「はあ? 兄さんを返して? ……生憎此処は女ばっか、男は居ないよ」
何のことだかさっぱり分からないといった風に、戮飢遊嬉は少年に返す。だが、少年は遊嬉の言葉が全く耳に入っていないかのような態度で、遊嬉の一歩後ろの位置で椅子に座ったままの乙瓜を、眼球運動だけでギロリと睨む。
その青いあおい瞳に射止められた瞬間、乙瓜の背筋に悪寒が走る。
――水祢だ。
きちんとした姿を見るのは初めてだが、美術室前の廊下で感じたのと全く同じ気配を乙瓜は感じていた。
それは同時に忽然と姿を現したこの少年が、疑うまでもなく火遠の、妖怪の弟・水祢であることを乙瓜の直感に訴えかけていた。
「……っていうか、それ古霊北中の制服じゃなくない? どっから入ってきたのさ? んー?」
遊嬉は未だ気付いていない。というか、乙瓜以外でこの場にいる全員が気付いていない。相手を完全に人間だと思って話しかけている。
その相手である水祢が不機嫌そうに口元を歪めるのを、乙瓜は見逃さなかった。
「まって、そいつは――」
水祢の表情変化に不穏なものを感じた乙瓜が割って入った、のとほぼ同時か。
「……さい……るさいうるさいうるさい煩い五月蠅いウルサイうるさい! 兄さんをッ!」
癇癪を起こしたように金切り声を上げて、水祢は両の手をばっと広げる。同時にぶわっと広がったチョッキの下から、何かがばっと広がるように飛び出した。
桜の花弁のように白くヒラヒラと宙に浮かぶそれは、大凡日常生活では見かけることのない、いつだかの映画の中で陰陽師が使っていたような紙人形だった。それも一枚や二枚ではない。兎に角大量の紙人形が、床に落ちることなく空中に『舞っている』。
「どこへ隠したあぁッ!」
水祢が叫ぶ。その瞬間、紙の人形達はそれぞれが意志を持った小鳥のように、乙瓜の方へ、強いて言うなら美術部員達の方へと『飛んできた』。
「うわぁッ!? な、何!!!」
「きゃあぁっ!」
事態が全く飲み込めない部員達は驚きの声をあげる。
恐がりの深世は頭を抱えてしゃがみ込み、杏虎は咄嗟に近くにあった画板を持って押し寄せる紙鳥をガードするのが乙瓜には見えた。
真っ白な紙の波は見渡す限りに広がって視界を妨げ、まともに食らった深世に眞虚や遊嬉、そして乙瓜はさながら純白の闇の中に居るかの如く、位置感覚を見失った。
視覚を奪われたも同然の乙瓜は、見えないけれど近くにいるだろう火遠に向かって叫ぶ。
「何も見えないじゃないかよ! こんなのどうやって倒せばいいんだよ!!」
意外にも、返答はすぐにあった。それは鼓膜にではなく脳に直接語りかけるような声だった。
『……ばかだねえ』
「はぁ!? 何が!!」
『大声を出すなよ。今ので位置、ばれたよ』
「は――」
乙瓜が何か言う間もなく、前方の紙がモーゼの奇跡よろしくばっと割れる。
「やっぱりおぉぉおまぁあああえぇぇぇえええかぁぁあああああああ!!!!」
一瞬遅れ、鬼のような形相をした水祢が乙瓜目掛けて飛びかかってきた。
「今話したな! 見えない誰かに話しかけたな!! 兄さんと話したな!!!!」
乙瓜の胸ぐらに掴みかかる水祢の両腕は既に人間のそれではなく、老木のように角張って血液の通っていない冷たさを宿した巨大な腕に変貌している。
ブラウスを掴んでギリギリと締め上げる力はひょろい外見とはあまりにもかけ離れていて、コイツはやっぱり化け物なんだと乙瓜は改めて思う。
――ちょ、まって。これ殺される。攻撃手段なんてないし既にお手上げだってば。無理。死ぬ。
魔法使い早く来てくれ。
一生の内こんなにも友の到着を待った事があったろうか。いや、ない。今ならわかる。メロスを待つセリヌンティウスの気持ちが……!
苦しくなる呼吸と霞んでいく意識の中、乙瓜はそんなことを考えていた。
『んー、やっぱやばいなこれは』
そんな乙瓜の脳裏で、火遠の緊迫感0の声が響く。
『ていうかそっか。使い方教えるの忘れてたわ』
何やら一人で納得している風な声に乙瓜は苛立ち、しかし藁にも縋る思いで腹の底から叫ぶ。
「なにか……秘策があるんなら…………さっさと使えばかやろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
『仕方ない。ほいよ』
炭酸の抜けたサイダーのようにやる気のない声の後、乙瓜と水祢の顔の間に何かがひらひらと舞い落ちる。
それは、一枚の札。
「! ……これは、兄さんの……!」
水祢が小さく何か言うと、何か意味ありげな紋様が描かれた札は火を点けたマグネシウムリボンのように激しく輝いた。
「うわっ!?」
「……っ!」
その輝きは乙瓜の目を眩ませ、水祢を小さく呻かせた。閉じた視界の中で乙瓜は、ずっと捕まれていた胸ぐらの開放感と自分の体が床に落ちる感覚、そして直後尻に鈍痛を感じた。
「……痛っ~~~」
まともに打ち付けた尻をさすりながら目を開くと、大量の紙の鳥は飛行能力を失って美術室の床という床、壁という壁、机の上椅子の上、窓に貼り付き。
やっと姿を確認できるようになった部員達は相変わらず何が起こったか理解できず目をぱちくりとさせ。
また、少なくとも乙瓜の見渡す限りに水祢の姿はなく。まるで超局地的な台風でも通り過ぎていったような有様だけが残っていた。
数秒の沈黙の後、紙の鳥が山のように盛り上がっていた部分がごそごそと動き、その中にすっぽりと埋まっていた遊嬉が顔を出した。
「一体なんなのぉおおおお!!」
開口一番にそう叫んだ遊嬉を皮切りに、深世は「わけわかんないよおおお」と床を叩き、杏虎は呆然として「なんじゃこりゃ」とだけ呟き、眞虚は「掃除……どうしよ」と一言。
まさにカオスとしか言いようのない状況。そこにタイミングよく美術室の扉が開く音がして、都合良く魔鬼が入ってきて。
「ちょっ……おまえらああああああああああああ!!!! 何やってくれちゃってんのぉおおおおおおおお!?」
どう見ても美術部員が大ハッスルして部室を散らかしたようにしか見えない有様にツッコミを入れて、状況完成。
そんな彼女らの様子を見て、嘲笑う人物が居た。
「くっくっく……クスクスクスクス…………あーっはっはっはははおかしい!」
乙瓜は気付いた。それは火遠の声だと。そしてそれは先程までのように脳裏に響いてくる感じではなく、二つの耳の鼓膜を振るわすような聞こえ方だと。
その証拠に、乙瓜以外の美術部員も気付いて上を見上げている。入り口付近の魔鬼も気付いて「ああっ!」と指をさす。
全員の視線が交差する中心、美術室の中央に、草萼火遠は実体を現し浮かんでいた。
口には愉快そうな弧を浮かべ、右目を小馬鹿にするように細めた妖怪が、初めて美術部一年生全員の前に姿を現した瞬間だった。