怪事捜話
第十七談・雪山妖霊スノーデイ③

 金曜日、一月二十三日早朝6時半。前夜からの雨はまだ続いていたが、小雨程度に収まっていた。
 乙瓜は車で送っていくという母親の言葉をやんわりと断り、普段の学業品よりも幾らか重たい宿泊グッズと必要品を自転車の荷台にどっさりと乗せて防水シートを被せた。自身もジャージの上に雨合羽を羽織り、雨の降る中で学校へと向かう。
 一月の朝。未だ日の出前の道は暗くて心許こころもとなく、雨は冷たい。大荷物もあってか普段よりもいくらか重いペダルを漕ぎながら、彼女はふと思い出す。そういえば、一年生の合宿の時も似たような遣り取りをしながら学校へ向かったのだったと。
(なつかしいなあ。あの日は今日と違って夏で、晴れてて。――……あの頃は、学校がどうなるとか考えたこともなかったなぁ。大霊道の事とかも)
 懐かしさの中に僅かな寂しさを覚えたのは、きっと錯覚ではないのだろう。知られざる【灯火】と【月喰の影】の因縁と戦いを知って、自分たちの見ている景色はあの夏とは全く変わってしまった。もう知らなかった頃には戻れない。
(戻れない。……けれども、それは俺たちだけで全部を背負い込む事だけじゃない。花子さんたちだって本当はずっと強い。力を貸してくれる神様もいる。まだ知らない火遠の仲間だっているかもしれない。……俺たちだけですべてが動いているわけじゃなかったんだ。いつの間にか背負い込んだ義務感からすっかり見えなくなっていたそれを、深世さんと火遠が教えてくれた。……だからもう、見失いたくない)
 ハンドルを握る手にぐっと力を籠め、乙瓜は強くペダルを踏み込んだ。
 ――信じよう。楽観ではなく、自分たちの仲間の力を。
 決意を新たに見上げた空は、幾らか晴れの気配が近づいたように見えたのだった。

 そうして乙瓜が辿り着いた北中前庭は、送りの車で幾らか混んでいた。雨天だから猶更なおさらとも云える。大型バスが未だ到着していないのが不幸中の幸いか。そんな状況を横目に乙瓜はいつもの駐輪場に自転車を停め、平時より随分と空いているその場で雨合羽の水気をバサバサと豪快に払った。
「随分と大胆だね?」
 不意にそんな声がかけられて、乙瓜ははっと振り返る。果たしてそこには、冬の冷気の中で生まれたかの如く白い顔の八尾異が立っていた。肩からはそのはかなげな外見に釣り合わない大きなバッグを提げ、蛇の目柄の雨傘を差している。
 そんな異の姿を見て、乙瓜は思わず「八尾さん合宿くるんだ?」と口にする。クラスメートが学校行事に参加する、それそのものは何の不思議もないのだが、事・八尾異に関しては幾らか事情が違う。
 確かに体育祭には参加してはいたが、異は恐ろしく学校を休みがちなのだ。現に三学期に入ってからこの方二週間ばかりも、片手で数える程しか出席していない。同級生たちはその様を見て異を『病弱』などと評しているが、以前乙瓜に語った理由が本当ならば、彼女は気まぐれに学校に来たり来なかったりしている『自由人』(悪く言えば『不良』)である。
 故に乙瓜は、三日も日程を拘束される合宿には異は来ないのではないかと勝手に考えていて、それが思わず口から零れてしまったのだった。
 ともすれば失礼なその発言を受けて、しかし異は何事も無かった風に「あたりまえじゃないか?」と首を傾げる。
「ぼくが君たちに嫌われているでも疎まれているでもなく、一生に一度ほどしかない行事に参加してはいけない謂われでもあるのかい?」
「そりゃ、ないけども……。ていうか一生とか言い出したら普段の授業もそうじゃんか。ちゃんと出席しなよ」
「それはそれ、これはこれ。……それに、ぼくにはぼくでやることがあるしね」
「やること……?」
 怪訝に眉を顰める乙瓜に、異は「そうさ」と笑った。乙瓜は益々わけがわからないと思うが、同時にふと、あることに気づいた。
「そういえば、八尾さんいつ頃学校に来たんだ?」
「十分程前かな。父さんに送ってきてもらったんだ。それからずっと昇降口で待ってたよ」
 答え、異はどこか楽しそうに傘をくるりと回した。その答えに、その様子に。乙瓜は己の疑問はおかしなことではないと確信し、そして言った。
「……じゃあどうして駐輪場に?」
 問うと異は僅かに口角を上げて、嬉しそうにこう答えるのだ。「烏貝ちゃんが居るような気がしたからね」と。
 その答えに、乙瓜は思った。やっぱりこいつはとんだ曲者だと。
 家族の車で来た生徒が自転車で来る友人を待っている事自体は不思議でも何でもない。だが、学校裏手の駐輪場は昇降口から直接見える場所にはない。
「見てたのか?」と言う乙瓜に、異は首を横に振った。訊ねた乙瓜自身もなんとなくそんな反応が返ってくるような気がしていた。
 だから乙瓜は、たっぷりの溜息と畏敬と呆れを込めて、彼女にこう言ってやったのだった。
「お前やっぱり普通じゃねえよ」と。
 異はニコリと微笑んで「君がそう思うだけだよ」と返したのだった。

 それから二人で昇降口に向かい暫く待っていると、ちらほらと美術部の面々も顔を出し始めた。
 眞虚に魔鬼、杏虎。皆昨日までの何かを思いつめた様子は無く、どこか吹っ切れたような表情で乙瓜におはようを言ってきた。少し後にやって来た深世は、揃いつつあった彼女らを見てどこか安心したような表情を浮かべ、それから少し気恥ずかしそうに挨拶をした。……遊嬉は、皆がバスに乗り始めた頃になって現れた。多分寝過ごしたのだろう、頭に妙な寝癖が残ったままだ。……が、そんな姿が美術部を却って安心させた。担任にはギリギリに来るなと怒られていたが。
「おやつ何持ってきた?」
 二年一組のバスにドタドタと乗って来た遊嬉の第一声がそれだった。彼女は丁度乙瓜の前の席で眞虚の隣、ついでに言うと乙瓜の隣が杏虎なので、その一角だけ美術部で固まっていた。ちなみに通路側が眞虚と杏虎、窓側が遊嬉と乙瓜である。
「昨日の今日で第一声それってある意味すげーな」
「凄い所があたしの取り柄! はい。おやつプリーズ」
「うん? 褒めてないからな?」
 乙瓜は能天気な調子の遊嬉に呆れながらもホッとして、前席から身を乗り出す彼女にチューイングキャンディを一つ渡した。杏虎は杏虎で「お前にやるおやつは無ぇ」なんて言いつつも、チョコ菓子を幾つか渡すのだった。
「なんか、みんな元通りになっちゃったね」
 喜んでいいやら悪いやら、と困り気味に笑う眞虚に、「気にしなさんな」と遊嬉が言う。
「今までが肩に力入れすぎだったんだよ。……深世さんに怒られてちょっぴり考えたんだけどね。あんま難しい事はあたしにゃーわからないけど、誰かを信じて頼る事も戦いなんじゃないかなって思う。英気を養う事もねー」
 だから今日から数日は難しい事はあまり考えないと言い切って、遊嬉はにへらと笑った。
「いや、ほんのちょっとだけは考ろよ?」
「気が向いたらねー」
 ツッコむ杏虎をあしらうようにして、遊嬉は受け取ったままのチョコ菓子を口に放り込んだ。それを一つの区切りにするように、思い出したように乙瓜は言った。
「そういえば、火遠の奴が昨日言ってたんだけど」
「ん? 何をさ?」
 振り向く杏虎と前席の二人の視線を集め、乙瓜は昨晩自分が聞いた事を話した。それを聞いた杏虎と眞虚はどこかキョトンとしていて、遊嬉だけがどこか楽しそうな表情で「ついにかー」と漏らした。
「お前相変わらず事情通な……」
 すかさず杏虎がそう言うと、遊嬉は事も無げに「だって知ってんだもん」と答え、更に続けた。
「件の本部は、あたしらがこれから行く場所からそう遠くない場所の結界の中にある、普通じゃ絶対行けない場所。嶽木は疑似神域がどうとか言ってたかな。まあ、そこに行くって話自体はあたしも初耳だけれど」
「……ふうん。まあ何にしろ、そんなところにあたしら呼び立てて火遠はどうするつもりなんだろね? というか合宿の日程もあるのにいつ抜け出すのさ」
 ある種当然の疑問を口にして、杏虎はチョコ菓子を口に放って乙瓜を見た。最初にこの話題を持ち出したからだろう。しかし具体的にいつどうやって本部に向かうかまでは聞いていなかった乙瓜は言葉を詰まらせしどろもどろになるばかりだったので、杏虎は釈然としない表情で遊嬉を見た。
「まあ、火遠の事だし全くのノープランではないんじゃないの。そこは後で直に聞いてみるしかないさね。……ところで乙瓜ちゃんよ、当の火遠はこのバス乗ってくるん?」
「えっ、あ、ああ。なんか現地で合流するらしいぞ?」
「ふうん。――おっと」
 乙瓜の答えを聞いた直後、遊嬉は隠れるように座椅子の向こう側に頭を引っ込めてしまった。どうやら出発を控えて担任が改めて出欠を確認しはじめたようで、眞虚もそれに気づくと「また後で」と座り直してしまった。
「――まあ、くたびれるようなことにならなければなんでもいいけどさ」
 杏虎がそう呟く傍ら、名前を呼ばれた乙瓜が返事をする。隣もいるかとの問いに答えてからふと窓を見て、彼女は気づく。
「杏虎杏虎」
 ちょいちょいと肩を叩く乙瓜に、杏虎もまた窓の外を見た。そして「ああ」と小さく感嘆の声を漏らす。
 窓の外の前庭には見送りの校長や他学年の教師が並んで手を振っている。そして彼らの後ろには、早朝の人気ひとけ少ない校舎の窓から身を乗り出し、元気よく手を振る彼ら・・の姿があったのだ。
『いってらっしゃいね』
 長い髪を赤いリボンで二つに留めた花子さんの口は、確かにそう動いていた。その隣の少しガラの悪そうな闇子さんの口は、『まかせな』と叫んでいるようだった。
 何も言わずに学帽を振るたろさんの姿もあった。真似するように赤い帽子を振るエリーザも居た。いつもの貼り付いたような笑顔で両手を振るてけてけも居た。ヨジババもいた。どこからともなくにょっきり生えた沢山の手は、海藻みたいにゆらゆらと動いていてちょっぴりホラーだった。
 そんなシュールなお見送りを見ながら、乙瓜はクスクスと笑った。杏虎は顔を背けて噴き出した。
 前席の二人は気づいているだろうか。そして二組のバスに乗る魔鬼は気づいただろうか。そんな事を考えながら、乙瓜は彼らに小さく手を振り返し、そして小声で、口だけははっきりと開いてこう答えたのだった。

 いってきます、と。



 一方その頃、火遠の姿は古霊町とは離れた電車の中にあった。
 通勤ラッシュを僅かに回避した時間帯だからか、それとも行き先が都市部を離れる形になるからか。車内の空席には随分と余裕があり、火遠もまたボックスシートを確保して、向かいに座る人物に話しかけた。
「相変わらず電車は嫌いかい」
「別に」
 対面の彼――水祢はむっつりとしたままそう答え、目まぐるしく変わる、特に興味も無い都市部の風景に目を遣った。
 ボックスシートには彼ら二人の他には誰も居ない。夏の頃には嶽木も居たが、今回の旅路に彼女は居ない。先の勾玉の力によるダメージが回復しきらない彼女は、いざという時に戦う力を欠いたままでは足手纏いだろうと同行を辞退したのだ。
 結果として火遠と二人旅の形になった事は、水祢としては喜ばしい事だった。だのに今こうして不機嫌を晒しているのは、火遠の言う通り電車のような人ごみを生む空間が好きではない事も勿論あったが、それ以上に今回の旅の目的が大きかった。
 美術部を【灯火】本部に招く。それは【灯火】の現代表である丁丙が【月喰の影】と戦う為に彼女たち・・・・の事を知りたがっており、そして彼女たちが【月喰の影】との戦いを選んだ以上は避けては通れない道であろう。だが、だからこそ水祢は憂鬱なのだ。
 己と契約を結んだ小鳥眞虚。彼女の現在の姿・・・・に関して。あの横着な猿神が何か余計な事を言い出しやしないかと。
 小鳥眞虚は見た目ほどに弱くないが、思っているほどには強くない・・・・・・・・・・・・・。誰かを助けたいと願うくせに、自分が助かる事を声を大にして願おうとしない。契約を結んだあの時ですら、促されて漸くそれを言葉にした程に。
(眞虚は誰かの手を煩わせる事を恐れすぎている。あの秘密・・・・他の美術部やつらの前で暴かれたとき、あいつ自身の内面は崩れ落ちるかもしれない。そうなったら――)
 険しい表情で考え込む水祢の向かい側で、火遠は複雑な心境で居た。
 眞虚の件は火遠も知らない事ではない。真剣に対処しなければならない事案だと思う。だがその一方で彼は、あの・・弟が自分以外の他者の事でここまで悩む事が出来るようになった事を喜ばしくも思うのだ。
(成長したねと褒めるにはタイミングが悪すぎかな)
 ふうと息を吐いて、火遠もまた窓に目を向けた。車窓の景色は都会を離れ、街になり、いずれ山々に変わるだろう。
(その先で待っているのは敵ではないけれど、ともすれば敵よりも恐ろしいものを見るかもしれない。……だけども俺たちは行くしかないんだ。北中を防衛する為、眞虚を救う為、……そして――)

 彼らは向かう。それぞれに向かう。その目指す先の白銀の深山で、静かに待つ者を知らぬまま――。

←BACK / NEXT→
HOME