怪事捜話
第二十談・机上空論エンドノート④

 数日が経過した。校舎の損壊や各所に残る傷痕は何事も無かったように消え失せ、表向きは何事も起こらないままに"日常"が流れて行った。
 北中内の様子と言ったら相変わらず、三年生はいよいよ一ヶ月を切った県立入試に向けて忙しく、二年生以降も大半の生徒も残り一週間を切った学年末テストへの対策で忙しい。教師陣だってそうだ。
 誰もが皆人類の危機だとかそういうものとは無縁と思っているし、知って信じたところでそれに対応するのは自分たちではないと思うだろう。それは決して悪い事ではない。皆己の手の届く範囲での事に精一杯なだけなのだから。
 日常を日常として保つための日常的な流れ・・・・・・。個々人の大小さまざまな欲求や願望に基づいた行動の群れ・・・・・。当たり前である筈の当たり前・・・・。それを指して『考えなしの愚か者たち』と批判する権利なんて、本当は誰にも無い筈なのだ。
 そんな日常・・の中で、ふと誰かが言った。

「烏貝ってあんなだっけ?」

 学年末テストを翌週に控えた水曜日の昼休み。天神坂はそんな疑問を王宮に投げかけた。最近の烏貝乙瓜はおかしくないか、と。
 王宮は黒縁くろぶち眼鏡を人差し指でクイと上げ、普段のおちゃらけた様子もなしに、只「ああ」と答えた。
 今は殆ど誰も寄り付かない、屋上へ通じる扉の前。天神坂は傍から聞けば噛み合っていないような王宮の返事にコクンと頷き、スチール扉に嵌め殺された曇り硝子ガラスに目を向けた。……意味なんてなかった。何となくである。
「八尾、お前にはなんか言ってたか?」
「何も言われてない。だんまりさ」
 問う天神坂にそう答え、王宮は学ランのポケットに特に意味も無く両手を突っ込んだ。何となく。
 天神坂は大きく溜息を吐き、「やっぱそうかあ」と壁に手を突き寄りかかった。
「かといってあの烏貝・・・・もなんも言わねえし。美術部の奴らもびっくりするほど普通にしてるし。……俺らどうすりゃいいってんだよ、なぁ?」
「どうするもこうするも、我々に出来るのは彼女の用命あるまで待機する事だけだろう。今までと変わらんさ」
「そうだけんどさぁ」
 不満気に眉をひそめ、天神坂はあの日――不審なメールに呼び出された日の事を再び思い出していた。
 クラスメート・八尾異による信じ難い、けれども体育祭での経験上簡単には否定できない事実の暴露と、烏貝乙瓜・・・・に関して提示された一つの秘密。胡散臭い『予言』。
 自分が許すまで誰にも言うな。そんな条件付きで教えられた信じ難い『未来』と、それが現実と重なりつつある現状。
 それらを思い浮かべ、彼は難しい顔で言うのだった。

「……大役だぞ。務まるのか?」

 同じ昼休みの中、八尾異の姿はあのプール裏――未だ花咲かせるには遠い様子の桜の木の前にあった。
 敷地境のフェンスに指をかけ、雨水うすいを控えた晴れの日が照らす精霊川のせせらぎに耳を傾ける彼女の傍らに立つのは、あの金曜日に一緒だった乙瓜ではない。
 幸福ヶ森幸呼。呼び出しの日・・・・・・に天神坂や王宮らと共に図書室に呼び出された少女であり、人霊入り乱れた体育祭の中で気が付いてしまった・・・・・・・・・少女。烏貝七瓜の過去を知る、確かに実在した友達・・
 彼女は精霊川に目を向けたまま振り返る様子のない異の背後に立ち、どこか思い詰めた様子でその背を見つめていた。その頭にあるのは言うまでも無く、つい最近になって見かけるようになった『あの少女』についてである。
 移動中に、休み時間中に、帰りしなに。ふとした瞬間に見かける、居ても不自然ではない少女。寧ろ居て然るべき少女。……けれども、殆ど誰も気づいた様子はないけれども。この間までの『彼女』とは、明らかに別人のあの少女。
(上手く取り繕ってるけど、『あの子』は違う。違うけど……本当は違わない。あの子は――)
 気付いた瞬間から独りでに育っていく違和感と仮説。けれども確信に至れないそれを確証へと変える為に、幸呼は異の居場所を探し当て、しかしその背を前に中々言葉をかけられないでいる。
 怖かったのだ。当たっていて欲しいけれども、当たっていて欲しくない。それは目の前の彼女の不吉な『予言』を真実へと変えてしまう事だと、幸呼は内心気づいていたから。
 声をかけるだけ、その一歩が踏み出せないままに立ち尽くす幸呼。そんな彼女を振り返る事なく、八尾異はぽつりと言う。
「ぼくに用事があるんだろう? 幸福ヶ森ちゃん」
 体はあくまで精霊川を向いたままで。けれども後ろに目があるかの如く、はっきりと『幸福ヶ森幸呼』に向けて。
 気配なんてとっくに気づかれていたのだろう。けれども一瞬たりとも振り返る事無く自分の存在を言い当てられた事に、幸呼は少なからず動揺し、びくりと肩を震わせた。
 なんで――と。幸呼が一瞬戸怯んだその間に、異は独り言のように話し始めた。
「チョコレートがさ、落ちてたんだよ」と。まるで幸呼が想像していた事とは異なる話を。
「え、何、チョコレート……?」
「そう。チョコレート」
 やっと幸呼に振り返った異は涼しい顔でそう答え、フェンスから一歩離れて言葉を続けた。
「今週から学校に通ってるいっちゃんは、いっちゃんじゃないよ。幸福ヶ森ちゃんの思っている通り」
「………………っ、そっか。やっぱり、未来が視えるって本当だったんだね」
 さらりと答えた異にそう返し、幸呼はハァと息を吐き、スゥと大きく吸い込んだ。
「心外だなあ。今まで信じてくれてなかったんだ?」
 どこか残念そうな異に肯定も否定も返さず、幸呼は彼女に詰め寄った。
「……教えて。これから二人・・はどうなるのか」
「どうなるもこうなるも。……こうなってしまった以上、多分未来は前に話した通りに進む。最悪の続きを最善へと曲げる為に、ぼくに出来ることは全てやったつもりだ。そして前にも言った通り、ぼくの言葉を信じるも信じないも幸福ヶ森ちゃんたちの自由さ」
 そこまで言って、異は思う。だが、しかし、と。
(君たちがぼくの言葉を信じてくれなければ、ぼくはぼくの視た未来に打ち勝つことは出来ない。いっちゃんを、クロマちゃん・・・・・・たちを、北中を。あの絶望的な光景の先に進めるようにするために)
 願い、口を結ぶ異を見て、幸呼は思う。
 同級生の中で自分だけが思い出した、確かにかつて友達であった存在。

 ――「助けて」って、なんだったの。
 ――知らない。そんな事言って無い。……さっちゃんが言ってる事、全然わかんない。

 ――……うそつき。もうしらない。

(嘘を吐かれてるんだと思ってた。だけどあの子は嘘なんか吐いてなかった。あの時も、あの後も。……だから、私は――)
 何らかの決意を飲み込むように。幸福ヶ森幸呼もまたその口を真横に結び、ここではないどこかを睨んだ。
 まだ見ぬ何かと戦うように。

 この北中を巻き込む【灯火】と【月喰の影】の争い。その中心地より幾らか離れた場所に立つ彼らがそれぞれに苦悩し決意する中、北中裏生徒の元には一通の手紙が届けられていた。
【月喰の影】からの脅迫の続き。連れ攫われた烏貝乙瓜の身柄引き渡しの日時と場所、交換条件としての防御術式解除のタイミングの指定。
「――二週間後、三月三日の4時か。……何が悲しくて桃の節句にドンパチせにゃいかんのか」
 その内容を花子さんらより伝え聞かされた丙は、溜息交じりに言いながら広い板の間にだらしなく身を投げだした。
 古霊町旧黄泉先村西端、居鴉寺。烏貝乙瓜・七瓜の親戚筋であり、不可視の幽体化が出来ない丁丙の当面の滞在先がそこだった。その本堂に横になった彼女は、暫く現実逃避のように天上のはりを見つめた後、うんざりと再び手紙の文字に目を遣った。
「……すぐ、魔鬼たちにも伝えるべきかしら?」
 お伺いを立てる花子さんは、床板から僅かに浮いて正座している。丙はそんな彼女を見て小さく首を横に振ると、よっと起き上がってこう続けた。
「止そう。あの子ら来週テストだろ。ただでさえ思う事は沢山あるだろうに、この事知ったら絶対にもっと疎かになる。あちきらなんかは今更トチったところでやり直しが効くけれど、あの子らの今のこの時間は一度きりしかないんだ、黙っといてやんな。……それに幾らあの子ら自身の友達の事とはいえ、これはあちきたちにとっても解決すべき問題なんだ」
「そうね……そうよね。わかったわ」
 コクリと頷き、花子さんはふっと立ち上がり、ふわりと高く浮き上がった。
 そのどことなく元気のない姿を見て、丙はふと閃いたような表情になり、軽い調子で言う。
「まあそのなに、焦る事はないさ。肩の力抜いて、気楽に構えていいんじゃあないかい? 怪談とはいえ幽霊なんだから、もっとフワフワしてさ。でないと『怪談の女王様』の名が泣くぞ? "花子さん"?」
 並の人間より発達した犬歯を見せてニッと笑う、裏なくまっすぐな丙の笑顔。花子さんはそんな彼女を振り返り、困ったように、呆れたように、けれどもその言葉を肯定するように。ほんのりと微笑んだ。
「ありがとうね」
「なんのなんの。礼を言われるまでもないさね」
 短い遣り取りの後居鴉寺を去る花子さんを見送り、丙は再び仰向けに倒れた。
 晴れの日であれどまだ肌寒い日の続く二月半ば。暖房器具もなく冷気染み入る一方の床板に四肢を伸ばしてふうと息を吐く白い猿神は、そのままの体勢を崩さずに本堂奥の壁に目を向けた。
 そこには彼女の秘書である黒スーツと七三別け眼鏡の男・烏丸捧が置物のように座っている。先日は皆が美術室に揃う中一人職員との対応に当たったご苦労な男が。
 彼は己に向けられた視線に気づき姿勢をただすと、何の指示もされぬままにノートパソコンを開き、幾らか弄った後でその画面を丙へ向けた。
 その画面を見、丙は呟くように言う。

「まあ、幾ら脅迫されてるからって【灯火こちら】もただ手をこまねいているだけじゃあないさ」

 獲物を狙うように怪しく光る眼の奥には、映り込んだ文字たちが御馳走のように踊っていた。

『残留妖気解析:76%完了
 敵本拠地候補:249/1385まで絞り込み
 解析完了まであと…約10日
 …………
 ……』



「……あいつめ。仮にも詮索するなと脅迫される最中で危険な真似を」
 夜明けに輝く下弦の月を睨み、玉織は呆れ果てたようにそう漏らした。
 古霊町北端・神逆神社境内。遥か昔大霊道を封印した薄雪媛神の神体を祀るその場所にて、玉織もまた来たるべき日に備えていた。
「なんぞあったのかの?」
 境内の白砂利の上を音も無く歩き、今や在りし日の力を失った戦神は幼子の背丈で玉織を見上げた。巫女姿の神属はそんな古の神の視線に膝を屈め、目線を合わせて「いえ」と首を振った。
「なんでもないのでございます。当方・・の代表が勝手に妙な真似をしているのが視えたので」
「うぬ、ああ。丙か。まあ、あれとて思い付きやヤケクソから事を起こしているわけでもないじゃろう。……今日の今日まで儂らに一言もないのだけはどうかと思うがの」
 ただでさえ風船のような頬を膨らませながら薄雪がぼやくと、その背にした拝殿で「そうよそうよ」と誰かが言う。
「私ですら頭下げて居させて貰ってるってのに、お猿さんは挨拶もできないなんて無礼ねえ」
 どこか愉快そうにそう言う誰かはエーンリッヒだった。不遜にも賽銭箱の上に腰かけて足を組んだ彼女に玉織の鋭い眼光が飛び、主たる薄雪からはたっぷりの呆れを込めた視線が送られる。
「……いや、一番無礼なのは間違いなくお主じゃよ。というかただ待機しているだけなら夢想世界とやらに帰ったらどうなんじゃ……」
「あら、別にいいじゃない。私ここ気に入ったわよ?」
「……渡来の悪魔の分際で図々しい」
「やだわ分際だなんて、私たち界隈の悪魔なんてこの国風に解釈すればカミサマとそんなに変わらないものよ? 仏教の悪魔ブディスト・デーモンになるとあんまり知らないけど」
 立ち上がって睨みを利かせる玉織にきゃははと返し、羊の悪魔はその頭と黒い角を愉快気に揺らした。そうして苛立ち果てたような玉織と困り果てたような薄雪を改めて見つめ、くりくりと丸い目に怪しく紅い輝きを宿してニッと笑む。
「――まあ、だから今度の件。私個人・・・としても協力してあげる。人間どころか人間じゃないモノたちまでが強く求め訴える事なんて、悪魔としても応えてあげたくなるじゃないの」
 我が契約の大魔女サマだって、想定が幾らか狂った方が楽しいでしょうから。そう続け、悪魔は賽銭箱から尻を退ける。トンと石畳に靴底を付き、ふわりと髪を揺らすは朝風。東雲しののめの空に輝く明星。
 一日二回訪れる、光と闇の境目の時間。その闇に沈んだままの鳥居に続く階段の果てから現れた者を、エーンリッヒは悪魔らしく妖艶な笑みで迎えるのだ。
「待ってたわ。勇気は出たわけ? "運命の星"の主」
 玉織と薄雪が鳥居を振り返る。しかし神の類たる彼女らは驚きはしない。分かっていたと言わんばかりにを見て、後はもう口々に言うのだ。
「遅い。どこで道草食っていた」
「やあっと来よったな。まあお主が動かない事には始まらんからの、しっかりするのじゃぞ」
「――ええ」
 古の神に凛々しく頷き、彼は――火遠は。白む空に決意の眼差しを向け、その身の炎を強く燃やした。

 闇をかき分け光が昇る。その彼方から、いずれ再び闇がやってくる。
 繰り返し、繰り返し。その繰り返しの終わりに在るのは果たして光か闇か。希望か絶望か。
 止まる事無く巻き戻る事なく、ぐるぐると廻る月日の果てで、火遠は。美術部たちは、そして七瓜は願っていた――。

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