怪事捜話
第十談・憑呪四辻デイドリーム⑧

 時間は少し戻って、躯売家二階。
 詩弦の部屋の前へたどり着いた眞虚達三人は、辺りを取り巻く不穏な気配をひしひしと感じ取り、静かに鳥肌を立てていた。
 穏やかでない空気自体は一階の時点で……否。もっと前の、四辻通りの道に入った時点から感じてはいた。
 しかしそんなものはこの二階と比べれば平穏も同然。
 この場に満ちているのは、純粋な敵意。
 廊下から、壁から、窓から、そして詩弦の部屋の奥から。恐ろしい濃度の敵意が、抜き身の殺意が。
 三人の体に無言で突き刺さり、ギリギリと締め上げているのだった。
 ……そして、三人は感じていた。どこからともなく漂う獣の臭い。それに混じる低い唸り。見えざる何かの気配を。
 正直な所、眞虚がここへ押し入る際に叩きつけた「詩弦が死ぬ」という言葉は状況を推測しただけで確かな根拠は一つもないカマ・・だったわけだが……、どうやらあながち間違ってもいないようだった。
(なるほど、これじゃおばさんがあの調子だったのも納得……かな)
 身を刺す殺意と内側から湧き上がる恐怖に、眞虚は先程の詩弦母の行動を思い浮かべた。
 確かにこれは恐ろしすぎる。その恐ろしすぎる気配がそのまま襲ってくるのだ。近づきたくもなくなるし、近づかせたくもなくなるだろう。
 家に押し入るすれ違い様に見た傷だらけの身体を思い出し、眞虚は深く深く納得した。
 彼女は彼女なりに詩弦をどうにかしようと思って居たのだ。
 ……だが怪事に対して何の術も持たない彼女はこの異常事態に蹂躙じゅうりんされるだけ蹂躙され、そして心折れたのだろう。
(そんなおばさんが最後にせめて出来た事が、誰も家に入れずに遠ざける事だった。そして私たちはそれを無遠慮に打ち破った。……一応、後で謝っておこう)
 ふぅと一息吐き、眞虚は徐に手の指を動かしその間に十枚ばかしの護符を召喚した。
 封呪の護符五枚、滅呪の護符五枚。護身用の最低限。それらを両腕に包帯のように纏わせると、眞虚は後続の二人を振り返った。
「魔鬼ちゃん、乙瓜ちゃん。一応念の為、いつでも身を守れる準備はしておいてね。……もう、本当にどのタイミングで襲い掛かってきてもおかしくはないから」
 恐ろしく真剣な顔で言う眞虚に、魔鬼も乙瓜もゴクリと生唾を飲み、そしてコクリと頷いた。
 ジャージのままの魔鬼はハーフパンツのポケットの中からいつもの定規を取り出し、すっかり私服の乙瓜はパーカーのポケットの中に眠る護符の束に指を伸ばした。
 各々の得物を構える二人の脳裏には、あの駐車場での眞虚の言葉が浮かんでいた。

 ――多分、これから私たちは詩弦ちゃんと戦わなくちゃいけないんだと思う。

 あの時あの場で眞虚は言った。
 水祢の言う通り、詩弦は犬神の呪術を行ったのだろう。
 だが、詩弦は何らかの要因で犬の怨霊を従えることができなかったのではないかと。
 それは偶然か必然か。どうであれ犬の怨念を従えられなかった詩弦はしかし、呪術そのものは成功させていた。
 その結果として犬のような何かが詩弦の家を中心として四辻通り一帯に出没するようになり、人を襲うようになったのだろうと。
 ――そう。『犬の幽霊』と呼ばれていた犬のようなモノは、詩弦が恐らく殺したであろう犬と等号イコールで結ばれるものではない。
 それは犬のようで犬で非ず。怨霊のようで怨霊に非ず。
 しかし人々がそうであろうと思う内に、そして詩弦自身がそうであろうと思い込む中で。犬のように怨霊のように形作られたもの。
 魔に類するモノを裁断する剣や魔に類するモノを打ち滅ぼす弓矢で攻撃してはいけないモノ。
 それを傷つける事自体が詩弦の危険に繋がるモノ。
 眞虚は知っていた。呪いとは即ち想い。負の願い。
 あの結婚式場での一件で、眞虚は積もり積もった恨みや妬み、悲しみや憎しみが独立した呪詛となる事を識っていた。
 その上で彼女は推測し、そして判断したのだ。
 経緯は知らない。理由もしらない。しかし今四辻通りに在り、怪事となって人々に徒為すモノ。それは、即ち――。


「詩弦ちゃん、居るんでしょ?」
 固く閉ざされた部屋の扉をノックして、眞虚はその向こう側へと話しかけた。
 コンコンと乾いた音が静まり返った寂しい廊下に反響する。
 扉の内で何かが僅かに動いた気配がして、やがてそれは消え入りそうな言葉となって紡がれた。
「だ……れ? おかあさ……じゃ……ない…………」
 詩弦からの応答。酷く不健康なその声の中に、若干の動揺が窺えた。
「私だよ。小鳥眞虚。……ねえ、部屋に入っていい? 綾刃ちゃんが……心配してたよ」
「………………」
 数秒の沈黙。後にどこか――扉の内からドンと大きな衝撃音。
 まるで何かが全力で壁に体当たりしているかのようなその音に続き、ウウ……と低い声・獣の唸り声が響く。
「……帰ってッ!」
 扉の向こうの詩弦が叫んだ。
 情動というものが消え失せてしまったような先程までの態度とは一転、怒気を含んだ声が廊下側の壁や天井まで伝わり、空気をビリビリと揺らす。
 そのあまりの音量に、眞虚達は思わず耳を塞いだ。
 最中さなか、一つの窓がパリンと悲鳴を上げる。
 それと同時に空気が歪み、何か見えざるものが咆哮を上げた。
 気配だけで接近してくるモノを感じ取り、乙瓜は咄嗟に護符を三枚展開した。
 しかし見えざるモノはそれを容易たやすく突き破って乙瓜を壁に叩きつけた。
 ドンと家が揺れ、砂壁はぱらりと崩れ、埃が舞う。
 乙瓜は短く苦悶の声を上げるが、更なる護符をポケットから引っ張り出し、よろよろと立ち上がりながら見えない何かの気配を探った。
 しかしそれは相変わらず全方向を埋め尽くす殺気に阻まれ、乙瓜はチッと舌打ちをした。
「……乙瓜ちゃん!」
「大丈夫か!?」
「ああ、まあ……何とか。……見えないってのが本当にネックだな」
 心配を口にする眞虚と魔鬼にそう答え、乙瓜は自分達の周囲に数十枚の護符結界を展開し、眞虚に倣って自らの腕に残りの護符を巻き付けた。
 実のところ他人の家に護符をばら撒くのはどうかと思っていた部分が乙瓜にはあったのだが(『お札の家』の件は別として)、あちらが全力ならこちらも全力。
 もはや自重なんてしている場合ではなかった。
 乙瓜が淡々と結界を展開し続ける中、部屋の中からの詩弦の怒声は続いた。
「帰ってッ! 放っておいてッ! 綾刃にはもう会わないって伝えてッッ!!」
 再び空間を揺らす気迫に、三人は再び顔を歪めた。
 またどこからともなく獣の気配が迫る。しかし誰も一歩たりともその場を動かない。
 一撃喰らったばかりの乙瓜が叫ぶ。
「ふっっざけんじゃねえぞお前ッ! 逢えない理由が不鮮明過ぎて益々荒寺の心配を煽ってるって分かんねえのか!」
「……ッ、誰……!? 眞虚ちゃん以外にも誰か居るの? ……誰だか知らないけど本当に放っておいて! もう、私こんなじゃ、私誰にも会えない……っ」
 詩弦の声が次第に涙声へと変わる。
 不安定な彼女の感情に呼応するように見えざるモノが吼え叫び、結界に阻まれては天井や壁に打ち付けられ、ドスンドスンと衝撃音を響かせる。
「分からず屋ッ!」
 吐き捨てるように乙瓜は言って、チラリと魔鬼の方を見た。
「なあ魔鬼、いっそこの扉ブッ壊しちまおうぜ? そっから躯売の奴引っ張り出してとっちめてやろ?」
「よっしゃ壊すのは任せとけ」
 魔鬼は一つ頷くと半袖を捲り上げて肩慣らしし始めた。
 ともすれば……というか、ともしなくても物騒な思考に走り出した二人を振り返り、眞虚は首を横に振る。
「駄目だよ二人とも、今の状態で詩弦ちゃんを連れ出しても意味が無い」
 彼女は静かにそう言って、再び詩弦の部屋へと向き直った。
 そして再び玄関の所でしたように深呼吸をすると、静かな、それでいて毅然とした口調で言葉を紡ぎ出した。
「詩弦ちゃんが誰にも会いたくないのは、詩弦ちゃんがこうなる前にした事の所為だよね?」
「……っ」
 扉の向こうで息を飲むような音がして、その一瞬だけ辺りが静かになった。
 獣の唸り声が消え、辺り一面を満たしていた殺気が僅かに薄まったような気さえした。
 それを好機と見たか、眞虚は言葉を続けた。
「ねえ、詩弦ちゃん。詩弦ちゃんは……綾刃ちゃんや他の皆には言えないような事をしてしまったんじゃないかな。それが何なのかは、敢えて聞かないよ。……聞かないけど、今起こっているおかしな事は。きっと詩弦ちゃんにしか変えられないと思うんだ。だから、ね。詩弦ちゃん。ここ開けて。……話をしよう」
「………………」
 話をしようと呼びかける眞虚に、詩弦は押し黙ってしまった。
 周囲の沈黙も続いた。それは十秒か、二十秒か。それとも一分近くだったろうか。
 長い長い沈黙を経て、漸く扉の内から返答があった。
「駄目、だよ」
 短く拒絶の言葉。詩弦はそれを何度も何度も繰り返し、そして言った。
「……眞虚ちゃんたちももう気付いてるでしょ、分かってるでしょ。今の私に近づいたら皆酷い目に遭う。……お母さんも、お父さんも、私の知らないところでも。だからもう私、出て行かない方がいいの。誰にも会わない方がいいの。…………バチがね、当たっちゃったんだよ。自業自得なの。私が酷い事を考えたから、私が酷い事をしたから。眞虚ちゃんの言う通り、…………っ、……私、許されない事をした。とんでもない事をした。あり得ない事をしちゃった。……だからもう、駄目なの。駄目なの……!」
 叫び。それはもう叫びだった。しゃくりあげるように詩弦は叫んだ。喉を震わせて叫んだ。全てを諦めるようにそれは叫んだ。
 叫びは心のダムを打ち壊し、やがて彼女の内側に蓄積されて淀んでいた全ての感情をぶちまけさせた。

 好きな人が居た事。
 その人に親し気な別の女子に嫉妬した事。
 その女子を呪う為に人の道に外れたことをしてしまった事。
 その結果がこの様であるという事。

 詩弦の口から感情があふれ出る度、見えざる獣が吼え、結界が再び大きく揺れた。
 乙瓜はここが正念場とばかりに宙舞う護符に力を込めた。魔鬼もまた不測の展開に備えるように小声で何かを唱え始めた。
 眞虚は詩弦の言葉を一つ一つ受け止めて、それからコクリと頷いた。
「……そっか」
 そう呟いて扉を一撫でし、彼女は言った。
「詩弦ちゃん、あのね――」
 ここから先はこの怪事にとどめ・・・を刺す言葉。
 それに勘付いたのか、見えざるモノががむしゃらに暴れ出す。最後のあがきか恐るべき力で結界を一枚一枚噛み千切り、眞虚を攻撃せんとする。
「しまッ……!」
「眞虚ちゃんッ!」
 乙瓜が驚愕し魔鬼が叫ぶのと、結界を打ち破った見えざるモノが眞虚へ向かって跳んだのがほぼ同時か。
 しかし眞虚は動ぜず、護符を巻いた腕をかざすと、声を大きく張り上げた。

「詩弦ちゃん聞いて! 詩弦ちゃんや周りの人たちを傷つけているのは、詩弦ちゃんが殺してしまった犬の怨念なんかじゃない。祟りでもないし罰でもない。詩弦ちゃんを苦しめていたものの正体、それはッ!」

 見えざるモノの牙が眞虚の頭に迫る刹那、眞虚の腕が見えざるモノを捉えた。腕に巻かれていた護符がパラパラと展開し、十枚から二十枚、二十枚から四十枚へと自動的に増殖を開始し、見る間に廊下の天井から床までを覆う壁となった。

「草萼自律じりつ封縛ふうばく結界・紺碧こんぺき!」

 術式の発動。眞虚の宣言を受けては動き、彼女の手の触れる見えざるモノに大して一斉に貼り着く。
 その護符の形状に沿って、見えざるモノがその輪郭を現す。
 顔が、胴が、手足が。その形を明らかにしていく。
 動きを縛られたそれは、尚も抗うように唸る。獣の声で唸る。
 しかし現れたモノは獣のそれに非ず。乙瓜は、魔鬼は、眞虚の術中で顕現したそれの姿に息を飲んだ。
 駐車場での眞虚の言葉である程度予想していたとはいえ、実際にそうだと見せつけられるとなかなかきついものがあった。

 それは、明らかに人の形をしていた。獣の声で吼える、人型の何かであった。

 その何かを指して眞虚は言った。断言した。

「詩弦ちゃんを傷つけ苦しめていたのは、詩弦ちゃん自身……!」

 瞬間、それは大きく口を開けた。護符だけの輪郭で裂けそうなほど口をあけ、地獄の底から響くような声音で絶叫した。

 あぁあぁあああアアああアああああああああぁあぁぁあぁあああぁぁああァあぁあああああッ!!!

 大絶叫。それは躯売宅の二階に留まらず、一階も、それに繋がる大地までもを揺さぶるような大絶叫であった。
 乙瓜、魔鬼、そして眞虚は耳を塞いだ。
 塞いで尚響く音波に気が遠くなりそうになる視界の片隅で、彼女たちは包むべき形を失って崩れていく護符の群れを見た。
 扉越しに蹲る詩弦もその絶叫に耳を覆い、そして悟っていた。

 ――終わったのだ、と。

 躯売詩弦は呪詛を為し、犬神を成した。
 しかしその犬神は『犬』に『神』と書いて犬に非ず。
 呪詛を行う為に生物をいたぶり殺すと云うある種異常な状況の中で高められた恨み妬みの念とその根底にある詩弦自身の恋心、それを成就させたいと願う想いとが混ざり合って誕生した詩弦自身の分身であった。
 有ると思えばそこに在り。詩弦の分身は犬神呪詛の最後の儀式を契機に『犬神』と云う名を得て怪異として成立した。
 そして詩弦の中に生じた自罰の意識を元として、詩弦自身と詩弦を気にかける人々に害じ始めたのであった。
 それが本物の呪術の正体。そして詩弦が赦して欲しかったものの真の姿だった。

 詩弦が赦しを求めていたのは、他ならぬ自分自身。躯売詩弦はそれを悟り、――しかし全ては終わってしまった。
 己の醜き心の分身が世界を揺さぶりながら壊れていった後、自ら閉ざした扉の向こうで、眞虚の声が言う。

「この事で詩弦ちゃんの事を非難する人はもう居ないよ。だけど覚えておいて。詩弦ちゃんはしてはいけない事をした。……その事だけは、どうしたって消えてくれない事実なんだから」

 扉の向こうの気配が足音を立てて去っていく。その音を聞きながら、詩弦は扉に手を掛けたまま動けなくなってしまった。
 躯売詩弦は見つけてしまった。残酷なる現実の続きを。
 割れた唇から嗚咽が漏れる。最中どこかで獣の鳴き声が聞こえた気がして、詩弦は願った。

 どうかこれが白昼夢でありますようにと――。


 背を向けた扉の奥から伝わる湿っぽい気配に振り返り、魔鬼は言った。
「すごいキッパリ言っちゃったけど、躯売さんこれからどうするかねぇ」
 若干独り言じみたその言葉に、後ろを見向きもせずに階段を降りる眞虚が応える。
「夕方までには部屋からは出て来ると思うよ。犬神がなんだったのか気付いたら、謝らなくちゃいけない人が居る事にも気づく筈だから。ケータイの電源も入れると思う。私たちはそれを綾刃ちゃんにお知らせして、依頼はお終い」
 淀みない言葉でそう告げた眞虚の背中を見ながら、魔鬼と乙瓜は目を見合わせた。
「……眞虚ちゃんって、何か……変わった?」
 乙瓜が言う。眞虚はその言葉に足を止め、少し黙った後で二人を振り返った。

「全然」

 そう返した眞虚の両目は今にも溢れ出しそうな程潤んでいて、魔鬼も乙瓜もそれ以上何も言えなかった。



 それから。眞虚達はその後詩弦の母に急に押し入った事の謝罪をしてから家を出たわけだが、眞虚の見立て通りその日の内に詩弦は部屋を出たらしく、後日眞虚のケータイに詩弦の母親からお礼の電話が掛かって来た(番号は恐らく娘のケータイの電話帳伝いに知ったのだろう)。
 自分としては怪事を解決する為とはいえ無茶苦茶な事をしてしまったという意識しかなかった眞虚は、意外な展開に申し訳ないやら恥ずかしいやらで挙動不審になりまくりだったが……不思議と、悪い気持ちはしなかったのだった。
 解決を伝えた綾刃からも、後日部活の際に感謝の言葉があった。
「連絡あった日に電話したらつながったよー。元気になったら部活に来るってさー。ありがとー」と、些か軽い調子ではあったが、本人としてはかなり嬉しそうであった。
 ちなみに彼女には、詩弦と連絡の取れなかった原因は「感染力の強い夏風邪に罹っていたから」と伝えてある。
 ずっとうなされていたので電話やメールに出られなかったのだと。そして「昨日少し具合良くなってきたみたい。明日あたり連絡してみて」と、そう伝えたのだ。
 勿論それは真っ赤な嘘である。しかし眞虚は後悔していない。真実を他者に伝えるか否かは、罪を告白するか否かは。詩弦自身が考えた末に選択することであって、第三者が余計なお節介で伝えて良い事では無いと信じているからだ。
 きっと彼女は赦されない事をした。その後悔と自罰の念が今回の怪事となった。
 ……ならばこの問題は彼女自身のものでなければならない。その先に待ち構えているのが天国であれ、地獄であれ――。

(少し気がかりな事があるとすれば、詩弦ちゃん家から出て行った後の水祢くんの様子……かなあ。特に問題なく終わったわけだけど、水祢くんは何であんなに安心した顔をしたんだろう?)
 普段と様子の違った水祢の姿を思い浮かべながら、眞虚は完成間近の統計グラフ展示物に筆を走らせていた。
 八月七日、木曜日。今日と明日の部活が終わればいよいよ盆休み。
 幸いな事に現在の作業も明日には一段落着く様子を見せており、冷房のないなか死に物狂いで作業していた部員達にも僅かに余裕の表情が浮かぶようになっていた。
 特に一年生などは盆休みが終われば合宿だ。楽しみで楽しみで仕方あるまい。
(……まあ、去年私たちが行った所と同じなんだけどね。お化けでないといいけれど)
 昨夏のちょっとした怪事を思い出し、眞虚は一人苦笑いを浮かべた。
 そんな彼女の傍らで、思い出したように魔鬼が言う。
「そういえばさ、気になる事があるんだよね」
「何々~?」
 食いついたのは遊嬉だった。二人とも自分の担当する展示物が九割方終わったことを良い事に、すっかり手を止めてしまっている。
 そんな彼女らへの呆れ半分、眞虚は気になる話題に耳をそばだてた。
 件の二人はそれに気づかぬまま話を続ける。
「躯売さんが好きだった人、えーと、サッカー部の首買くん? だったっけ。その人最近練習来てないらしいよ?」
「え、マジ? それこさ夏風邪かなー?」
「いやそこまでは分からんけど」
「ふ~ん。……つーか魔鬼ィ~、お前なんでそんな事しってんのさー」
「なんでって、昇降口らへんでサッカー部の奴らが噂してんの聞いただけだし。……そういえば、首買くんが髪の長い綺麗な人と一緒に居るところ見たって話もその時――」
 魔鬼がそこまで言いかけた時、「真面目にやれ」と顧問のお叱りが飛んだ。
 二人は「へーい」と可愛げのない返事をし、そのまま各々の持ち場に戻った。
 眞虚もまた噂話に耳を傾ける事を止め、目の前の現実的な問題への解決へと力を入れた。
 丁度昼時だからか、田舎特有の防災無線のメロディがどこからともなく鳴り響く。確かハインリッヒ・ヴェルナーの『野ばら』だったか。
 意識の片隅で音色を聞きながら、美術部員はもうじき来るであろう解放の時を待ち侘びるのだった。


 遥か遠く、彼女らの知らない場所で。何かがひっそりと動き出そうとしていたのを、知らないまま。



(第十談・憑呪四辻デイドリーム・完)

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