる火の玉はいつの間にか青と赤の二色に別れ、花火のような幾何学模様を描きながら夜のグラウンドを怪しく彩っている。
 火遠はその輝きから目を逸らしながら、素っ気ない調子で「色々」と呟いた。そして嶽木と目を合わせ、静かに、しかしはっきりとこう言ったのだった。

「怪事、来たれり」

 生徒たちの与り知らぬ所で様々な思惑渦巻く中、いよいよ体育祭当日の夜が明ける――。

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