怪事戯話
第八怪・花の玉座⑤

 乙瓜と魔鬼が闇子さんと戦った、その日の深夜。

 時計の針が間もなく翌日を指し示す頃。烏貝乙瓜はすっかり消灯した部屋のベッドの上に転がって、けれども眠れないでいた。決してネットのやりすぎとかではない。取り留めもない考え事をしていたからだ。

 ――闇子さんは倒すことが出来た。それも思ったより早く、だ。初手結界は魔鬼と二人で相談して出した作戦だ。だけど、その後の勝利は魔鬼の頭の回転に依るところが多い。……正直、ビー玉が無かったとしたら、自分がどうなっていたかわからない。
 出口のわからない暗い穴の中で訳の分からないまま闇子さんの攻撃を受け続けることになったかもしれない。というか、魔鬼が闇子さんに突っ込んでいかなければそうなっていた可能性の方が大きい。
 乙瓜は溜息を吐いた。家に帰ってから幾度となく吐いた不安混じりの溜息だ。
 ――あいつは伊達にベテランじゃない。より機転の利く戦い方が出来るようになろうと思えばいくらでもできる。こっちは作戦内の事しかできなかった。……これでいいんだろうか。このままで。もしも魔鬼を欠いて戦うことになった時、はどうすればいいんだろう。一人でやっていけるかな。……胸がざわざわする。きっと暗い所で一人で考え事するからだ。
 乙瓜が布団の上で転がる向きを変えるのは、これで何度目だろうか。右の壁に体を向け、怖い映画を見た後の子どもみたいに布団の裾をぎゅっと握りしめる。

 ――火遠はどこへ行っちまったんだよ。どうでもいい時は家だろうがお構いなく姿を現す癖に。なんでこういう時に限って居ないんだろう。……馬鹿野郎。

 そして、暫くあまり姿を見せないかの契約妖怪に心の中で悪態をつき、今度こそ眠れますようにと祈りながら瞼を閉じるのだった。



 一方、その頃。
 古霊町ではないどこかの街、どこかのビルの屋上の給水塔の上に、草萼火遠は立っていた。
 空には薄らと雲が貼って星はあまり見えず、僅かに下弦の白月の光が届く程度。浅い時間帯より灯りの消えた街には闇が落ち、道路や建物に絡み付いている。
 その闇に、火遠は目を凝らす。
 彼の視線の先には、他のビルの谷間に隠れた細い路地が見えている。人間の肉眼では暗さと遠さでなにがなんだかわからないだろうその路地の様子を、しかし火遠の炎色の右目は確りと鮮明に捉えていた。
 路地には、夜闇より暗く形の定まらないもやのようなものがうごめいていた。
 当然の事であるのだが、それは人ではない。無論、物質世界に星の数ほど存在する生物のどれかでもない。夜霧でもなければガスでもない。
 あれは、残滓だ。今までこの地で不慮の死を遂げたありとあらゆる生き物の思いの残滓だ。無数の人の、あるいは無数の動物の無念や悲しみ、憎しみ、恨みの煮凝りだ。集合体だ。生死を問わずただ一人の人物でもなければただ一匹の動物でもない。すでに個々の人格も感情も無く、ただ沢山の死に際の想いだけを運び動く負の霧だ。
 夜になる度現れて町を徘徊するそれは、稀にだが人とぶつかる。そして残滓の持つ思いとは正反対の、喜びや希望や幸福感のような思いを齧って行く。思いを齧られた人間は遅かれ早かれおかしくなってしまうという。たいていの場合は精神に異常をきたすらしいが、その末路なんて火遠は知らないし知りたくもなかった。
 どこに視線を移しても当たり前のようにいる残滓たちにウンザリしながらも、火遠は根気強く何かを探し続ける。

 やがて、ある路地に目が行った時、キョロキョロと動き回っていた視線がぴたりと止まった。
 その路地には、残滓が全く寄りついていなかった。そして路地の袋小路であるビルの壁には、青いペンキで落書きがしてあった。

Catch me if you canおにさんこちら

 落書きの文字の隣にデフォルメされた薔薇の絵が描かれていることを確認し、火遠は呟いた。
「――見つけた」

 呟きと同時か、火遠は給水塔の上からビルの下、コンクリートで舗装された道路に向かってダイブする。もしその光景を見る人間がいたとしたら、自殺だと思って慌てて警察を呼ぶだろうか。いや、あるいは放っておくかもしれない。都会と違って娯楽の無い片田舎のちょっとした街で深夜徘徊している輩が堂々と警察を呼べるような人間とは限らないのだから。
 火遠は迫りくる地面を恐れも怯えも無い目で見つめ、ビルに背を向けるように体を反転させてその壁を蹴った。
 その瞬間、火遠の姿はビルのそばから消えてしまった。否、消えてしまったのではない。火遠は飛んだのだ・・・・・。  ビルの壁を蹴った反動で、火遠は目的の場所まで一気に飛んだのである。あらゆる物理法則を無視して、矢の如き速さで。火遠が人間ではない、そして常識内の存在ではないからこそ可能な事だった。

 ともあれ落書きの壁の前に移動した彼は、もう一度間近でそれを見る。
Catch me if you canおにさんこちら……この落書き、ずっとあったモノじゃないな。そしておそらく、通常の塗料じゃない」
 ぶつぶつ言いながら落書きに触れると、文字が変化した。

『←Come on』

「……おいで、か。随分挑戦的だなあ。来たきゃ来いっていう事……」
 火遠はクスクスと笑った。
「いいとも、付き合ってやろうじゃあないか」
 彼はにやりと口角を上げ、いつものような不敵な笑顔を浮かべる。

「追う先に居るのは可愛い兎かそれとも蛇か、どちらにしろ捕まえて聞き出すまでさ。待っていな、エンゲルスフィアの悪魔の娘」
 落書きの文字は生き物のようにぐねぐねと動き、壁を移動して火遠を手招く。手招きされる火遠は、獲物を見つけた鬼役の笑顔でそれを追いかけた。



(第八怪・花の玉座・完)

←BACK / NEXT→
HOME