怪事戯話
第七怪・影の来訪者③

「返してって……どういうことだよ」

 乙瓜は狼狽していた。
 突如自分の前に現れたもうひとりの自分。告げられた言葉と要求。
 全てがあまりにも突飛過ぎて、乙瓜の頭は混乱する。混線する思考回路で、しかし彼女が言えることは二つだけあった。
「……誰なんだお前。俺はお前のような姉を持った覚えはねぇ」
 疑問の提示、そして事実の提示。
 烏貝乙瓜には三つ年上の兄がいるが、それ以外に兄弟は居ない筈だ。兄と乙瓜の間には誰も居ないし、兄の前に生き別れたか死に別れたかした上の子が居たなんていう話も、乙瓜の記憶する限り聞いたことがない。
 万が一父の隠し子だったとしても、それにしては母方似の自分に姿が似すぎているし、不自然だ。
 そもそも、相対する彼女と自分の容姿もさることながら、見たところ年齢もそう変わらないのではないか。そう、まるで双子のように――。
 ごちゃごちゃと考える乙瓜とは対照的に、眼前の少女は口元の笑みを崩さないまま、乙瓜に向かって一歩踏み出す。
「誰なんだとは随分ずいぶんな言いようね乙瓜。だけどそれも仕方ないわね。わかってて私はここに来たのだから」
 少女が一歩進む毎にカツンと鳴る床。彼女が履いているパンプスのウェッジソールが当たっているのだ。
 階段をゆっくり一段二段。反響する靴音を鳴らして歩み寄る顔は、近くで見れば見るほど乙瓜に似ていた。唯一その表情だけは、普段から怒ったように目つきの鋭い乙瓜と違って穏やかなものだった。目もパッチリと開かれていて、くりくりとした大きな瞳が覗いている。
「やめろ、止まれ……ッ!」
 少女が踊場まであと半分のところまできたところで、乙瓜は叫んだ。少女の足がピタリと止まる。素直に歩みを止めた少女は、その時一瞬だけ悲しそうな顔を浮かべたのだが、果たして乙瓜は気付いていただろうか。

「どうして?」
 拒絶の意味が分からないと言った風に、少女はほんの少し首を傾けた。
「……どうしてもこうしてもあるか、俺はお前なんか知らないッ! そっちはこっちの事知ってるみてぇだが、こっちは知らねえしッ、……意味わからない事ばっかり言いやがって! まず自分は何者なのか簡潔に紹介しやがれ!」
 動揺しすぎてまとまらない台詞を吐きながら、乙瓜はポケットから両手指の間に挟んで八枚の札を引き抜く。
 臨戦態勢。もし花子さんの言うとおり、それが人外の存在――ドッペルゲンガーだった場合、それを排除しなければ危ないという判断からだった。
 しかし、札を構えた瞬間の乙瓜は、咄嗟にこう考えていた。

 ――消さなくてはならない。万が一、これ・・そう・・だった場合、今度こそは・・・・・、と。

 その思考がよぎったのは、ほんの一瞬のことだった。きっと後に思い出そうとしても思い出せないだろう。そのくらい、あまりにも自然に、意識する暇もなく。それは彼女の全身を伝わって通り過ぎて行ったのだから。

 一方、隠す事ない敵意を向けられた少女は。僅かに目を見開いた後、くるりと畳まれた日傘を両手で掴んで胸の前に持ち上げると、にこりと笑った。

「私は七瓜なのか烏貝七瓜・・・・。世界に忘れ捨てられた烏貝の影、そして烏貝乙瓜あなたの双子のお姉さん。よろしくね」
 敵意ゼロの笑顔でそう言うと、彼女――七瓜は日傘を大きく振るった。まるで剣を引き抜くように。右手で取っ手を掴み、全体を掴む左手の輪を鞘のように見立てて。七瓜の頭上をぐるりと周り、傘は七瓜の右側に辿りつく。――しかし、その時それは既に傘の形をしていなかった。
 歴史の教科書に載っていた、古代の出土品のような形状。斬ることに特化した日本刀と違い、いかにも儀式用に作られたと言わんばかりの装飾が施されたそれは、見た目ほど重くないのか、片手だけで持たれながら鈍く赤く光っている。
 驚き、僅かに身を引く乙瓜に、七瓜は淡々と説明する。
十拳剣とつかのつるぎ倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめ。神器のレプリカの一つ。全長四尺、緋緋色金ヒヒイロカネの不滅の刃。……尤も、合金の緋緋色金に更に何かを継ぎ足しをした混ざりものだそうだけどね」
 彼女はそう言って刃を立てた。大して光も当たっていないのに、その刀身には赤く輝く光が揺らめいている。
「……何言ってるかさっぱりわからんし俺に姉なんかいねえぞこの詐欺師。……で、騙るあんたはその御大層な剣で一体何をおっぱじめるつもりなんだ?」
 乙瓜の頬には汗が伝っている。暑いからではない。むしろ七瓜と相対した時から、乙瓜の体感温度は真冬並に下がっている。
 怖気。おそれ。数々の人外連中との付き合いを経て、すっかり忘れていた恐怖が久方ぶりに戻ってくる。
 黒々とした丸い瞳に射抜かれた乙瓜は何も言えない。何もいえない。

「いやだわ、そんなに怖がらないでよ。ちょっと挨拶に来ただけだから」
 七瓜は、再び足を動かし始めた。友人と談笑するかのように冗談っぽく笑いながら、すぐに乙瓜のところへたどり着く。
 しかしその手も剣も乙瓜には触れない。その横を通り抜けて、足音がカツンと一つだけ鳴る。どうやら乙瓜の斜め後ろで止まったようだ。乙瓜が振り向く。
 振り向いた先は踊り場の大きな姿見。七瓜はその前に立っていた。だが、その姿は鏡には写っていなかった。焦った表情で振り向く乙瓜だけが、滑稽こっけいな体勢で写りこむのみである。
 七瓜は乙瓜に背を向けたままクスクスと笑った。鏡に映らない表情は、乙瓜からは把握できない。

「鏡に映らない私を奇妙だと思う?」
 七瓜は言う。
「影って言うのは、存在の半分なのよ。眩い光の中で、かき消されないように必死で地面に刻み付けるのが影なの。だけど私は失ってしまった。私には影がない。大切な私の半分がない。だから鏡には映らない。今だって、ほら」
 彼女が左手で指さす先に乙瓜は目を向ける。指さす先の足元には、影がなかった。
「人外……」
「いいえ、違うわ。私はれっきとした人間よ」
 乙瓜が思わず漏らした言葉を、七瓜は即座に否定する。
「影を欠いてしまっただけ。だから強い光の下では消えてしまうだけ。それが有るように振る舞えば、私はその他大勢の普通の人間と何ら変わらない。……だけどね、それって不便なのよ。だって本来あるべきものがないのだから。逐一補わなくてはいけない。障碍者と同じね。でも彼らと私が違うのは、私が影を失って困っていても誰も救いの手を差し伸べてくれないということ。影のない私は存在として不十分なのよ。誰にも見えない分からない、触れない聞こえない認識されない! ……私はここにいるのに、ここで泣いてるのに――それはとっても悲しいわ」
 七瓜は振り向いた。乙瓜はギョッとする。七瓜が大きな瞳に大粒の涙を浮かべていたからだ。
(――なんだこいつ……いきなり出てきて笑ったり泣いたりさっぱりわけがわからん。影がない? それと俺にどういう関係があるって言うんだ。そういえば最初こいつ何て言ってた? 影を返せ、とか言ってなかったか? ……まさかッ!)
 乙瓜が指の間に挟み込んだ札を宙に放って壁を展開するより早く、七瓜の手が動いた。右手で掴む剣の切っ先が、投射のアクションを起こそうとする乙瓜の手首にそっと添えられる。
「動かないで。斬り落とすわよ」
「てめぇ……」
「大人しくして。いい子だから」
 余った左手で乙瓜の顎を撫で、七瓜は囁く。

「――覚えてる? あの夜の屋上で、あなたは何から逃げていたの?」

「あの……夜の……、屋上……?」
 オウムのように反芻はんすうする乙瓜にはしかし、覚えがあった。
 烏貝乙瓜には記憶があった。小学五年生のとある夏の夜中、何かから逃げていた記憶が。そして、当時一番の親友だった幸福ヶ森幸呼に電話をしたことも。逃げ込んだ先の学校が何故か開いていて、屋上から身を投げたことも。
 気が付いたら病院に居たことも。全身に包帯を巻いて点滴と輸血の管が刺さっていたことも。全治一年と言われたことも。しかし僅か数週間で全快したことも。騒ぎを起こしたことでクラスメイトから煙たがられるようになったことも。
 烏貝乙瓜は覚えていた。

 ――ただ一つ、何から逃げていたかを除いては。

「ねえ乙瓜。学校は楽しい? 友達はいる? 家族は大切にしてる?」
 七瓜は絡み付くような声で言う。顎を撫でていた手は頬に上り、その輪郭を愛おしそうになぞった。
「きっと今、あなたは幸せなんでしょうね。見なくても聞かなくてもわかるわ。あなたは大事にされている。それはきっと素敵なこと。だから――」

 左手をそっと離し、しかし次の瞬間。七瓜は乙瓜の肩を力いっぱい押した。それはとても十代初めの少女が出したとは思えない途轍もない力で、乙瓜の身体を突き飛ばした。
 余りの事に何の対処もすることもできず、乙瓜は後方に大きくよろける。後方は――階段だ。七瓜が上がってきた階段、そして一階へ降りる下りの階段。
 その階段に、乙瓜は背中から落ちていく。
「なッ――」
 逆さまになる視界の隅で、乙瓜は七瓜の声を聞いた。


「貰うわよ。少しの間だけ、あなたの居場所」


 直後乙瓜は、真っ黒な闇の中に囚われる。衝撃もなく、激痛もなく。落下地点にぽっかりと空いた黒い穴の中に飲み込まれたからだ。
 だが、それを知るのは七瓜だけ。乙瓜はきっと何が起こったのかすらわからない。

「……アリスの兎穴ワンダーランド・ワームホール。死にはしない。ほんの少し外野に行ってもらうだけよ、ほんの少し」
 七瓜の呟きを聞く者はいない。穴は乙瓜をすっぽりと飲み込むと、荷物鞄だけ吐き出して綺麗さっぱり消え去った。
 見届けて、彼女は剣を一振りする。それは忽ち元の日傘に姿を戻し、長い石突きを床に当ててコンと音を立てる。
 その時点で、七瓜の姿は現れたときと同じ黒と白のフリルの服ではなかった。
 学校指定のロングスカートとブラウス姿、ウェッジソールのパンプスは学年カラーのついたゴム底の上履きに。丁度今しがた消えた乙瓜と同じ北中の制服姿に装いを変え、彼女は踊り場に立っている。

「……精々早く抜け出して来なさい。早くしないと、全部無くなっちゃうわよ」

 穴が吐きだした鞄を拾って乙瓜がしていたように背負うと、七瓜は階段を降りていく。
 向かう先はただ一つ、――美術室。

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