真っ白な木々と真っ白な空に囲まれた森の奥で。倒木に腰掛けながら、戮飢遊嬉は呟く。
「午前0時、こっちに来てから七日目。……現世時間だと、漸く五月四日の午後4時を超えたあたりかな」
言いながら彼女が目を落とすのは左腕の腕時計と、同じ手に持ったメモ帳。メモ帳には書いた当人にしかわからないような数字がずらりと書き連ねられている。遊嬉はどうやら、それを使って現世の現在時刻を割り出しているようだった。
彼女がいつになく真面目な顔をして時計とメモ帳を交互に見遣る中、彼女とはまた別の声が静かに問う。
「遊嬉ちゃん、数学は苦手な方って言ってなかったかい?」
その声の主・八尾異は、すました顔で紙コップの中身――黒々としたコーヒーを啜る。
遊嬉は相変わらずともいえる彼女の様子を見つめ返してメモ帳をパタリと閉じ、足を組み直しながら「そんなじゃないよ」と語る。
「計算とかじゃなくて、日に何回か斬子が現世に差し入れ取りに行くから、その時に外の時間聞いて照合してるだけ。にしても神域は朝も昼もないからさ。こうして時計見てやっと夜だなーって思うけど、明るいし変な気分」
眠くはなるけど、と大あくびし、遊嬉はゆっくりと背中を伸ばした。
「帰ったら時差ボケ直さないとなあ。すぐ学校だし」
「そうだね。まったく」
「その様子じゃあ、こっちゃんは平気そうだね?」
「ちょこちょこ来てるからね」
「ふぅん。流石に特別な巫女さんは違いますなあ」
組んだ両足の上に頬杖を突き、遊嬉はニヤリと異を見つめ直した。
その超然とした態度から、一部で密かに崇敬の念を集める異彩の巫女。実しやかに信じられているその異能が正真正銘のものであると遊嬉が知ったのは、小学五年生の時分である。
遡ること四年前の夏。それまで大きな事件や事故は勿論、怪現象になんてまるで無縁でいた遊嬉は、とある怪事に巻き込まれた。その時の縁で嶽木と知り合い、学区の違う鬼伐山斬子とも中学に上がる前からの顔見知りとなったのだが――
その件から暫く過ぎた頃、二学期に入ったばかりのとある日の帰り道。偶々一人だった遊嬉は、その進路上で同じく一人で道を行く異を見つけた。当時から何かと理由を付けては学校を休んだり早退したりを繰り返していた異と健康優良児の代名詞のような生活を送っていた遊嬉が下校中に鉢合わせるのはかなり珍しいことだった。はっきり言ってそう親しくもない間柄だったが、人好きの遊嬉が異を呼び止めて一緒に帰ろうと誘うのは、自然の成り行きであっただろう。
とはいえ遊嬉の家が小学校から比較的近いのに対して異の家である神社は学区の外れにあり、下校路が重なるのはほんの僅かな距離だけ。且つ、家の遠さや安全面の理由から、当時の異は登下校路の半分以上をバスで移動していた。神社前のルートを通るバスは戮飢家の数十メートル手前のバス停を通っており、夕方ともなれば本数が減るので軽率に乗り逃がすことはできない為、のんびり話すにしたって時間も限られている。
けれども折角合流した手前、互いに無言というのも味気ないだろう。遊嬉はそう考え、何か良さそうな話題はないものかと、小さな頭をフル回転させた。
異は既に学年の垣根を超えた二小の有名人であったが、共通の、当たり障りなく気軽に出来る話題は何かと己に問えば、存外すぐには浮かんでこないものだ。
なにがいいだろうか。悩む気持ちは完全に顔に出ており、遊嬉の眉間に皺を作る。唇もへの字に曲がっており、傍からは不機嫌に見えたに違いない。
そんな彼女の表情をふと横から覗き見て、異はさもおかしそうに噴き出した。それがあまりに突然の事だったので、遊嬉も驚き異に向き直る形になる。
「そう難しく考えなくていいよ」
おかしそうに、それでいてちょっぴりだけ困ったように。目尻に少しだけ溢れた雫を指先で拭いながらそう言って、異は続けた。「普通の話をすればいいのさ」と。
「話題なんて、今日先生がしたおかしなくしゃみのことだっていいし、氷月くんが道具箱に隠してたカナヘビのことだって、なんなら天気の話だっていい。同級生なんだし、もっと気楽に話しかけてよ」
「う、うん」
遊嬉はキョトンとし、それから目を大きく見開いた。
それは異の答えがまるで心の中を読んだかのような、百点満点に近い回答だったことに遅れて気づいたからに他ならない。もう少し人生経験を重ねていたなら違う発想にも至ったのだろうが、その時遊嬉は確かにこう思った。
(もしかして、本当に噂の通りに他人の心を……?)
遊嬉が心の中だけでそう思った後、異は「しまった」とでも言わんばかりに一旦目を泳がせ、それから人差し指を口の前に立てて静かな声で言った。
「内緒にしておいてくれるかな」
あくまで周囲には"噂"ということにしておきたいんだ。そう言って、異は立てた指先をそのまま近くの電線の上へと向けた。
「雀が三羽いるだろ? もうすぐもう一羽停まる。それから十も数えない内に鴉が一羽来て、雀はびっくりして逃げる。逃げた内の一羽はバス停のポールの上に停まる。……見てな」
「……? うん?」
遊嬉は未だ半信半疑ながらも、異があまりに自信ありげな様子なので、言われるがままに電線上の三羽の小鳥に注意を向けた。すると、間もなく異が言った通りにもう一羽の雀が飛んできた。そしてやはり十秒もしない内に大きなカラスが現れて、平和な雀たちを散らしてしまった。
あまりにも言われた通り事が進むので、遊嬉はびっくりして電線を見つめたまま硬直してしまった。けれども、たっぷり五秒は置いた後で「そうだ」と急いでバス停のポールに視線を向ければ、雀が一羽、不安定な丸い表示の上に停まっていたのだった。
その様を見て、遊嬉はごくりと息を飲んだ。
八尾異は未来予知ができる。そして他者の心を読める。――それは、いざ本人に真偽を問えば、曖昧にはぐらかされる"噂"だったはずだ。
(けれども、まさか。全部本当に本当の……)
まばたきすら忘れてしまうほどの衝撃の奥にむくむくと膨らむ好奇心があるのを、遊嬉は確かに感じていた。
「少しだけ見逃されちゃったけど、まあいいや。ぼくが今起きたことをわかっていたってことは、今日君に話す運命だったんだろうから」
そうして遊嬉は二小の霊感少女の噂の真相を、やや後になって彼女の意味ありげな行動の真の目的を知る。
この世のどこかに存在する、大きな陰謀を抱く集団。それがために異は愛する祖母を失い、遊嬉を助けてくれた嶽木は弟を一時的に失った。
遊嬉は嶽木の助けになりたい。異は【月喰の影】を倒して祖母の仇を打ちたい。彼女たちの利害は一致していた。
故に。特に遊嬉が嶽木と再会して剣を振るうようになったのは、烏貝七瓜の傀儡にされた一件の悔しさからだけではない。
乙瓜と異を引き合わせたのも単なる興味本位ではなく、先の三月の事変に向けた前準備の一環であったのだ。
そう、全ては【月喰の影】と戦うために。彼女らはずっと昔から共犯関係にあったのだ。
「特別だなんてとんでもない。幾つもの『もしも』が都合よく重なり合った結果さ」
「わかんないかなあ。そういうのを特別って言うんですぜ」
わざとらしく肩を竦め、それから遊嬉は「よいしょ」と腰を浮かせた。
「でもまあいいか。こっちきてから嶽木と会ってないからさ、ちょいちょい来てくれて助かったっちゃ助かった。……薄雪の眷属、あたしとは話してくれないもん。そんなことよりみんなはどうよ? 一回くらいは見に行ったっしょ?」
「うん。一応ね」
全身を伸ばしながら視線を向ける遊嬉にコクリ頷き、異は思い馳せるように目を瞑った。
神域での一週間、彼女はなにも本殿の深世や斬子の様子を観察したり、薄雪が宝物殿で難しい顔をする様を見守っていたばかりではない。
昼も夜もなく白く明るいばかりの神域内で時間も忘れてそれぞれやるべきと感じたことを遂げようとしている美術部五人の様子を見て回り、現在の調子を尋ねる傍ら、それとなく時刻を報せて本殿への一時帰還を促したりもしていたのだ。実は深世や斬子が同行しようとした日もあったのだが……森の中で危く迷いかけた為、以降は本殿の見える範囲で大人しくしている。
そんなわけで、異は今夜も遊嬉を訪ねる前に他四人の場所を巡ってきていた。
乙瓜は術を飛ばす感覚を大分思い出してきたらしく、眞虚との特訓も一方的に弄られるだけでなく、大分対等な模擬線らしくなっているようだと異は感じた。また、乙瓜に付き合う中で眞虚の護符を操る技の精度も一段と上がったようである。
杏虎は視界や行動範囲が限られた場所での不特定多数からの襲撃を想定してか、……或いは単に趣味の可能性もあるが、眷属相手にサバイバルゲームに近い事をしていた。雨月張月の弓という特性上空間にかさばるのが気になったらしく、同じ退魔宝具である崩魔刀の可変性を挙げながらどうにかして小型化できないかとブツブツ呟いていたが、地頭は決して悪くない杏虎のことである。いずれ何らかの解決を見出すだろうと異は思った。早ければ、この合宿の終わる前にでも。
魔鬼は――訪ねて行った異に対して少し煙たそうな態度で(それまでのことを思えば無理もない)、「何やってるか教えられないけど順調」と簡潔に告げた。実に彼女らしい。
異がそれら一つ一つを遊嬉に語って聞かせると、遊嬉は「そっか」と満足そうに言って、それから倒木の裏に立ててあるものへ徐に手を伸ばした。
装飾の少ない黒い鞘に納められた、崩魔刀と同じ赤い柄糸の刀。けれども崩魔刀よりやや小ぶりな、脇差程の長さの刀。火遠が倒れたことで崩魔刀を失った遊嬉が手にした、慣れない得物がそれだった。
「普通の刀も幾らか持ち慣れてきたのはいいんだけど、キルちゃんちの御神刀だから返さないとなんだよねえ。……明日からあたしだけ武器無しかぁ」
残念そうに溜息吐き、遊嬉はガクリと肩を落とした。
「新しい刀のアテはないのかい?」
「一応、先月の終わりに嶽木が知り合いの妖怪刀匠? に使いやすいやつでって頼んでくれたみたいだけどね。変に職人気質だからいつ完成するかはわかんないって。あとやっぱり崩魔刀並の出力は難しいってさー」
しかたないけどさあとぼやき、遊嬉は後ろ手で倒木に寄りかかり意味も無く空を見上げた。神域の空は相変わらず白い靄に覆われており、そこに太陽も月も星もない。
異は追従するように空を見上げてから、ふと思い出したようにコーヒーを――すっかり冷めてしまった最後の一口を啜り、それから何かを確かめるように言った。
「嶽木さん、その刀匠の妖怪がどこに住んでるとか言って無かったかい?」と。
遊嬉はキョトンとして異に向き直り、記憶を辿るように眉間に皺寄せてから、ポツリと一言。
「京都だって」
自分でそう呟いてから、何かに気づいたように目を見開いた。
「京都――京都か。……最悪の場合直接いけるな」
思い浮かべるのは、古霊北中学校三年の今月の予定。月末に控えた、中学三年生なら大抵の学校で行われる行事。京都奈良への修学旅行。
今日日京都奈良の史跡だけ巡って終わりだなんて、せめてお隣の府にある某テーマパークも巡ってくれれば楽しいのに……。などと、それまで文化遺産に失礼極まりないことを考えていた遊嬉だったが、あることに気づくと同時、忽ち上機嫌になった。
――そうか。その手があったのだ。