放課後。
(――そういえば、乙瓜ちゃんは?)
小鳥眞虚は首をかしげていた。
美術室の中には乙瓜と魔鬼を除く一年が全員、そして二年が全四人中三名ほど。三年は高校受験に向けて一学期末に引退してしまったので一人もいない。
ちなみに現在の部活は三年から引き継いだ二年の新部長が仕切っていて、その彼女こそが二年のまだ来ていない一人だったが、「ごめん、秋刳今日は風邪を引いちゃったから」と、副部長が申し訳なさそうに言っていたので、多分彼女は来ないだろう。
というわけで、現時点での欠員は二名。乙瓜と魔鬼である。
魔鬼の方は恐らく委員会の都合だろうと思われるが、乙瓜が来ていないのは珍しい。
眞虚は、今日確かに乙瓜を見ている。同じクラスなのだし、憶測でも見間違いでもなく確実だ。朝の出欠確認に返事をしたのを聞いているし、給食前にクラスの男子と何やら話していたのを見ている。体調もすこぶるよさそうだった。
それにまだ短い付き合いとはいえ、眞虚の知る限りの乙瓜は部活をサボるような生徒ではない。
その乙瓜が、いない。
いや、確かに乙瓜は怪事の度に美術室から飛び出して行ってしまうが、それでも鞄だけは美術室に置いていた。だが、その鞄すら置いていないということは、美術室には寄っていないのだろう。
「なんかあったのかな……」
不安に思う眞虚の気持ちとは裏腹に、周囲は至っていつも通り。遊嬉は杏虎と談笑しながら新しい部内ゲームの道具を作り、先輩陣や深世は粘土を捏ねている。顧問の教師は今日もいない。いつも最後の方にちょろっと顔をだす程度なので、これについては特に気にしていない。
(杞憂、だよね。きっと……)
ざわつく胸を押さえ、眞虚はスケッチブックの空白のページを開いた。
その頃、二階西女子トイレにて。
「ところで乙瓜。ドッペルゲンガー、って知ってるかしら?」
腕組みして立つ花子さんは、えらく勿体ぶった様子で切り出した。
彼女のすぐ傍、開け放たれた窓からは全く風が吹き込まない。午後になって急に曇りだした天気のせいもあって、タイル張りのトイレの中はひどくじめじめしていた。
そんな空間の中、トイレのドア側。烏貝乙瓜は手提げのスポーツバッグをリュックサックのように背負いながら、頬を膨らませていた。えらく不機嫌そうである。
「ドッペルぅ? ……もういいだろ、早くこっから出させろ」
不機嫌そうな乙瓜はいかにも苛立っている風な口調で言った。しかし花子さんはたじろぎもしないし、クスリともしない。
組んだ腕のところまで届く長いサイドの毛を指先で弄りながら、相変わらず真顔で佇んでいる様は、どこか不気味でもある。
そもそも、この状況は乙瓜が部活前にひょいっとトイレに寄ったことから始まる。
その時の乙瓜は別段花子さんに呼び出されていたわけでもないし、こちらから用があったわけでもない。というか、本来トイレに寄るときの用途なんて一つしかない。当たり前だがトイレは人と会ったり頼みごとをする場ではないのだから。
と言うわけで、彼女が本来の用を足していざ部室に向かおうとした時に、どろんとぼわっと花子さん登場。
適当にやり過ごそうとしたら捕まってしまい、世間話と言う名の連日の暑さに対する愚痴に付き合わされた末に今に至るというわけだ。
そりゃこんな換気不十分で暑くて湿気が強くて芳香剤ははじけるレモンの香りな空間に長らく縛り付けられたんじゃ、不機嫌にもなる。
――早く美術室行きたい。ていうか行かせろ。
経過時間に比例して悪くなる目つきにそんな思いを乗せながら、乙瓜は思いっきり花子さんを睨みつけていた。
その思いはおそらく花子さんにも伝わっているだろう。
しかし彼女は全く動じることなく、淡々と切り出した話を広げるのだった。
「ドッペルゲンガーってのは、『生き写し』『二重の歩く者』、日本なんかでは『影の患い』、あるいは『影の病』なんて呼ばれたりもしたそうだけど……まあ霊的な現象のことね。ここでは怪事といっても差し支えないかしら。自分の姿を、だけどその時自分の行ってもいない場所で目撃されるっていうのがメジャーな話ね。聞いたことくらいはあるでしょ?」
「知っちゃあいるけど」
「あらそう。じゃあ、自分のドッペルゲンガーに会うと不幸になるとか死期が近いとか、そういう話も知ってる?」
「それも知ってるし。……もういいだろ花子さん。俺早く部活行かなきゃならないんだけど」
うんざりとした様子で言ってドアノブに手をかける乙瓜。しかしその背中に投げかけられた花子さんの次の言葉は、乙瓜の動きを止めた。
「あなた、この頃あちこちで目撃されたことはなぁい?」
ぴたり、と。乙瓜の手が止まる。ハッと振り向き、花子さんを凝視する。
視線の先の花子さんは、口角をにぃと吊り上げ、まるでどこかのタチの悪い妖怪みたいだ。
目と目が合うと、彼女は大きな瞳を細めて乙瓜の方に歩いてくる。しかし足音はない。まるで床から数ミリだけ浮いているみたいに。
「私、見たのよ」
喧嘩する猫みたいに、もう鼻と鼻がくっつくほどの近距離までやってきた花子さんは、そう言った。
何を見た、とは言わなかった。
しかし乙瓜には思い当たる節があった。
給食の前、天神坂や王宮が言っていた事。それだけじゃない。
実は、今月に入る前後から。少しずつだけれども。乙瓜は自分が言っても居ないところで目撃されることが、妙に多いと感じていたのだった。
「……本当なのか」
渇いた唇から出る呟きは小さく震えている。
「私が嘘を吐いたことがある?」
大きな紅い瞳を輝かせ、花子さんはにこりと笑った。だがそれもひと時のこと、すぐにスッと真面目な表情に変わる。
「今日、昼前。私は見たのよ。ピンクの日傘持った黒い装いのあなたそっくりの女の子。駐輪場の前を歩いていたわ。それは来たのよ、この学校に。そして多分、まだいるわ。何が目的かは知らないけれど」
花子さんは乙瓜の胸にそっと人差し指を乗せる。
「注意しなさい、気をつけなさい。万が一あなたに何かあったら、北中の人妖の調和は崩壊するわ。仮縫いの封印なんてすぐに解れてなくなって、大霊道から品性下劣で悪逆非道な悪鬼悪霊が這い出てくるわよ。そうしたらこの学校もこの町も、最終的にはこの国も終わりよ、ジ・エンドよ」
いいこと? と花子さんは念押しする。
「出来れば早めに火遠と合流しなさい。あの子無駄にいろんなことに詳しいから、多分何かしらの知恵を与えてくれる筈よ。わかったわね」
言い聞かせる花子さんは、いつしかの余裕たっぷりな様とは違ってどこか焦っているようだった。
普段と違うその様子に気おされ、乙瓜がこくこくと首を振ると、花子さんは近づけていた顔を離し、やっと乙瓜を解放した。
その時花子さんが一瞬浮かべた自信なさ気な表情が、乙瓜をほんのり不安にさせる。
(何なんだよ……一体……)
今度こそドアを開け、逃げるようにトイレを後にする乙瓜を、花子さんはただただ見送った。
「本当はもう少し留めておきたかったけれど……。乙瓜――……乙瓜。絶対に火遠に会うのよ」
閉まるドアの隙間から漏れ出す彼女の呟きは、果たして乙瓜に届いただろうか。
届いていようと、届いていまいと。事は確実に進んでいく。
階段を駆け下りるその途中、烏貝乙瓜は見てしまった。
真っ黒なスカート、白いフリル。
右手に携える、綺麗に畳まれたピンクの日傘。
踊り場の鏡の前、方向転換した視線の向こう、階段を降りた先の昇降口の前。
背を向けて立っていたそれは、くるりと乙瓜を振り返る。
「待っていたわ、待ちくたびれちゃった」
陽気な口調で踊り場の乙瓜を見上げるそれは、その顔は――
「私……?」
乙瓜は驚愕した。開いた口が塞がらない。着ている服も、口調も、雰囲気も全く違う。けれどその顔は、たった今乙瓜が背にしている踊り場の鏡に映したかのように瓜二つ。
(これが……ドッペルゲンガー? いいや、これは別人だ、空似だ、そうに違いない、でも……?)
絶句する乙瓜ににこりと微笑みかけると、それは確かな口調でこう言った。
「二年ぶりかしら、私の妹。ここまで来るのにこんなにかかっちゃった。さあ返して貰うわよ。私の影を――」