寅譜結美は明菜と同じく美術部に所属する一年生である。
クラスはオカルトマニア・岩塚柚葉と同じ一年三組。
喧しい柚葉と違い寡黙な生徒で、休み時間中は仲間内の楽しいお喋りの輪の中に入るよりも本の世界に没頭したり、黙々とイラストを描いたりして過ごしているような少女だった。
悪く言えば根暗趣味の様に見えるが、意外にもクラス内でも友人は多く、しかもその友人たちは彼女とは真逆で姦しい少女達ばかりである。
明るく活動的なグループの中に、寡黙な娘がポツンと居る状況。
ともすれば苛められているのではと心配される組み合わせだが、彼女たちと寅譜の間には何の強制も嫌がらせもないというのだから、何とも不思議な娘である。
尤も、それは教師たち大人の視線から見た場合の話であり、本人たちは不思議にすら思って居ないのだが、その理由は割愛する。
美術部内では専ら上の名前から「寅譜さん」、或いは「寅譜ちゃん」と呼ばれている。
それは同じく一年の部員にもう一人、鬼無里結美と云う、読みこそ違うものの同じ字の名前を持つ娘が居り、彼女たちの入部当初混乱する部員が続出した為である。
今となってはどちらが「ゆえみ」でどちらが「むすび」であるか区別のつかない部員は居ないが、既に苗字で呼ぶのが定着してしまっている様子である。
そんな寅譜は今日も今日とて部活の時間、愛鳥週間のポスターコンクールに向けた絵を黙々と描いていた。
画用紙に描かれたカワセミの線画は、参考資料と真剣に睨み合っただけあって、なかなか気合の入った出来である。
そろそろ色を塗ってもいいだろう。
そう思い、寅譜がポスターカラーの絵の具セットを広げた時の事。ガララと音が立ち、美術部の引き戸が乱暴に開けられた。
何事かと、同じくコンクールの作業をしていた何人かの部員が顔を上げる。
寅譜もまたつられるように視線を上げると、丁度出払っていた上級生――黒梅魔鬼と烏貝乙瓜が入ってくる姿が見えた。
普段からちょくちょく部活中に姿を消すことの多い彼女たちは、帰ってくるなり二人同時に「寅譜さん、ちょっと」と、寸分狂うことないタイミングでそう言った。
突如指名の入った寅譜は怪訝な表情を浮かべながら、出しかけの絵の具のキャップを閉じ、立ち上がった。
「何でしょうか?」
小首を傾げながら歩み寄る彼女の視線の先に居る魔鬼は、もっと近くに寄れとばかりに手招きしながら「あのさ」と切り出した。
「雛崎さんの家ってどこだか知ってる? あの、雛崎燿子さんの」
――雛崎燿子。その名を聞いて寅譜は僅かに目を広げた。
「雛崎さんの家ですか? はい、知ってますよ?」
彼女は淀みない口調でそう答える一方、なんで先輩達はそんな事を聞くのだろうと疑問を膨らませた。
寅譜結美と雛崎燿子は同じ神池小学校の出身である。
古虎渓明菜はそれを知っていたが為に、恐らく寅譜なら雛崎の家を知っているのではないかと踏んで彼女を推薦したわけだが、その人選は当たっていた。
事実、寅譜は雛崎の家を知っていたのだ。
かといって、寅譜と雛崎が互いの家を行き来する程仲が良かったのかと云うとそうでもない。
もちろん険悪な関係だったわけでもないが、……単純な話、小学時代の寅譜の登下校路の途中に雛崎の家があったというだけの事である。
だから知っていた。なので寅譜は、嘘偽りなく「知っている」と回答したのだが、同時に彼女は識っていた。
目の前の上級生たちが件の雛崎により嫌がらせのようなものを受けており、その為に若干ピリピリとした毎日を送っていることを。
(まさか直接殴り込みに行ったり……なんてことは。いや、まさか……でも……)
度重なる嫌がらせに業を煮やした先輩達は、雛崎の家に殴り込みをかけるつもりなのかもしれない。
流石にあり得ないだろうと思いながら、その可能性を全否定できない寅譜が居た。
こんな考えを他所で口走ろうものなら、ひ弱な美術部に何ができるかと一笑に付されるだろうが、……しかし寅譜にとっては笑い事ではない。
それはこの古霊北中学校美術部なら誰だってそうだろう。
――古霊北中美術部二年は、幽霊妖怪を相手に日夜戦っている。それが単なる噂でないことを、美術部員は皆知っていた。
「ま、まさか先輩。まさかとは思いますけれど、雛崎さんの家を襲撃したり……とかは……」
「んえっ? いやいやいやいや、違う違う違うってば」
寅譜が口にした不安を、魔鬼は大げさなリアクションで否定した。
魔鬼は一旦乙瓜に目をやって「な?」と頷き合った後、再び寅譜に向き直り、一から事情を説明した。
「――というわけで、雛崎さんに嘘を撤回させないとヤバいんだよ」
「なるほどですか」
寅譜は得心した風に頷くと、「あの子の家は――」と口を開いた。
と、その時。開かれた扉の向こうに続く廊下からにぎやかな声が立ち、一足置いて行かれた眞虚ら三人と明菜が美術室へと戻ってきた。
「おーーい魔鬼ーー。乙瓜ちゃーん。……二人ともひっどいなあ、置いていく事もないじゃんかー」
ぶーたれた声と共に現れた遊嬉は、乙瓜の両肩を掴んで指を出鱈目にもぞもぞと動かした。
「おいやめろ遊嬉なんかそれ気持ち悪い」
「ったりまえじゃん。気持ち悪いようにやってるんだもんね」
やめろ、やだよと応酬を繰り返す彼女らの横を素通りし、明菜が魔鬼の元へ歩み寄った。
「あ、雛崎さんの家分かりました?」
「これからわかるとこ」
背後で特に意味のないじゃれ合いを繰り返す乙瓜と遊嬉に目線を遣りながら、魔鬼はぽつりと呟いた。
寅譜もそんな先輩の調子に合わせるように淡々とした口調で「そうですね」と言うと、数秒だけ考え込むような仕草を見せた後、魔鬼に向かってこう切り出した。
「――それで、黒梅先輩。これから行くんですか? 雛崎さんの家」
その言葉に魔鬼は視線を正面へ戻すと、先程の寅譜と同じように少し考える仕草をし、「出来ればそうしたいねえ」と返答した。
「なるほど、ですか」
寅譜は何やら一人でうんうんと頷くと、魔鬼の目をまっすぐに見つめ返した。
「なら行きましょう、すぐ。案内しますよ」
そう言うなりスタスタと元の席に戻り、広げっ放しの作業道具を片付け始める彼女の様子に、魔鬼も、明菜も。そしてふざけ合っていた乙瓜と遊嬉も、傍から黙って見ていた眞虚たちも皆、一様に狐に抓まれたような表情を浮かべていた。
たっぷり十秒ほどの間をおいて、背に遊嬉をくっつけたままの乙瓜がぽつりと呟く。
「異様に察しがいいな……」
信じられないものを見たようにそう言った彼女に対し、背後の遊嬉はこう返した。
「……身近に変な先輩ばっか居るとああなっちゃうんだねえ」
しみじみと言う彼女には、どうやら「変な先輩」である自覚はあるようだった。
先頭を走る寅譜の自転車を、遊嬉、乙瓜、明菜、杏虎、魔鬼の順にそれぞれの自転車が追いかける。自転車通学でない眞虚は一番体力のある遊嬉の自転車の荷台に座っている。
本来自転車の二人乗りは道路交通法違反であり、ちゃんとした罰則があるのだが……まあ彼女たちは田舎の中学生なので、警察に見つかっても精々叱られる程度で済むだろう。
だからといって真似してはいけないが。
北中裏手を流れる精霊川の土手を通る信号のない細道を、自転車たちはスピードを上げながらどんどん進んでいく。
川を挟んで向こう側の土手には十年前に廃線になった私鉄の線路が未だ敷かれており、最早存在意義を無くした踏切の警報機が斜陽に照らされて物寂しく佇んでいた。
やがて道は土手を降りて川から離れ、道の左右は田畑と林に挟まれた。
左手の広大な田畑の向こうには、古めかしい農家の家々が群れるように立ち並んでいる。
右手は椚の林で、どことなく夏の虫を想起させる土の臭いが仄かに漂っている。
そんな風景を見ながら、眞虚は感心したように呟いた。
「川裏の方は初めて来るなあ」
「こっちは小学校の学区が違うからな」
後続の乙瓜がそう答える。
「うん、それもあるけど、……ほら、私転校してきたから、町内の方とか四寺社の周りとか、道の広い所しか詳しくないんだよね」
そろそろ引っ越して四年になるのになあと、眞虚は少し恥ずかしそうに笑った。
そんな彼女の様子に、乙瓜はほんの少しだけ押し黙った。どうやら何か気の利いた言葉を探しているようだった。
そして沈黙の後、「まあ、その、なんだ」と口籠ると、こう続けた。
「……俺も来たことないし、気にするな」
その言葉に、眞虚は一瞬きょとんとした表情になり。直後、「ありがとう」と告げながら破顔した。
「おっおっおっ? なになになーに、秘密のお話ですかー?」
そこに来て、ずっと黙々とペダルを漕いでいた遊嬉がおちょくるような声を上げた。
自転車を走らせる都合上振り返ることこそしなかったが、その顔にはにやけた笑みが張り付いているだろうことが容易に想像できる声音だった。
「なんでもねーよ」
「なんでもないよー」
ぶっきら棒に返す乙瓜と、悪戯っ子みたいに返す眞虚。その返答を受けて、遊嬉は「ちぇー」と呟いた。
その時だった。
「えーっとですねえ、先輩方ー。聞こえますかぁ?」
案内役の寅譜が唐突に声を張り上げた。平時の彼女からは想像できない大声だった。
呼びかけから数秒後、二十メートルほど後方を走る魔鬼の叫んだ「聞こえるよお」という声が小さく届いた。
寅譜はそれを聞いて安心したのか、声の調子はそのままに話を続けた。
「この先で神小前の大通りにぶつかるのでー! そこ左に曲がってくださーい! 少し行ったら左手にコンビニが見えてくるんですが、……そこからちょっと複雑なので一旦コンビニで落ち合いましょー! いいですかー?」
言って耳を澄ます寅譜は、また魔鬼の声が「わかったあ」と応じるのを確認し、自転車を漕ぐスピードを速めた。
それを見て、後続一番手である遊嬉もまた負けてられないとばかりにスピードを上げた。
二人分の体重をものともせず、遊嬉の自転車はどんどん先へと進んでいく。
荷台に乗る眞虚は「落っこちちゃうよぅ!」とキャーキャー叫び声を上げているが、その叫びは本気で恐がっているというよりは、ジェットコースターに乗る人のそれに似ていた。
「おいおい、あいつらだけ楽しそうだなもう」
驚異的なスピードで離れていく先行車を見て、乙瓜は「よっ」と一声上げてサドルから腰を浮かした。所謂立ち漕ぎの体勢である。
「じゃあなー、俺も先行くわー」
乙瓜は一旦後続を振り返って爽やかな様子でそう言うと、ペダルに全体重を落とし込みながら走り去っていった。
スピード狂の如く疾走して行った彼女らを見て、最後尾の魔鬼は呆れ顔で「なんなんだ……」と呟いた。
「こんな砂利だらけの道であんな飛ばしてったら事故るぞ……」
「まーまー。マイペース、マイペース」
至極真っ当な事を言う魔鬼に対し、一台前を走る杏虎は呑気な口調でそう言った。
そんな彼女らの事を振り返りながら、二台前の明菜は一抹の不安を感じていた。
――割と深刻な事態だっていうのに、こんな遠足にでも行くようなノリで大丈夫なんだろうか、と。
これが彼女たちの平常運転である事を、明菜はまだ知らないのだった。