怪事戯話
第九怪・夜鏡写し①

 鏡は写し出す。時に立ち止り、時に振り返ることもせず、己の前を過ぎ去っていく人々の姿を、ひたすらに、ひたすらに。
 鏡は映し出す。己の前で起こった出来事を、物言わず、左右真逆に再生しながら。じっとこちらを、じっと見ている。
 ずっと物事を写し、ずっと物事を映してきた鏡が、もし過去を振り返ることができたなら。
 それは一体、何をうつすのだろうか。


 煉瓦レンガ造りの階段に腰かけながら、烏貝七瓜は本日何度目かわからない溜息を吐いた。
 ――なんで、あいつがいるのよ。
 不機嫌そうな目で見つめる先には、黒革の高そうなソファーに腰かけた妖怪・草萼火遠が居るのだった。
 いつここに訪れたのか、少なくとも七瓜が目を覚ました時には既にこの部屋にいた彼は、組んだ足の上に右肘を乗せて頬杖を付きながら、対面する人物とずっと話をしている。
 硝子のテーブルを隔てて、白いソファーに腰かける彼女。魔女・ヘンゼリーゼと。
 机上には金色の燭台。真っ黒なスーツに身を包んだ魔女と白いシャツの妖怪の姿が、蝋燭のゆらゆらと頼りない炎に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。
 そう、応接間のようなこの部屋は、真昼でも日の光一つ届かない地下深くにある。当然窓も無ければカーテンも無い。四方の壁は全て煉瓦で床と天井はコンクリートといった、えらく殺風景な部屋にそれらしいソファーとテーブルだけがそれらしく配置してある、なんともシュールな場所だ。電気工事をしていないのか、照明器具やそのスイッチの類は一つも見当たらない。だからこの部屋が使われるときは、いつも蝋燭の明かりだけがあった。
 
 互いの輪郭をゆらゆらと揺らめかせながら、二人は対談を続ける。
「――だからこれが、だからこれで全てよ。私は全てを知っている。草萼火遠、あなたの欠けた九年間に何があったのか、連中・・が今どうしているのか。あなたが今近くに置いている娘のこともね」
 熟れた林檎のような色の瞳を光らせて、魔女はにこりと微笑んだ。
「……そんなこと、最初も最初で気付いていたさ。彼女が何なのか、そしてヘンゼリーゼ、君のところにいる彼女との関係も。そしてそれが奴ら・・の計画の一端だということも。全部全部気付いていたさ、全部全部」
「あら、同じね私たち。あなたも私もまだ共通の敵・・・・を持っている。ふふふ、同じね。ちっとも変わらないわ」
 口元に手を当てて笑う魔女とは対照的に火遠は目つきを鋭くした。
「それで、君は彼女たちをどうしようというんだい。前例がない事態とはいえ、彼女も、そして君のところの彼女も、それぞれがそれぞれとして存在してしまっている。現状で"2"である彼女達を無理矢理"1"に戻せば、確実に歪みが発生する。そういう状況こそが奴ら・・の――」
「狙い通りでしょうね。ええ、狙い通りでしょうとも」
 魔女は身を乗り出して、上目づかいに火遠を覗き込んだ。獲物を狙う蛇のような目だった。
「私は人間を勝たせなければいけない。私の可愛い人間たちが、私の愛しい人間たちが、全部全部置換されてしまったら、世界はまた一つ面白みを失ってしまうわ。だから私は可能な限り取り戻していくつもりよ」
「……そのために魔法を貸してあんな遺物まで持ち込んだってことか」
「ふふふ、そうよ。だってそうでもしないと負けてしまうもの。うふふふふふ……」
 ヘンゼリーゼがうふふと笑う度に表情を険しくした火遠は、足組を解いてソファーの背に深くもたれかかった。
「もういい、君の目的はよくわかった」
「あら本当? それはよかったわ、うふふ」
「勘違いするなよ、君の計画に賛同したわけじゃあない。あくまで俺は俺の目的を達成するために、協力できるところだけは協力すると言ってるんだ。許容し難いことはいくらでもあるし、丸っと賛同したわけじゃないぜ?」
「あら、同じね私たち。私もまるで同じことを思っていたわ」
「…………。それはどうも」

 蝋燭の明かりの届かない階段でずっと身を屈めていた七瓜は、二人の対談の終わりが近いことを感じ取っていた。
 七瓜は、途中聞きながらも人外の二人が「自分たちの処遇」について話し合っていることに気付いていた。
 二人には大きな目的があって、少なくとも魔女ヘンゼリーゼは、自分ともう一人――烏貝乙瓜を使って何かを成そうとしている事を理解していた。
 先の九月、七瓜を古霊町に向かわせたのは他ならぬヘンゼリーゼだ。黒い魔女は七瓜に古代の大きな剣と一時的な魔法の力を授け、とある事を吹き込んで乙瓜との対立を煽った。
 黒梅魔鬼の最後の反抗で傷つき、嵐の中魔女の根城に出戻った彼女を待っていたのは、暖かいスープと一つの言葉だった。

『大丈夫よ。まだ、次がある』

(私、何をさせられようとしていたの? 私たち、どうなってしまうの……?)
 真っ暗で輪郭も見えない闇の中、烏貝七瓜は見えない自分の身体を強く抱きしめた。


 蝋燭はかなり短くなり、燃える炎もやや弱々しく揺らいでいる。
 ヘンゼリーゼが指を鳴らすと、どこからともなく現れた長身のメイドが二人分の紅茶とティーポッドを机上に置いていった。
「ありがとう、トーニカ」
 主人に礼を言われたメイドは軽くお辞儀をし、薄暗がりの中に消えて行った。
「随分お茶を出すのが遅いじゃないか」
 文句をたれながらも火遠はカップに口を付ける。
「だって今が朝の八時ですもの。彼女らの通常業務はここからよ。労基に怒られてしまうわ」
「……あれらも人間じゃないだろうに」
「働きたがらないのよ、ぐうたらだから」
 魔女は言いながら左腕の袖をずらし上げる。蝋燭の明かりを反射する銀の腕時計の針は、きっちり八時を指し示していた。
「そうね、私もそろそろ仕事に行かなくてはならないわ」
 ヘンゼリーゼは思い出したかのように言った。
「魔女のくせに仕事なんかしてるのかよ」
「現世を回すのにも資本が必要ですもの。あなたもそうしていたでしょう? あなたが作ったあれ、何て言ったかしら。確かたい――」
「よせよ。昔の話だ」
 手にしたカップをコトリと置いて、火遠はヘンゼリーゼを睨みつけた。眼光の先の魔女は、また手を口にあててクスクスと笑った。
お嬢様フロイライン、本日のお召し物はいかがされますか?』
 部屋の闇の中から、先程とは違うメイドが服屋にあるような長い洋服掛けを引いて現れた。彼女の他にも小柄なメイドが数人やってきて、それぞれ鏡や化粧道具やブラシを持っている。

「あら、そうね。もう準備の時間ね。話も雑談になってしまった所だし、そろそろお開きかしら」
 ヘンゼリーゼが惜しそうに一口だけ紅茶を飲んで指を鳴らすと、先程の長身のメイドが現れてカップを回収していった。
「すいませんね旦那、うちのご主人はいつもあれッスから。あんまりにもマイペースに人様の事振り回してばっかいるもんで、その都度叱っちゃいるんスけどねぇ」
「いいや、俺の訪問の間が悪かっただけさ。魔女っていうものはどんな奴だって何かしら我儘なものさ……どんな奴だってね」
 火遠はそう言って空のカップをメイドに渡した。

「あら、帰るのね火遠。もっといてもいいのよ?」
「いいや帰らせてもらうよ。生憎と婦女子の着替えを見る趣味はない」
 ヘンゼリーゼのからかうような引き止めを躱し、火遠は立ち上がった。踵を返す火遠にヘンゼリーゼは呼びかける。
「本当はもっと聞きたいことがあるのではなくて? 例えばあなたの大事な娘のこととか・・・・・・
 娘。その言葉に彼は一瞬反応して立ち止まる。
「そのことについては次の機会にきっちり聞かせてもらう。……それにどうせ、今ここにはいないんだろ」
 しかし、吐き捨てるようにつぶやくと、またすぐに歩きはじめた。コンクリートの床にローファーの音がコツコツと鳴り響く。
(――メイドたちは誰一人として足音を立てなかった。魔女め。……飼われているのはどっちだか)

 進む先、地上に通ずる階段。蝋燭の明かりの届く範囲から外れて真っ暗なそこで、火遠は膝を抱えて蹲っている七瓜に鉢合わせする。
 一度は剣を交えて対立した相手、しかし警戒もせずに横を通り過ぎようとする火遠に七瓜は言った。
「……ねえ。あなたは私をどうするの」
 力ない声。あの嵐の日に見せた鬼気迫る様子からは想像できないくらい弱々しい少女の姿がそこには在った。
どうもしないさ・・・・・・・お嬢ちゃん。君にも、君のにも」
 火遠は立ち止まることなく言って去って行った。暫くの後階段の上の方で扉の開閉音する音がして、地下には一瞬静寂が訪れた。

 その静寂を、腹の底で押さえこんでいるような笑い声が破壊する。
 それは、魔女の笑い声だ。魔女と、魔女が飼っている沢山の彼女達の笑い声なのだ。

「クスクスクス……くくくくく、うふふ、うふふふふふ。お帰りは急がないと駄目よ火遠。薔薇と灯火が動いていて、あの月が、いいえ。月喰つきはみの影たちが動いていないわけがないわ。無事かしら、大丈夫かしら。あなたのあの子は大丈夫かしら? うふふ、うふふふふふふふふ……」

 闇の中で響く魔女たちの笑い声に、蹲っていた七瓜はよろよろと立ち上がり、呟いた。

「――乙瓜」

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