怪事戯話
第五怪・最後の奏楽、楽器の歌声④

 静かに穏やかに揺蕩たゆた水面みなも
 もやもやと白い霧に囲まれて、風も無いのに波打つそれは、地平線の彼方まで続くような池、湖、……否。
 海、だ。
 始点も無く、終点も無く。見渡す限り一面に。海が、広がっていた。

 そんな海の上で、烏貝乙瓜は意識を取り戻した。沈みもせず、流されもせず。仰向けになって、ただどこからともなく無限に湧き起こる波に揺られてぷかぷかと浮かびながら。
「なんだ……ここ……」
 呟く乙瓜の視界には、最後の記憶にある学校の風景とはまるで違う景色が広がっている。
 かすみがかった空には太陽はなく、ただひたすらにペンキで塗りつぶしたような白が途切れることなくつながっている。そして、見渡す限りの景色は曇天どんてんや雨天の日中のようにうっすらと暗いのではなく、仄かに明るかった。
「やあ、やっとお目覚めかい?」
 不意にかけられた声は火遠のものだった。
 彼は頭側から乙瓜の顔を覗き込み、にこやかな笑顔を浮かべている。乙瓜は心底イラッとしながら、眼球を動かし火遠を睨んだ。
「どうなってんだよ、なんなんだここは。ていうかジャージおもいっくそ濡れてんだけど風邪ひいたらどうしてくれんの?」
「あんまり怖い顔するなよ。将来小皺こじわが増えるぜ?」
「……いやどこなんだここはって聞いてんだけど」
 乙瓜が怒りっぽく言うと、火遠は答えた。
「ここは広い広い妖海の一角さ。流れもなく雑霊も立ち入らず、妖海……というより、どちらかと言ったら神域に近い場所かな」
「まーた不思議空間かよ……。勘弁しろよそういうの」
「なにを、人目をはばからずに練習するっていうならこれ以上ないくらいおあつらえ向きだろ?」
 呆れたようにため息をつく乙瓜に、火遠は手を伸ばした。
「いつまでそうしているつもりだい。少し移動するから立ちな」
 言って、彼は乙瓜の手を掴み起こす。
 すると不思議なことに、乙瓜の身体は水に沈み込むことなく水面に立ち上がり、彼女は驚く。
 だが上履きの底を通して足裏に伝わる感覚は地面や床の確固としたそれではない。足踏みすると波紋が起こるし、ゆらゆらと細かく浮き沈みを繰り返している。そこに沈むことのなくなったという一点を除いて、もとの水のままである。

「なんだこれきめぇ……」
「ぼやぼやするなよ、行くよ」

 ビニール越しに水の上に立たされているような感覚に乙瓜は若干の気持ち悪さと不安を覚えるも、火遠はそんな乙瓜の様子を全く気にすることなく。彼女の手を引き、先の見えない霞の方へ向かって歩きはじめた。


 何メートル歩いたか、もう数キロは歩いたかもしれないという頃、ずっと同じような景色が繰り返されてきた中のもやの向こうに見えるものがあった。
 それは、朱く大きな鳥居。
 古霊町にあるどの神社の鳥居よりも立派で巨大なそれが、海面からぬっと生えている。その光景はさながら広島・厳島神社の大鳥居のようであり、且つ、その大きさは京都・平安神宮のそれに近かった。
 鳥居が見えたのと前後して、左右の視界に岸のようなものが現れる。
 突として出現したそれらはもうあと数百メートル歩けば辿りつくほどの近さで、あたかも最初から目に見える範囲にあったかの如く堂々と存在していた。
「……なんだありゃ」
 接近する大鳥居を見上げながら、乙瓜はポカンとしながらつぶやいた。
カムサカ・・・・神社の入り口さ」
 その呟きに、火遠は即座に答える。
 カムサカ神社。その名前を乙瓜は知っていた。古霊町の北端に存在する古い神社・神逆かむさか神社と同じ名前だ。
「かむさかって、あの神逆か? 町の北にある神逆神社のことか?」
「なんだ、行ったことがあるのかい。そうさ、その神逆さ」
「……こんなに馬鹿でかくて立派な鳥居はなかったけどな」

 話しながら件の鳥居を潜り抜ける。精々見積もって20メートル前後のそれは、周りになにもないせいか実寸以上に厖大ぼうだいに見えた。

「俺の知ってるあの神社は、もっとぼろちくて、社殿はそこそこあったけど地味ーな所だったぞ?」
 乙瓜は鳥居を振り返りながら言った。
現世うつしよやしろはそうだろうね。だがここは現世に非ず。ここはいうなれば、もう一つの世界の神逆神社」
「はぁ……まーた性懲りもなく妙なところに引きこみやがって」
「言ったろう、地獄・・だって。尤も、それは君にとっての地獄であって、ここはあの世とかじゃあないから安心しなよ。どちらかと言えば常世とこよ寄りではあるがね」
 火遠は続けた。
「ここは現世と薄皮一枚挟んで隣り合わせに存在している世界なんだ。所謂いわゆる神隠しなんかが起こる場所なんかには、こういった場所につながる薄皮の裂け目があったりして、そこに現世の人々が入り込むことは昔から多々あったのさ。ここは神社の領分故『神様』の影響力が強いけれど、他のところには現世に居ない妖怪が住んでいたり雑霊がうろうろしていたりする。そういう場所さ」
「じゃあここには神様がいるのか……?」
「いるともさ」
 断言。断定。火遠は振り返らずに答えると、やっとたどり着いた岸に上陸した。そして乙瓜も陸に上がったことを確認すると、その手をゆるりと離した。
 そこまで来て漸く乙瓜は気付いたのだが、自分が身に着けているジャージが全く濡れていないことに気付く。乾いた感じではない。まるで最初から水につかったりなどしていないかのように乾いており、不快感は微塵も無い。
(――人間界の常識は通用しないのか……)
 神妙な面持ちでそんなことを考えていると、火遠は乙瓜の十歩ほど先の場所に立ち、さて、と乙瓜を振り返った。
「始めようか、特別講習スペシャルレッスン
 言ってパチンと指を鳴らすと、火遠の手元に乙瓜の楽譜が挟んであるバインダーが現れる。すっかり存在を忘れていたそれの出現に、乙瓜は目を白黒させた。
「お、おい、ここでやるのか……?」
「当たり前だろう、何のために連れてきたと思ってるんだよ」
 火遠がフリスビーのようにバインダーを投げると、それは乙瓜の目の前で止まりふわりと浮かんだ。そして自動的にパラパラと紙がめくれ、「怪獣のバラード」の一枚目が開かれた。
 一連のバインダーの動きに驚く乙瓜。火遠の「取りな」の声で我に返った彼女は、宙に浮かんだファイルを手に取った。
 乙瓜が楽譜を取ったことを確認すると同時に、火遠は言った。

「ようし乙瓜、覚悟はいいかい?」
「覚悟しなくちゃいけないようなことがあるのか……」
「ここは現世とは時の流れが違う場所。ここでの一時間は現世に換算して精々数分にしかならない。よって時間は膨大! ……そんなところで俺とマンツーマンで、一日当たりほかのやつらより何時間も余分に練習する覚悟が――君にあるのかと聞いているんだよ、烏貝乙瓜?」
 火遠はつらつらと途方もないことを喋り、最後に口の端を三日月形に吊り上げた。獲物を狙う蛇のように赤い舌が、唇の隙間から覗く。
(こんな奴と一日数時間も一緒だと……? どんな冗談だそれは……)
 冷や汗をかく乙瓜は、しかしここから逃げ出す術を持たない。どのみち己の歌が招いた事態、腹をくくるしかなかった。
 よって答えは一つ。

「やってやるよ……!」
 精一杯の強がり、精一杯の対抗心。形だけでもと不敵な顔を浮かべて乙瓜は言い切った。

「良し。それじゃあ始めようか。そうだね、まずは少し確認しておこうか」
 火遠はすぅっと息を吸い、口をOオー型に大きく開いた。そして、声を吐き出した。

 ――それは。

 天を地を、音の届くものすべてを震わせるような声量で。且つ、破壊的で破滅的なな音波でなく。
 優しく、しかしながら力強く、聴く者の心を揺さぶるような。
 美しい、こえだった。

 乙瓜は仰天した。
 声や、音は勿論ながら、何より火遠が歌うということに驚きを隠せなかった。
(びっくりするほど綺麗だ……)
 平時の声からは考えられないほど伸びやかで透明感のある歌声に、乙瓜は思わず聞き入ってしまう。
(そして、この曲)
 驚いたことに、火遠は英語の歌詞を歌い上げていた。それは誰もが一度はどこかで聞いたことがある曲。
 イングランド民謡「グリーンスリーブス」。
 開けた空間であるにも関わらず、まるでコンサートホールの中にいるかのように響く歌声。溜息の出そうな彼の歌に圧倒され、乙瓜は息をすることすら忘れそうになる。
(だめだ、脳みそがとろけちまいそうになる――)

 やがて歌い終えると、火遠は一息ついて言った。

「なるほど、音響は十分だな」

「お、お前確認の為だけに歌ったのか……?」
 声から解放されてやや正気に戻った乙瓜が言うと、火遠は当たり前のように「うん」と頷いて見せた。それから少しばかり辺りを見渡してもう一度乙瓜に向き直り、彼は言う。

「さて、ここには雑音ノイズ妨害ジャミングも、配慮するような相手もいない。君も存分に歌い、うたうがいいよ。それじゃあ始めよう、特別講習・第一回目……」

←BACK / NEXT→
HOME