五月の大型連休も終わり、世間は再び『いつもの日常』へと戻って行った。神域で得た他者より長めの休暇をほぼ全て戦うための修行合宿なんてものに充てた美術部も、一時だけ日常に帰り。周囲がいよいよ部活の引退戦やその先の受験に向けて本腰を入れ出すのに混じって、再びいつどこで襲い来るかわからない敵を警戒していた。
そんな中で変わったことが一つある。美術部にも新一年生が本入部してきたのだ。
だが、前年度・前々年度に関わった怪事によって『北中美術部』の噂はもう大分伝説と化し、興味深くも畏れ多い状態になっていた弊害か。とりあえずの見学と仮入部でちらほら顔を見せていたメンバーは大分数を減らし、本入部に至ったのはわずか三名だけだった。
「なーにがいけなかったかなー」
去年の問題児・岩塚柚葉がぼやくが、新二年生たちは、古虎渓明菜は知っている。相も変わらず幽霊事妖怪事にかまけている新三年生の不在(深世除く)を見計らって、彼女が新入部員候補に裏でこっそり語って聞かせた武勇伝の数々を。それをマシンガントークで一方的に聞かされながら、言葉に出さずとも「流石に話盛りすぎだろう」と雄弁に語る新一年生の冷めた目を。目を輝かせた者はごく一部しか存在せず、それが漏れなく本入部に至った三人だということも。
(要するに、今年の子たちは厳選された濃いメンツ……)
自分の事は棚に上げて、……いいや、自分はそもそもそんな妙な動機じゃなかったと内心否定しながら明菜が見遣った現部長・歩深世は、どこか複雑な表情で、嬉々として(聞かれてもいないのに)入部動機を語る三人の新人を見つめていた。伊達に三年もやっていない。
「ええーっと、青鬼さんに二尾さんに符塚さんね。聞きたい事色々あるだろうけど、それは追々。私は部長の歩深世。三年は夏には引退するけどよろしくね」
一通り三人の話を聞き終えた上でそう流し、既存部員の自己紹介の流れに持って行った深世の機転はなかなかのものだろう。……ただ、その程度で知的好奇心が収まるはずも無く。自己紹介終了後、当然のように質問の手が上がった。
曰く、「妖怪に会いたい」だの、「霊感があるかどうか見てほしい」だの、「魔法を見たい、むしろ私に魔法を教えてほしい」だの、出るわ出るわ恐れを知らぬ発言の数々。伊達に柚葉に厳選されていない。
さしもの美術部三年も次から次へと降りかかる質問疑問の雨あられを前に参ってしまい、最終的に幾つかの要求に応え(魔鬼が渋々魔法を見せた)、二つほどの約束を取り付けることで終息させた。
その二つの約束とは、「不用意に『学校の怪談』に接触しようとしないこと」。そして「三年の活動を邪魔しないこと」である。
ついでに狂騒の元凶となった岩塚柚葉もみっちり油を絞られ、この日の部活はお開きとなった。
「ちょっとカッカしすぎだと思うんだよねェ。そもそも噂の流れる原因は自分たちだってーのにー」
「……それ、黒梅先輩か烏貝先輩の前で言ったら暫く口きいてもらえないと思うよ……」
その帰路、自転車を前方に走らせながら全く懲りない様子の柚葉に呆れに呆れ明菜は言った。
「それに先輩たちだって、これから大きな敵と戦わないといけないし、私たちにはもう協力できることはないだろうし……」
と、明菜が思い浮かべるのは、あの三月の事変。謎多き上級生・八尾異の呼びかけに応じて行った、一生の内もう二度とすることはないだろう大胆な行動。それがどのくらい美術部の先輩の助けになったか実感はないが、自分たちにはあれ以上に出来ることなんて恐らくない。精々成行きを見守るのが関の山だ。
しかし――そう思う明菜に対し、柚葉はどこか承服しかねる口調で言うのだ。
「そーだけどー。…………その前提がなんかなあ。世界かかってるってーのに、戦うのが先輩たちだけってのがなんてーか……」
「柚葉?」
普段と少し違う友人の様子に明菜が内心首を傾げた直後、進行方向上に一つの人影が躍り出た。明菜はそれを認めて驚くと同時、慌ててブレーキを握りしめる。
「柚葉っ、前、前!」
遅れて注意を促すが、柚葉は柚葉できちんと前を見ていたようで、ブレーキをかけながら「よっ」と掛け声一つ、現れた何者かを避けるようにハンドルを切った。
二つのブレーキ音がキキッと一瞬甲高く響き、秒を跨いで二台の自転車が静止する。
「あっぶね」
言いながら地面に片足突いた柚葉は、自分の横位置に人物をジトリと見上げて唇を尖らせた。
「……なんですか。説教なら先輩たちにもう散々されましたよアタシ?」
続けてぷうと頬を膨らませる彼女の瞳に映るのは、赤々とした炎。
「かの――嶽木さん。アタシら三下なんかに何の御用です?」
「いやね、今の内に少し頼み事。本当は部活がお開きになる前に言えればよかったんだけど、ちょっと立て込んでたから」
自身の弟と同じ赤い炎を纏った嶽木は、その懐から何かを取り出すと、ふわりと宙に浮かびながら、それを柚葉に手渡した。続いて明菜にも。
「なんすか、これ? 御守り?」
柚葉がキョトンとしながらもまじまじと見遣ったそれは、神社等でよく見かけるお守り袋だった。
一方で明菜は先の事変を思い出したのか、「……私たちに何かあるんでしょうか?」と不安げだ。
「あるかもしれないしないかもしれない。念のため」
嶽木はそう返し、二人をそれぞれ見てから話を続けた。
「月末に遊嬉ちゃんたちが京都に行くだろう? そのタイミングでおれたちも少々古霊町を離れる。花子さんたち学校妖怪は残留するし、防御術式は再起動したけれど、その間の北中の守備はかなり手薄になる。だからその間、君たちを守るために。後々鬼無里ちゃんたちや新人の子たちにも配る」
「……美術部だけにですか? 学校の他の人たちは――」
「問題ない。あるとしたら君たちにだけだ。スキー合宿は幸運にも何事もないままに終わったけれど、君たちもまた『古霊北中美術部』の名を背負っている以上、何に巻き込まれても不思議じゃないから」
「…………」
――何に巻き込まれても。その言葉に、明菜はゴクリと唾を呑んだ。洒落にならない。
だが柚葉と来たら、さっきまで叱られるとでも思っていたからこその不機嫌はどこへやら、どこか上機嫌且つ調子よく「わかりました!」などと答えてしまっている。
「先輩たちの留守中はお任せくださいっ!」
「うん。とりあえず任せとくね? 特にやってもらうことないけど」
嶽木は柚葉の少々ズレた反応を軽く流し、それから思い出したように言った。そういえば、と。
「おれたちは別に遊嬉ちゃんたちだけに世界を賭けちゃあいないよ。どこで誰が聞いてるかわからないから詳しい事は言えないけれど、これで柚葉ちゃんがひっかかってることに対する一つの回答になれば」
「?」
そもそもひっかかっていることがなんであるかをすっかり忘れてしまったのだろう。柚葉はポカンとしているが、明菜は覚えている。
――世界かかってるってーのに、戦うのが先輩たちだけってのがなんてーか……。
ブレーキをかける前の柚葉のぼやき。きっとあれに対する回答だ。けれども柚葉がそれを思い出すより先に、嶽木は「それじゃあ」とその場から消えてしまった。文字通り。
「一体何が始まるってんだ……!」
柚葉がお守り袋を握りしめながら芝居がかって呟くのをじっと見つめながら、明菜は思った。何も始まらないのがベストなんだけどな、と。
けれども、しかし。その日その夕方起こったことが、きっとそれから起こることの始まりだったのだ。尤も明菜がそれに気付くのは、それから少し後の事になるが――
その日から続いた曇天と荒天の後、忘れ霜の寒さが襲った五月中旬。人界のいざこざにも【月】の企みにも関与せずに暮らしてきた妖怪たちの元に、ひそかに【灯火】・丙からの書状が届き始める。
『【月】に怯える者へ、【月】に与さぬ者へ、成行きを見守る者へ。
我ら人外化生アヤカシの存亡が懸かる重大な話がある。かの日時、人界・京へと可能な限り参集せよ。』
山野深くに隠居するある妖怪は文面を見て忌々しそうに「たわ言を」と呟いた。仕方ないことだろう。差出人たる【灯火】も所詮新興の団体。人間と妖怪の領域を守り平等に裁くだなどと豪語するが、彼にとっては【月】と同じくらい怪しいものだ。
また、ある沼に棲む名のある主は、沼底で実に残念そうに泡を吐いた後に、手紙を泥の底に隠し見なかった事にした。彼は【月】の主張と裏腹の非道を知っていたが、自らが立ち上がることで同胞が傷つけられるのを恐れていた。そして何より、彼の沼近くの土地を開発し、土地の先住者を追いやった人間に与することもしたくはなかったのだ。
多くの書状がそのまま見て見ぬふりをされた。それは半ば仕方のない事だった。
けれども、それでも。
ある妖怪は書状の文面を幾度となく読み返し、俗世を捨てて籠った場所から発つ決意をした。
またある妖怪は長い長い逡巡の後、集まってきた者の意見だけでも聞いてから己の立ち振る舞いを決めようと思った。
【灯火】の理念には完全に賛同こそしないが【月】への反発から召集に応じようとする者もいた。どんな局面だろうが面白半分冷やかし半分の超越的存在等が、暇つぶしの見物と称して動き出した。
そう、決して少なくはなかったのだ。来ないものは仕方ない、けれども、きっと存外集まってくれる。――居鴉寺に居る丁丙には、そう信じて待つことしかできない。
「妖異よ来たれ」
夜明け白む空に浮かぶ暁月を見上げ、彼女はニヤリとしながら呟いた。だが余裕めかした笑みの裏には冷や汗がある。これは完全なる大博打だ。それに挑むために、自分を奮い立たせるために彼女は笑っていた。
二十一日、修学旅行出立前日早朝。東から差す日は天気予報の通り晴れた空を映し出す。しかれど明日以降の予報はと云えば、何かを憂うような曇天が、かの地京都にまで続いていた――
そんな不穏の予感など知ってか知らずか、夜に跳梁跋扈する幽霊妖怪が殆ど姿を隠した夜明けの北中校舎内で、白い妖怪がふああと欠伸した。
「おな、かが、すいたな」
呑気にそう呟いて、彼女――草萼異怨もまた姿を隠した。嵐の前の静けさの中に、溶け込むように。