怪事捜話
第十八談・ラブミー・U→I・ラプソディ②

 呼ばれている。求められている。請われている。
 彼方に居る誰かの叫び。届くとも知れない訴え。叶うとも知れない望み。
『あなた』から、『わたし』へ。
 殆ど消えかけの叫びに呼び起こされて、それはゆっくりと目を覚ます。



 あの合宿から二週間近くの時が過ぎた。短い三学期はすっかり折り返しを迎え、私立入試を終えた三年生は県立入試に向けて慌ただしく、下級生は下級生でそんな三年生を送る準備や間もなくやってくる学年末テストへの対応でてんてこ舞いの様子だった。
 美術部もまた日常の中に戻りながら、思い詰めすぎない程度に未だ姿を隠したままの【月喰の影】への警戒を続けていた。
 そして迎えた二月十三日金曜日、カカオ教の宗教行事であるバレンタインデー前日。翌十四日が休日土曜に重なるからか、世間では今日が本番とばかりにチョコレートに支配されていた。
 それはここ古霊北中学校でも同じことで、教室に職員室に義理本命に友チョコ問わず飛び交う中、色恋とトラブルを司るカカオの神に愛されない者たちからは不満の声と共に「なんと呪われし十三日の金曜日か」という悲鳴が上がっている。悲しきかな。
 一方で生まれながらにしろ死後にしろこの世の者ではない学校妖怪・裏生徒たちの間では、この製菓会社の陰謀……もといカカオ教の宗教行事は割と好意的に受け取られていた。それには美術部が昼休みにお供え物と称してチョコレートを配布したから以上の理由はないが、一部の表生徒の阿鼻叫喚とは裏腹に、裏生徒たちのバレンタインデーはなんとも平和なものだった。
 そう、北中も美術部も学校妖怪たちも平和だった。……表向きは。
 お祭り騒ぎの昼休みも超えて五時間目の二年一組教室。再来週の学年末テストに向けて歴史の授業がまとめに入る中、一見して熱心に板書を写しているように見える烏貝乙瓜の気持ちはというと、この授業とは全く別の所にあった。
 その一つが眞虚の事だ。合宿から帰って実に十日以上が過ぎたにも関わらず、乙瓜は眞虚に事の真相を聞くことが出来ずにいた。というより、あれ以来二人きりになりそうなタイミングでさり気なく逃げられている様子でなかなか話に入れないというのが正しいか。メールも送ってみたものの、『いずれちゃんと話す』という返信以降進展がないのが現状だ。
 眞虚が一体どういうつもりでいるのか、乙瓜は知らない。以前杏虎が言っていた事に何か関係があるのではというところまでは想像がつくのだが、それも眞虚当人と話をしないところには定かではない。
 そして気になると言えば杏虎の事もそうだ。「一人で秘密を抱えるのが辛い」と眞虚の事を打ち明けた当の彼女も彼女で、近頃は部活の無い日にはさっさと学校を去ってしまい、こちらも中々話すタイミングが掴めない。クラスの噂によればどうも町の図書館に行っているらしく、周囲には早目の受験勉強だと思われているものの、例によって『そのうち何かわかったら』という意味深なメールだけを貰った乙瓜としては、何か学校の勉強とは違う事を調べているとしか思えない。
 眞虚も杏虎も一体何を考えて動いているのか。乙瓜にはまるで分からない。……遊嬉もそうだ。あの日――火遠が【灯火】と【月喰の影】、己と曲月嘉乃との因縁を語ったあの日。乙瓜が聞いてしまった遊嬉の言葉。

 ――そんで、いずれきちんと話すんだよねえ? 乙瓜のことも、全部。

 遊嬉は何かを知っている。乙瓜たちの知らない何かを。ヘンゼリーゼや魔女の事然り、乙瓜ですら知らない乙瓜の事も。だがあれ以降も本当に何事も無かったように振る舞う彼女を前にして、乙瓜はその真相をずっと聞けずに居た。……怖かったのだ。それを聞く事で、己の中の何かが変わってしまうような気がして――。
(……本当は……、四の五の理由付けてないでちゃんと聞くべきなんだよな。聞かなくちゃいけないんだ。そうでないと多分俺、いつまで経っても『不合格』のままな気がする……)
 思い起こすのは丙の言葉。――『本当にわかっていないのか』。哀れみの籠ったその言葉に伏されたわかっていない事――わからなくてはいけない事の答えを、恐らく遊嬉が握っている。乙瓜にはそんな気がするのだった。
 チラリと遊嬉の席に目を向ける。今は廊下側の横中列に席を置く乙瓜から右に縦一列隔ててやや前方に座る彼女は、社会科教師の話を聞いているのかいないのか、板書を写すにしては随分とのんびりと気ままな様子でペンを動かしている。乙瓜が言えた義理ではないが、遊嬉の頭の中に於いて歴史の授業とはまるで無関係な事が展開されているだろう事は想像に難くない。
 乙瓜の視線はそんな遊嬉と同時に眞虚の姿を捉えた。遊嬉の前の席に座る彼女は、相変わらず優等生めいて真面目に授業を聞いているように見える。
 ――この際眞虚ともきちんと話をしなければならない。杏虎とも。山積みの課題と問題を先送りにする己の意志薄弱さを前に、乙瓜はほとほとげんなりした。
 そうして人知れず落ち込む乙瓜の背中が、不意にトントンと叩かれた。恐らくは人差し指で。ちょいちょいと優しく触れる感覚にドキリとしつつ乙瓜が振り返ると、後席のクラスメートが白い紙――授業中に時折出回る手紙だ――を差し出し、「こっちゃんから。乙瓜ちゃん宛て」と小声で言う。
 乙瓜は「えっ」と思い、『こっちゃん』こと八尾異の席を見る。クラスの縦中列・最後尾に席を置く彼女は、乙瓜と目が合うと小さく笑って、それから何食わぬ顔で授業を受けている姿勢に戻った。それを見た乙瓜も、いつまでも不自然に後ろを向いているわけには行かないので姿勢を戻し、教師の視線がこちらにない事を確認してから、こっそりと手紙を開いた。
 ルーズリーフを折りたたんで作られた手紙には、そう言えば今日にいたるまで見る機会のなかった異の文字でこう書かれていた。――『放課後にプール裏の桜の木の前で』と。文面はまるで告白か、あるいは不良の呼び出しのそれである。だが差出人が差出人故にそのどちらとも違う何かを感じさせる文章の横には二頭身にデフォルメされた狐のイラストが添えられ、まるで招き猫のように前片足を上げている。
(絶妙なタイミングでなんなんだ一体……)
 思いつつ、しかし無視するわけにも行かず。乙瓜は己のルーズリーフをそっと取り出し、返信をしたためるとそっと後席の彼女へと渡した。
 それから教師は特に何も言わなかったので、手紙は無事に異へと渡ったのだろう。乙瓜は振り返りはしなかったが、返事を受け取った異がニコリとしたであろう事は容易に想像できた。
 そして乙瓜にはもう一つ確信があった。恐らく、この放課後に何かがはじまるのだ――と。


 同じ五時間目の頃、黒梅魔鬼の姿は図書室にあった。
 本来二年二組のこの時間は体育の授業なのだが、体育教師の首藤がインフルエンザを発症し、もう一人の体育教師である更科は出張中。且つ学年末テストも近いという事で、この時間は自習に。そして監督としてやってきた教頭に「騒がなければ図書室を使ってもいい」との許しを得たので、魔鬼も何人かのクラスメートと共に図書室へと移動したのだった。
 監督者の目を離れた事で雑談を始める生徒も少なからず居る中、魔鬼は間もなく来る学年末テストにて幾らか不安な科目がある為、その勉強に取り掛かっていた。そんな彼女の向かいには深世が座り、こちらも真面目にテスト勉強に取り掛かっている。
(……ずっと怪事について考えてたからなー。学年の終わりくらいはいい成績残さんと)
 などと考えながら魔鬼が教科書とノートを交互に睨んでいると、その隣の椅子を誰かが引いた。魔鬼が気づいて顔を上げると、そこには先のスキー合宿でも、更にさかのぼれば一年時夏の合宿でも同じ班で、決して悪からぬ仲のクラスメート・幸福ヶ森幸呼の姿があった。
 彼女は魔鬼と目が合うと会釈のようにコクリと頷いて、引いた椅子にかけ己のノートや教科書を机上に広げ始めた。そこまでなら特に気になる事も無く、魔鬼も再び己の作業に戻って行った。……のだが。それから一分が経ったか経たないかの間に、幸呼の方から魔鬼の方へとそっと差し出されるものがあった。
 机上を滑らせ、スッと。己のやることに集中していた魔鬼は、それに気付くまでにたっぷり三十秒以上の間を要した。
(……?)
 怪訝に思うのを隠さないまま目を遣る先には、伏せられた白いメモ用紙。その紙と、今は何でもない風に教科書ノートに目を走らせる幸呼の姿を交互に見た後、魔鬼はメモ用紙を手に取った。
 裏返した用紙の裏を見ると、そこには紛れも無い幸呼の字でたった一言。

『ききたいことあるんだけど』

「聞きたい事……?」
 思わず口に出して復唱し、魔鬼は幸呼を見遣った。幸呼は来た時と同じようにコクリと頷いてメモ用紙を軽く指さすと、無言のまま己の持つペンでノートを二回、トントンと叩いた。どうやら返信はその余白に描いて寄越せ、という事らしい。
 魔鬼は奇妙に思いつつもわかったと頷き返し、幸呼の文章の下に繋げる形で言葉を書き、来た時と同じように伏せて返した。以降暫く筆談が続く。
『聞きたい事って何? 言葉に出せないこと? 今じゃなきゃダメなこと?』
『それはあとではなす。まきちゃん二小だよね?』
『そうだけど』
『八尾のこっちゃんって 予言出来るってほんとう?』

「…………?」
 魔鬼はその返事に眉をひそめた。この自習時間、わざわざ筆談までして聞きたい事が隣のクラスの同級生の事だと言うのだから、それも自然な反応である。
 どうして今このタイミングでそんな事を? 魔鬼は不審に思いつつ、確かに自分と同じ小学校出身の彼女の姿を思い浮かべた。
 八尾異。夜都尾稲荷の宮司の娘であり、現在の北中美術部に匹敵する程の『伝説』を持つ少女。
 曰く、二小の霊感少女。魔鬼たち社祭第二小学校ニショー出身者にとっては有名な話だが、恐ろしく学校を休みがちな彼女の休み初めの一日目は、しばし妙な事が起こるのだ。それは例えば誰も居ない教室で妙な声を聞いたという話から始まり、直前まで普通に友達と歩いていたのに突然膝から血を流す子が出たり、何の脈絡もなく廊下の硝子ガラスが割れるなんて事も起こった。魔鬼からすると、今となってはそれらの何割かは思い過ごしか偶然であると思う。だが、そんな奇妙な事はかなりの確率で異の休みと同時に起こるのだ。
 だがそんなものは伝説の序の口も序の口。異が霊感少女として名を上げる事となった最たるものは、彼女が二小で残した数々の言葉にある。
 魔鬼らが三年生の、恐らく六月。暫くぶりに学校に顔を出した異は、教室にある硝子の花瓶を見るや、何気ない調子で「次は割れにくいのにした方がいいよ」と呟いた。それから三日後・異が再び学校を休んだ日。水を変えようと花瓶を持ち上げた担任がよろけて、硝子の花瓶を粉々に割ってしまったのだ。幸い怪我人は出なかったものの、新しい花瓶はアクリル製になった。
 同じような事は卒業までに片手で数えきれない程起こり、異のお陰で不幸を免れたという児童まで存在する。故に異はいつしか霊感少女、或いは予知能力者として片田舎の小学校という狭いコミュニティ内で多くの子供たちの畏怖と信仰を集める事となる。心が読めるだなんて言いだす者も現れ、終いには『二小のノストラダムス』なんて渾名が生まれていた。尤も、予知能力だとか心が読めるだとかの噂は、他ならぬ異本人が言及される度に否定していたが。
 今でこそ美術部の噂のインパクトに隠れてしまっているものの、二小出身者で間で八尾異の噂を知らない者はまず居ない(小学時代の魔鬼も魔法少女疑惑で幾らかは噂になっていたが)。故に社祭第一小学校イチショー出身の幸呼がその噂をどこかで聞いたとしても何ら不思議な事はない。
 だが魔鬼は思う。言ってしまえばたったそれだけの事を、こそこそしながら尋ねる意味は何だ、と。
 思いながら向かいに座る深世を見る。相変わらず勉強に注力している彼女が二小出身者であることは、幸呼も知っている。ホラー方面のオカルト話は好きではない彼女だが、不思議に毛が生えた程度の異の話ならば、能力の真偽は兎も角として何かしらのエピソードくらいは語ってくれるだろう。何ら問題はない。……なのに、わざわざ話題を隠す意図は何か。
 魔鬼はチラリと幸呼を見た。幸呼もまた魔鬼の様子を窺うように視線を向けている。そんな彼女の姿を見て、魔鬼は改めて考える。
(どういう答えを期待してるんだろうか……? 正直私も異の予言が本当かどうかなんて知らないし。ていうかそもそも小学校が同じだけであの人休みがちだし、帰る方向違うし! そんなに仲良かったわけでもないし!? 寧ろどっちかってーと苦手だよ!? 何考えてるかよくわかんないし!! ……ただ、遊嬉辺りは純粋に凄いと思ってるらしいし、夏頃から乙瓜とたまに話してるの見るけど)
 などと取りとめもない事を考えながら口を真横に結び、暫く冷静な間を置いた後で魔鬼はメモ用紙にこう記した。『たぶん』と。
 それを幸呼に回すと彼女は微かに目を見開き、それからごく小声で「ありがとう」と返した。以降、メモ用紙が返ってくることは無かった。何がありがとうなのか魔鬼にはさっぱりわからないが、一先ずは彼女の望む答えを与えられたらしい。
(なんだったんだろ)
 魔鬼が微妙に釈然としないものを心に抱える中、スピーカーは授業終わりのチャイムを鳴らす。雑談に終始していたグループから図書室を後にする中、魔鬼もまた我に返って広げっぱなしの教科書ノートを片付け始める。
 その最中、同じく片付けに入った深世が何気なく言う。
「お前ら私の前でカサカサと何してたん? 地味に気になったんだけど」
「うえっ、あー……ごめん。いや、ちょっと幸呼ちゃんと――」
 言いかけて魔鬼が見遣った隣席には、既に幸呼の姿は無かった。慌てて図書室内を見回すも、やはり幸呼の姿はどこにもない。
「……あれ?」
 狐に抓まれた気分で呆然とする魔鬼。そんな彼女に怪訝な視線を送り、「ほら戻るぞ」と深世が急かす。それにぎこちなく頷いて、魔鬼と深世もまた図書室を後にした。



 やがて迎える放課後、空を覆う厚雲、連立する疑問。
 乙瓜と魔鬼の足はそれぞれの疑問を解消すべく動き出す。

 一方そんな事とは関係なく、調理室ではゴムベラがゆるい渦を描いていた。

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