怪事戯話
第五怪・最後の奏楽、楽器の歌声⑤

「――というわけでおまえらの数倍練習してきましたぁ……」
「おうおう……お疲れさん」
 妖海の現実離れした空間から解放された乙瓜はすっかりへとへとといった様子で、見る部員たちを心配させた。そりゃ、その他五人から見れば小一時間ほど居ないと思っていたらこの調子で帰ってくるのだから、まあ、驚く。
「しっかし、そんな恥も近所迷惑も全く気にしなくていい空間があるなんてめちゃくちゃ便利じゃん? はー。あたしも行きたかったなァ」
 机に頬杖を付きながら残念そうに遊嬉が呟く。
「やめとけやめとけ……。時間の感覚が狂いまくるぞ」
「とはいうけどさぁいーつかちゃん。二度寝するのにうってつけだと思いますぜぇー? まじ。あーあー。いいないいなー」
 溜息を吐きながら本気で羨ましがる彼女を見て、深世は呆れ顔で呟いた。 「全力で怠惰たいだな目的に利用しようとしている……」
「だめだこいつ……はやくなんとかしないと」
 一応同じ小学校の出身であり昔から遊嬉の事を知っている魔鬼は、いよいよ呆れた様子で肩をすくめた。

 そこからすっかりだべりモードに入る美術部の面々。その場にパンパンと乾いた音が鳴り響く。
 手を大きく叩く音。火遠だった。
「はいはーい。御歓談中悪いけどね、君たちの方はどうなったい?」
 教壇の上に腰かけ、行儀悪くも足を組む特別講師の彼は、魔鬼を指さして言った。
「なんで私に振るのさ……。えーっと、こっちはこっちでそりゃもう真面目に練習してたよ? 私一組じゃないから一から覚えてるけど」
「そーそー聞いて聞いてよー。魔鬼は自分のところクラスの曲じゃないから男声のところ穴埋めしてるんだぜー」
 酔っ払い親父のようににまにましながら肩を掴む遊嬉の手を鬱陶しそうに振り払いながら、魔鬼は続けた。
「……とまあそんなわけだけど、そっちはどうなのさ」
 ちらりと見る視線の先には乙瓜。乙瓜は一瞬どきりとした顔をした後、やや気まずそうに目を逸らした。それを受けて火遠はくつくつと笑う。
「いやいやいや。これがもう傑作で傑作で」
 嗤い混じりの震え声。乙瓜は恥ずかしいのか両てのひらで顔を覆い隠している。
「高音なんて序の口序の口、伴奏からずれるわ息つぎのタイミングがおかしいわ歌詞あやふやだわで可笑しいのなんのって。お陰で予定してた時間より少し長引いちまったよ」
 な? と振り向く火遠に、乙瓜は相変わらず顔を隠したままいやいやするように首を横に振るばかりで、珍しく言い返さない。何か弱みでも握られているのだろうか。
「一体何したんだ……」
「何って。調教?」
 呆れ顔の魔鬼に、火遠は得意気に言った。
「ブルマはまだわかる……水着は死ぬほど恥ずかしかった……」
 涙声で謎の供述をする乙瓜にその場の全員頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「いみがわからん……」
 呟く魔鬼。
「呼吸を鍛えるのにマラソンさせたり水泳させたりしてきました。いぇい」
 けろりと解説する火遠。全員が「そういうことか」と納得すると同時に、あまりの悪趣味さにぞーっとした。
 着せたのか、ブルマ。着せたのか、水着。殆ど一対一の状況で、女の子に。よりによって普段から脚とかあんまり露出しない俺俺の乙瓜に。
「さっ、流石に可哀想だろ! 乙瓜に謝れ!」
 叫ぶ魔鬼。
「なにいってんだ。同意の上だし謝る要素が一ミリもないんですけどー?」
 全く悪びれる様子の無い火遠。
「だめだよ火遠くん、乙瓜ちゃんはあれで繊細なんだよ!」
 そこに噛み付く眞虚。
「何考えてるんだ変態! 最低!」
 負けじと後に続く遊嬉。そこからはもう暴徒の如し。
「前々から変態みたいな格好だと思ってたらこれだよ!」
「あまり許されることではない」
「ええい刀を持て!」
「殿! 殿中にござる!」
「お巡りさんっ! お巡りさんはどこだ!」
 ぎゃいぎゃいと抗議する美術部の面々を見下しモード全開の顔で交わす火遠。その間も乙瓜は相変わらずプルプル震えていた。
(なんか話が大事になったしにたい……穴があったら十年くらいひきこもってたい……)
 そりゃ恥ずかしい。そりゃ……恥ずかしい。

 そんな中、一人だけ冷静な人物がいた。
「つーかさー、そんなことよか乙瓜の歌はどうなったのさ、先生・・?」
 杏虎だった。
 彼女は机に腕をついて寄りかかりながら、持ち込んでいた棒ポテトのスナック菓子を一口かじった。シャクリと小気味のいい音が立つ。
 そのあんまりにも客観的な言動に、勝手にヒートアップしていた他の面々が静まり返る。
「みんな冷静になんなよ。ブルマだろうがなんだろうが、走らせんのに体操着って別に普通じゃん。泳ぐのに水着でも別に変なことないじゃん。ましてやトレーニングなんだからべつによくね」
 言って、また一口齧った。
「なんだ、異様に物分りがいい奴がいて安心したよ」
 火遠はにこりとした。
「だってそれ腹式呼吸使った方がいいって言われてる運動じゃん。むしろみんな気付けし」
「全くだね」
 よっと教壇上に立ち上がると、火遠は言った。
「乙瓜のやつときたら酷いんだぜ、喉から声出そうとしてやんの。だから運動を通して教えてやっただけなのに、犯罪者扱いとは君らはひどいなあ。ああ、そうだ。裏声の出し方なんかも教えたっけな。まあ、ほんの少しコツ掴を教えたにすぎないけれど……――でもね。そこからは凄かったよ・・・・・。存外」
「……何がさ」
 中々結果を言わない火遠に、魔鬼はやや苛立っていた。多分他の部員達も同じ気持ちだ。話題の脱線を止めた杏虎だってそう思ってるに違いない。
 ――いいから早く言え。
 方々からそんな眼差しを向けられ、彼はゆっくりと口を開いた。

「一週間なんて長い長い」

 それは、予想外の言葉。火遠は続ける。

十分じゅうぶんすぎるにもほどがある。それだけあれば嶽木姉さん一人なんて既に敵じゃあない。すごいよ、乙瓜は」
 ――称賛、絶賛。
 いつも人を小馬鹿にするような言動を繰り返してきた火遠が、乙瓜を。……褒めた?
 美術部は驚きを隠せず、目が点となった。
 火遠はそんなギャラリーの様子を気にも留めず、満足げな顔を乙瓜に向ける。彼女は気恥ずかしそうな顔をして頬を膨らませていた。
「まァ、とはいっても『微妙Not bad』がいきなり『最高Excellent』になるわけでもなく。現時点では精々『まあいいじゃん』くらいってところかな」
「一言余計だっての……」
 乙瓜はやや不機嫌そうに口を尖らせた。
「まあ素質としてはかなりのものを持ってる方だってことで。それになまじ自分が上手いと思ってないだけ教えやすい。中途半端に自分には才能があってすごい上手いと思ってる音痴ほど面倒くさい相手はいないから、そういう意味で君はとてもいい生徒だと思うぜ?」
 褒めているのか貶しているのかよくわからないコメントをする火遠を睨む乙瓜。しかし彼はもう乙瓜を見ていない。
 注目注目、と。
 初めに場の注目を集めたときのように大きく二回手を叩き、火遠は言った。

「それじゃあ、練習一回目の総まとめとして一度全員で合わせてみようか」
 なんとまあ指導者らしい発言だろうか。
 すでに妖海内で飽きるほど歌ってきた乙瓜は心底嫌そうな顔をするも、既に準備に入る皆に従って楽譜を開く。杏虎がプレイヤーの再生ボタンを押し、勢いのある伴奏のメロディが流れ始める。皆の口がすぅっと開く。息を吸い込む。


 人々の腹の虫が騒ぎ出す正午前。
 その日部活で学校に来ていた生徒たちは、いつもより比較的綺麗にまとまった女声合唱を聞いたという。

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