怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート⑤

 幾つもの夜が過ぎ、三月三日の朝は白雲越しに訪れた。
 あの日――乙瓜が攫われた二月十三日と同じ曇天。遮られた陽光がやや心許なく地上を照らす下、魔鬼ら美術部の面々はどこか覚悟を決めた面持ちでそれぞれの家を後にした。
 今日が【月喰の影】に指定された烏貝乙瓜の引き渡し日だということは、先週末の学年末テスト後に花子さんらによって伝えられていた。そして今のところ【月】側に不意打ちの動きはないが、約束を守るとも限らない、とも。
「引き渡しは放課後4時の屋上。……立ち合い人として火遠と七瓜だけを指定しているわ」
 花子さんの口からその言葉が出た時、七瓜はどこか悟ったような面持ちでコクリと頷いた。……そして、誰もそれに異論を唱えなかった。
【月】側に何かしらのよからぬ思惑がある事は明確だ。そもそも乙瓜の身柄と引き換えに最も厄介な防御術式の解除を要求しているのだから。乙瓜だけ渡してそれで終わりという事はまずないだろう。そんな事は今更態々わざわざ言うまでも無く、皆分かっていた。
 且つ、まだ起っていない事を憂いて泣いたり怒ったりする段階は、彼女らの中ではもう既に終わっていた。わめいたってどうせどうにもならない、ならば後はせめて出来得る範囲での最善を目指すしかないのだろう。
 そうして迎えた約束の十分前、午後3時50分。こんな日に限ってすんなりと終わった帰りのHRホームルームから、各々の部活目指して歩き出すクラスメートの波からそっと外れ、美術部らの姿は人気ひとけ薄れる屋上前の階段に在った。
「鍵は既に開けてあるわ。もう指定の十分前、【月】も既に近くまで来ていて、こちらが招き入れるのを待っているでしょう」
 扉を背に立つ花子さんは不本意そうにそう言うと、己より低い場所に立つ魔鬼ら美術部を振り返った。
「ヤミちゃんとたろさん、おばあちゃんと赤紙青紙たちは既に所定の場所・・・・・で待っているわ。……私もここに居るから。だから、どうかお願いね」
 そうして丁寧に頭を下げた花子さんに、魔鬼は、杏虎は、遊嬉は、眞虚は。それぞれ無言で肯定を示し、「それじゃあ」とその場を去って行った。後に残された深世は小さく手を振り見送ると、傍らに残った七瓜の背を小さく叩く。
 祈るように手と手を握り合わせていた七瓜はびくりと肩を震わせ深世を見る。深世はその驚き見開かれた目を覗きこんでわざとらしく大きな溜息を吐き、呆れたように言う。「リラックス」と。
「いや、こんな時に何言ってんだって感じだけどさ。あんまり肩に力入れすぎても駄目だよ。私もここ数週間で身に染みてよーくわかった」
「深世さん……?」
「戦う事とか出来ないけど、そもそもオカルトとか苦手だけど。励ます事くらいは出来なくもないし」
 言って、深世は更にトントンと二回背を叩く。力付ける様に、それでいて優しく。その言葉と行動の意味を飲み込んで、七瓜はどこか泣き出しそうに、けれどもそれを堪えて不器用な笑顔を浮かべ。「ありがとう」と呟いて、深世に背を向け制服の袖で乱暴に顔を拭った。まるで乙瓜がするように。
 そんな七瓜に対し、深世もまたプイと顔を背ける。
「……か、勘違いしないでよねっ。私が平和に暮らすために、ここであんたらにどうにかしてもらわないと困るだけなんだから」
 自分のキャラでもない事を言ったと自覚したのだろう。敢えて突き放すように言った深世の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。そしてその赤い顔のままでタントンと階段を駆け降りる。
「どこ行くの?」
「美術室! ……部長だし」
 呼び止める花子さんにそう答え踊り場の所で振り返った深世は、ついさっきまで立っていた場所の高さからおどおどとした目で自分を見る七瓜に向けてこう叫んだ。

「ちゃんと戻ってこいよ!?」

 そう。戻ってこい、と。これから始まるであろう何かを超えて、無事に美術室に戻ってこい、と。
 その意味が一瞬分からずにキョトンとする七瓜より高い場所で、花子さんは困ったようにクスリと笑う。こんな時なのに、こんな時だからこそ。
「やっぱり……あの子少し不器用だわ」
 小さく零し、頬を緩め、しかしその表情を再び引き締め、花子さんは残された七瓜の名を呼んだ。
「七瓜、間もなく時間ね」
「……はい」
「ここから先何が起こるかは私にもわからない。でも、あの子たちがいる。……火遠もいるから」
 言って花子さんが目を向けた左隣の空間。そこには先程まで居なかった火遠が当たり前のように立っている。
「術式は?」
「間もなく解除される」
 問う花子さんにそう答え、火遠は階段に向けて――まだ屋上へ向かう最後の階段の中ほどに立ち尽くしたままの七瓜にそっと手を差し出した。
「行こう。俺も心の準備を決めて来た」
 七瓜は己に伸ばされた手を見つめ、自分もまた手を伸ばそうとし……伸ばしかけたその手をふと見つめた。
 乙瓜と同じ手。けれども違う手。あの雷の日に乙瓜と美術部を苦しめる術を放ち、まさに目の前に立つ彼に剣を向けた己の手。
 その手を見つめ、握りしめ。七瓜は言う。火遠に向けて。
「……ごめんなさい。私はあなたにも酷い事を」
 そそのかされていた。己が消えてしまわないようにがむしゃらだった。自己を正当化する理由は幾らでも浮かべど、だからといってあの日の出来事が消えるわけではない。暴言も暴力も。一度そこから放たれてしまったものは、もう無かった事には出来ないのだから。
 けれども火遠は、七瓜の抱えるどんよりと暗い気持ちを否定するようにゆっくりと首を左右に振る。
「いいのさ。昨日は敵で今日は味方、そんな感じのことわざもあるだろう? 今あるのは、『今』だ。『あの日過去』じゃあない。永遠不変のものなんてこの世界には無い。失敗して、改めて。……何度でもくつがえして行けばいいんだよ。これからも、この先も」
 ふっと微笑み、火遠は続けた。「それに俺も悪かったんだ」と。
「君の方が影かもしれないって。情報不足から来る早とちりだったしね」
「…………えっ?」
「いや……なんでもないんだ」
 キョトンとする七瓜に誤魔化すようにそう返し、一つ咳払いしてから、火遠は改めて七瓜に手を差し出し、そして言った。
「間もなくだ。七瓜・・
 もうあの日のように「お嬢さんレディ」とは呼ばない。烏貝七瓜と云う一人の人間として彼女を呼び、求める。
 七瓜は「ええ」と頷いて一歩二歩と階段を上り、躊躇ためらいを握り閉ざしたその手で火遠の手を取った。
「ありがとう火遠さん・・・・。行きましょう、一緒に」
「ああ。一緒に」
 学校外壁の時計の長針がカチリと『12』を差し示し、学校中のスピーカーから部活時間始まりを告げる4時のチャイムが鳴り響く。そんなチャイム音に見送られるように屋上への扉を開いた二人の背中を見送り、花子さんは小さく何かを呟いた。
 殆どチャイムの音にかき消されていたその言葉は、けれど二人の耳にははっきりと届いていた。

 ――「負けないで」。応援と祈りの言葉。

 ただ敵との取引に向かうだけの二人に向けた、不自然なようで不自然でもない言葉。
 その一言を背に屋上のコンクリートの上に踏み出した彼らを待ち構えていたのは、数週間前と変わらぬ余裕の笑顔。
 見る人にどこか嫌悪感を抱かせる笑顔を浮かべた、着物姿の【月】の幹部・琴月亜璃紗だった。
「時間ぴったり、人数もぴったり。わたくしがこうしてここに立てるという事は、防御術式が解除されたという事。取引に応じて頂けて嬉しいですわ」
 人心を乱す月色の瞳を輝かせながら、亜璃紗は怪しく小首を傾げる。そんなどこか妖艶な様子の彼女をキッと睨み、火遠は言う。声を張って。
「乙瓜はどこだ。返すという約束だぞ」
「そう急かないで、大丈夫ですわ。あの子なら、ほら。あそこに」
「乙瓜……!」
 亜璃紗が指示した先、給水塔の鉄脚の下を見て七瓜は叫ぶ。そこには確かに乙瓜の姿があった。攫われたその日と同じ、今の七瓜と同じ制服姿で。意識はないのか手足をだらりとコンクリートの地面に預け、体は柱にもたれ掛かるような形で。
「……本物だろうね?」
 警戒するように火遠が言うと、亜璃紗は着物の袖で口許を隠しながらうふふと笑う。
「本物かどうかは契約者たる貴方が一番分かっていらっしゃるのでは?」
「…………」
 ピクリと不機嫌に眉を動かし、火遠は給水塔の下の乙瓜を見遣る。そこから感じられる気配は確かに偽りなく乙瓜当人のもので、【月】に与する何者かによる変化や幻覚の類には感じられない。
(けれどこの違和感は何だ……?)
 眼光鋭く眉間にしわ寄せ、火遠は慎重に亜璃紗へと視線を戻す。着物の女は揺るがぬ不気味な笑顔のままそこに在り、妙な動きを見せる様子はない。それどころか口角を益々ニッと吊り上げ、促すように言うのだ。
「どうぞ? 防御術式は解除していただけたのですから。こちらもあの子をお返ししますわよ? 約束ですもの」
 そう、約束である。だがあからさまに怪しい。
「火遠さん……?」
「行こう。だけど警戒は続けて」
 不安げに己を見上げる七瓜にそう返し、火遠は亜璃紗の気配に注意を向けたままに乙瓜の元へと進んだ。そうして屋上を覆うコンクリートの上を、文字通りの意味で地に足付けてカツカツと歩きながら考える。
 この状況下で起こり得る『最悪』の可能性は大きく三つ。一つは乙瓜を起こす瞬間に亜璃紗が襲い掛かってくる事。もう一つは、娘であるアルミレーナが提示した通り、乙瓜自身が敵となっている事。そして最後は――。
(或いはこちらには何も起こらずまた校舎が襲撃されるか――いや。どの道鬼が出るか蛇が出るかだ。先を恐れて何もしないという訳には行かないだろうね)
 思い、火遠はふと七瓜を見た。己の傍らを従順に、深世の言葉を受けて尚解け切らない不安と緊張に身を強張らせながらついて来る、影を奪われただけのただの少女の姿を。
 その姿を見て何かを思い、けれどそれを心に秘めたまま。火遠は給水塔の鉄脚に身を預ける乙瓜の前に立った。
「「乙瓜」」
 火遠と七瓜、どちらからともなくその名を口にする。すると乙瓜はうんと小さく唸ってゆっくりとその瞼を見開き、寝惚けたように火遠らを見上げ――そしてニヤリと笑った。

「――きっちり二人で来てくれると信じてたよ。馬鹿正直な君の事だからね」

 ぐったりとした様子が嘘のようにスッと立ち上がる乙瓜の口から紡がれる言葉、だがその声は乙瓜の声ではない。
 火遠はハッと目を見開き、咄嗟に七瓜と乙瓜の間を遮るように腕を伸ばし、そして叫んだ。
「お前は――――……嘉乃ッ!」
「ッ!?」
 驚きに一歩身を引く七瓜と対照的に、乙瓜は一歩前に踏み出し、嘲笑混じりに言葉を続ける。曲月嘉乃の声で、曲月嘉乃の言葉を。
間接的・・・にしろこうして話すのは久しぶりだねぇ? 火遠?」
「……乙瓜に何をした。嘉乃」
 半ば予想していた事とは言え、しかしまさか乙瓜の口から嘉乃そのままの言葉が出て来るとまでは思っていなかった火遠は、その異様な光景から目を逸らさぬままに慎重に距離を取る。それを乙瓜は面白そうにアハハと笑い、猫を可愛がるような声音で「怖がらなくていいよ?」と煽る。
「取り戻したかったんだろ乙瓜を? それをこんな風に避けたら可哀想じゃないか。酷いなあ」
「質問に答えろ。……乙瓜に何をした!」
「何をって、別に? でもああ、ちょっとね。無駄なものがいっぱい溜まっていたからさ。それを取り除いてあげたんだよ。無駄な感情とか。無駄な記憶とか。全部忘れてすっきりさっぱり。……ただ、そうしたら自分の意思で動かなくなっちゃったから、僕が直々に動かしてるワケ」
 臆面も無く言い放ち、乙瓜は――乙瓜を操る嘉乃は白い歯を覗かせた。その姿は爽やかですらあった。そこから語られる言葉がおぞましいものであるという点を除けば。
「嘉乃……お前……」
「ふざけないで……ふざけないで! 乙瓜を元に戻して! 返してよッ!!」
 怒りのあまり絶句する火遠の背後で、せきを切ったように七瓜が叫ぶ。嘉乃は憤る彼女を見てわざとらしく肩を竦め、そして言う。
「そんなに嫌がられるとは心外だなあ。元に戻せったって、僕はちゃんと戻したんだぜ? 君らに会う前の。素直な娘だった頃の乙瓜にさぁ」
 ケラケラと嘉乃が笑う中、七瓜はその腕で宙を切る。一見無意味に見えるその動きの後、彼女の手の中にはピンクの日傘が握られていた。
 影の無い彼女が影を手にする為の物。丙に仮の影を付与されている現状必要ない筈のそれは、一方で七瓜に与えられた疑似神剣・倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめの媒介でもある。
 まだ剣に変えていないものの得物を手にしたと言っても過言でない彼女を見遣り、乙瓜の中の嘉乃はニヤリと笑い。そして言う。
抜いたね・・・・? 君たちが先に抜いたんだ」
 ねっとりと。嬉しそうに。
「いけない、七瓜ッ!」
「……ッ!?」
 一瞬遅れて火遠が叫ぶ中、七瓜のすぐ鼻先を高速で何かが掠める。否、すんでの所で気付き、頭を引いたからこそ掠める程度で済んだのだ。そうでなければ頭に直撃していた。
 何かはカツンと固い音を立ててコンクリートに当たった。七瓜がそれを振り返る中、春先にしては冷めきった空気がくすくすと震える。
「あらあらあら。随分と反射神経がいいんですわね?」
 小馬鹿にするような亜璃紗の声を背に、七瓜が見遣った先にあるのは柄のあるひし形の金属のような――否、七瓜はそれをどこかで見た事があった。七瓜でなくとも日本の少年少女ならば、漫画か、ゲームか、アニメか。そのいずれかで見たことがあるだろうそれの名は――。
くない・・・ッ……!?」
 そう。忍者を取り扱った作品を見た事があれば一度くらいは目にした事があるだろう道具・くないだった。
 コンクリートの地面にしっかりと突き刺さるそれを見て、七瓜はゾッとする。もし今の一瞬の判断を間違ったら、間違いなく無事では済まなかっただろう、と。
 彼女は思い、敵から目を逸らしている場合ではないと急ぎ振り返る。その先で琴月亜璃紗は乙瓜の隣に並び立ち、その肩に優しく手を掛けながら言う。嘉乃と同じくねっとりと。
「貴女がいけないのですわよ? 貴女が剣を抜いてしまうから。私たちはあくまで平和裏に取引を済ませるつもりでしたのに」
「なっ……そんなっ……!? そんなのって……嘘よ!! そっちは初めから私たちを嵌めるつもりで――」
「あらあら。何のことですの? 証拠はありまして? いいがかりですわよ?」
 うふふと笑いながら、亜璃紗は乙瓜の髪を撫でた。あの日と同じように。だがあの日と違うのは、髪を撫でられる乙瓜が、まんざらでもなさそうな笑みを浮かべているという事か。……中身が嘉乃なのだから仕方も無い事だが、ただそれだけの事が七瓜の心をどうしようもなくざわざわと掻き乱し、簡単な反論の言葉さえ浮かばせなくしてしまう。
 そんな七瓜の様子を察したのか、火遠が代わりに言葉を紡ぐ。
「何が言いがかりだ。乙瓜をそのまま帰す気がない時点でお前たちの手の平の上じゃあないか。筋書き通りなんだろう? ……立ち合いに俺と七瓜を指定したのも。わざわざ屋上ここを――十一年前・・・・の事変で俺が二人の生徒と戦う事になったこの場所を選んだのも」
「あぁら! まあまあ。ご明察、ご名答ですわ」
 顔の前でパチンと手を叩き合わせ、亜璃紗はわざとらしく無邪気そうに目を丸くした。その下で乙瓜もまたフンと目を細め、「分かっているなら早いじゃないか」と誘うように手を伸ばす。
「まあ君や君の仲間だって馬鹿じゃない。こうなる事くらいは予定調和の内だろ? どうせ今頃校舎の中じゃ防御術式の再展開の準備やら、こちらの手勢に備えた迎撃準備やらしてる筈だ。つまるとこそっちだって初めから殺る気だったってワケさ。ならその気持ちには礼を尽くして応じないと。なぁ?」
 言って、乙瓜は天に向けた手の平の内へ五指を曲げ、七瓜がしたのと同じように宙を切った。
 瞬間、辺りの空気がぞわりと歪む。気流が乱れるような、気温が急激に下がったような、気味の悪い感触に包まれたような。得も言われぬその不気味な感覚は、火遠にも七瓜にもはっきりと感じられた。
 ほんの一瞬の不気味な体験。それが幻覚でない事は、七瓜の制服の下でぶわと立ったままの鳥肌がこれでもかという程証明している。
(何かが……来る)
 傘を手にしたまま一歩も動けない七瓜の前で。誰にも悟られぬままに冷や汗をかく火遠の前で。それ・・は乙瓜の手の中に形を成した。
 深く青い長い柄、その先端に鈍く輝く大きな刃。槍のような、鉾のような、薙刀のような。その巨大な武器を掲げ、乙瓜の中の嘉乃は言う。

「じゃあ始めようか。君たちと、君たちが君たち自身で大事な存在に育て上げてくれたこの乙瓜との。楽しく愛しい殺し合いを、さ」

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