人は夢を見る。
睡眠時に見る夢と、将来的な目標としての夢。
夢と聞いてどちらを真っ先に思い浮かべるかは個々人に寄るが、大抵の人間は両方ないしいずれかの夢を見ていることだろう。
夜に昼に。日々誰かによって見られ続けている夢。そんな夢が泡沫となって漂着する先に、彼女は居た。
夢想世界の主、夢想の悪魔。エーンリッヒ・シャルクハフト。
意味はそれぞれドイツ語で『同様に』、そして『ひょうきんな』。
まるでパッと思い浮かんだ単語をそのままくっつけたようなその名前は、彼女らと契約を交わした魔女が思いついた順に適当に与えていったものだ。
その魔女の名はヘンゼリーゼ。
世界という水面に一石を投じ、それによって生まれる波紋を静観するのを趣味としている漆黒の魔女。
エーンリッヒは己を含む十柱の悪魔たちと共にヘンゼリーゼと契約を交わし、彼女が不死身の魔女である事を保障したのだった。……かれこれ五百年は昔の話である。
以来、どちらが主でどちらが従か。互いに持ちつ持たれつ、エーンリッヒらとヘンゼリーゼとの関係は今日まで続いていた。――故に。
「……あのねえヘンゼリーゼ。そろそろ私に話してくれてもいい頃合いじゃあなくて?」
無限の夢に繋がる夢想世界の片隅で、エーンリッヒは不機嫌そうに頬を膨らませた。
彼女の視線の先に居るのは真っ黒い少女。闇夜を下ろしたような黒髪と、同じ色の黒いドレス。
その少女こそヘンゼリーゼだった。
普段は大人の姿を取っている彼女は、魔法で己の外見の年齢を自在に操ることができるのだった。
現在の姿は15歳。エーンリッヒらと契約を交わした時の姿であり、不死身の魔法を得た時から成長することを止めた魔女の本来の姿だ。
横から口を出されない状況で悪魔たちに会う時、ヘンゼリーゼは好んでこの姿に戻るのである。
「あぁら、何のこと?」
「惚けちゃって。知ってるんだから」
平時の現世より幼い調子で首を傾げる魔女に、エーンリッヒはすかさず言い返す。
「クロウメマキの記憶を意図的に閉ざしたでしょう? ……ううん、思い出せないように道筋を閉ざしたって言った方がより正確? 兎に角わかるんだから。記憶もまた夢の領分だもの」
それとも違うかしら? と続けた先で、ヘンゼリーゼは悪戯を見破られた子供のように舌を出して見せた。
「……流石に夢羊の目は誤魔化せないわね。ええ、そうよ。私があの子の記憶の道筋に蓋をしたの。現在この局面で【灯火】側に疑いの目を向けられるわけにはいかないもの。あの興醒めの【月】を落とすまでは、あくまで仲良く、ね」
口元を隠してクスクスと笑う魔女の姿に、悪魔は呆れとも諦めともつかない溜息を返した。
「その割には、現在進行形で企み続けてる事があるみたいじゃない?」
「嫌ぁね、それはそれで演出よ。あちらの子たちに自分たちが何と戦っているのかを理解させる為にも必要な演出だわ。それに何より面白いじゃないの。うふふふふふ」
「あ……そ……。まあ、やらかした後での【灯火】の怒りがこっちまで飛び火しないようにさえしてくれれば、なんだっていいけど」
嫌味をものともしない調子のヘンゼリーゼにそっぽを向き、エーンリッヒは思う。――この魔女が自分たちの敵ではなくて良かった、と。
(尤も、私たちを敵に回したら回したで、ヘンゼリーゼはその全てを失うわけだけれどね)
その口元に悪魔らしい微笑を一瞬だけ浮かべた後、エーンリッヒは何食わぬ顔でヘンゼリーゼに向き直った。
それから自分たちを取り囲む空間――夢想世界に目を向けた。
そこに揺蕩う光たちは、過去に夢を見たことのあるあらゆる存在に通じている。人間は勿論、幽霊や妖怪であろうと例外なしにだ。
あるものは大きく強く、またあるものは小さく弱々しく。
さながら夜空の星の様に輝くそれらを見つめ、エーンリッヒは独り言のように呟く。「また一つ、光が消えたわ」と。
どこか残念そうに言う彼女を見て、ヘンゼリーゼはさして興味なさそうに「どうせまた妖怪でしょう?」と返した。
「……そうね。ここ一月で二百近い妖怪から届く光――夢に、心に通ずる扉が崩れ消えたわ。過半数は【灯火】のヤツらに迅速に処理されて、残りは未だどこかで暴れ狂っている……」
「そうね。だけど何を残念がることがあるの? 貴女の力があれば元に戻せるそうじゃない」
ヘンゼリーゼは小馬鹿にするようにそう言って、顔の高さで両手の指を絡めた。悪魔は「冗談はよして」と鼻を鳴らした。
「私に出来るのは、あくまで核になりそうなものを拾い上げることだけよ。……確かに夢が消えるのは勿体なくて残念な事だけれど、何の恩も借りもない妖怪や幽霊どもを助けてやる義理がどこにあって?」
すっぱりと言い切った夢想の悪魔は空間の無の上に腰を下ろし、脚組をしながら思い出したように呟いた。
「……でもまあ、またレーナやあの子たちに乞われたなら、してあげない事もないかもね」と。
魔女はそれに一笑すると、ふと思いついたように一言。
それにしても、その気になれば救済可能な欠陥をどうして態々残したのかしらね――と。
雨の滴る八日水曜日、古霊北中学校二年二組教室。
低気圧から来る微かな頭痛に苛立ちを覚えつつ、一時間目の数学を適当に聞き流す魔鬼の姿がそこにあった。
頭痛は「もう授業を続けていられない!」と思う程ではないものの、数学教師が念仏のように唱える公式と連動してじんわりと痛み、彼女の癪に障った。
魔術の術式は殆ど一瞬で組み立てる魔鬼だったが、数学の式はどうにも思うようには行かないのだった。
(保健室に頭痛薬あるかなあ、ていうか早く終わんないかな……)
そんな事を考えながら睨み付けた壁時計は、残りの授業時間が30分以上ある事を無情にも告げる。
いつもと変わらぬ針の速さが嫌に悠長に見えて、魔鬼は理不尽な苛立ちを静かに膨らませて行った。
幾ら不良美術部と言われようと、根が真面目なので保健室に抜けるという発想がないのである。少なくとも、頭痛がここから悪化しない限りは。
……既に何度か怪事絡みで授業をサボっているだろうということは、今は言わない方が無難だろう。
――授業終われ、早く終われ。
或いは遊びたい盛りの学生の何割かは確実に同調しそうな願いを胸に、魔鬼は将来どこで使うとも知れない公式をノートに殴り書いた。
と、その時だった。
廊下側の窓硝子がトン、トンと。外側から叩かれるように、小さく音を鳴らしたのは。
それは、ともすれば気が付かないような小さな音だったが、廊下側から数えて二列目の席に居た魔鬼の耳には確かに届いていた。
恐らくは他の何人かのクラスメートの耳にも届いた筈である。無論、音のした窓に最も近い席の生徒などは気づいて当然だ。
現にその席に座る男子生徒は板書を写す手を一旦止め、窓の方にふっと顔を向けた。
しかし彼は次の瞬間には不思議そうに首を傾げ、それから再び板書の作業へと戻っていった。
それもその筈、彼には見えなかったのだ。
否、恐らく彼と同じように窓を見た殆どのクラスメートにも見えてはいなかった筈だ。……だが魔鬼には見えていた。
「……!」
音を聞き、窓の方を向いた瞬間。魔鬼の目は廊下に立つ人物の姿を確かに捉えた。
大部分のクラスメートには見えていない、時代遅れの学帽とマントの少年。――たろさんの姿を。
硝子越しのたろさんは、魔鬼の視線が自分に向いた事を確認すると、何も言わず手だけをおいでおいでと動かした。
何やら用事があるらしい。なんだろうと魔鬼は思うも、しかし今は授業中だ。
(いや無理! 無理だから!)
そんな思いを込めて、目立たないように小さく首を横に振るも、たろさんの手招きは依然として変わらず。
(……なんなのさ……ええ……?)
魔鬼はいい加減うんざりとしていた。
そもそも何の用だと言うのか。黙ってたら何も分からないではないか。
大体、幽霊的存在の声なんて殆ど大体誰にも伝わらないから普通に喋ったらどうなのか。
――と、心の中で悪態をつき始めたのとほぼ同時、誰かにポンと肩を叩かれ、魔鬼は思わずびくりとした。
弾かれたように顔を上げると、怪訝な表情を浮かべた数学教師の姿がそこにある。
「なっ……んでしょうか?」
思わず裏返りかける声で訊ねると、彼は元々仏頂面な眉間に更に皺を寄せ、「黒梅、ちゃんと聞いてるのか?」と、ある種お約束ともいえる言葉を発する。
――ああ、怒られる! 魔鬼は縮みあがりながらも心の中で叫んだ。たろさんの馬鹿! と。
けれども次の瞬間教師の口から発せられたのは、彼女の予想とはまた違った言葉であった。
「……なんだ、呆っとして。体調が悪いのか?」
「えっ!? ……あー……――」
それは思ってもみなかった言葉だった。
どうやら彼の目には、どこか上の空の魔鬼が体調不良に映ったらしい。
日頃それなりに真面目に(見えるように)授業を受けて来た恩恵だろう。或いは頭痛で若干いつもより苦しそうな表情になっていたのも幸いだったか。
どうせ二時間目までに保健室に寄ろうと思っていたし、窓の外でもお呼び出しがかかっているこの現状。魔鬼はこれをチャンスと捉え、そのまま「はい」と頷いた。
誤解に甘え保健室に行く許しを得て「ひとりで行けますから」と教室を抜け、目と鼻の先の階段を降りる。
不審がられるのでたろさんの事はスルーするが、彼にも何となく意図は伝わっていたのだろう。スタスタと階段を下り始めた魔鬼の後に黙って追従した。
人気の無い階段はいつにも増して静まり返っていて、魔鬼の足音だけがやたらと大きく聞こえた。
まるでその他の音が無くなってしまったかの如く、トン、トン、トンと。テンポよく靴音を鳴らし、踊り場まで下りたところで。魔鬼はくるりと振り返り、背後のたろさんに向き直った。
「……で、何の用? ってか授業中だぞ授業中!?」
声を抑えつつも不機嫌な様子で詰め寄る魔鬼に、たろさんは一瞬気後れした様子を見せつつも、すぐに真剣な表情となって言った。
「いやそんな事より大変なんでござるよ魔鬼殿! たった先刻、北中にこれが!」
「あん?」
たろさんが妙に切羽詰まりながら懐から取り出したそれを、魔鬼は訝し気に見つめた。
それはどうやら手紙のようで、A4サイズの紙の真ん中にワープロ書きでたったの二行ほどの文章が書かれていた。そこには――。
「『本日十月八日に伺います。アンナ・マリー・神楽月』……って、神楽月!? あの【三日月】の!?」
「そうでござるよ、だから大変なんでござるよ! ……あと魔鬼殿声、声!」
たろさんの指摘に魔鬼はハッと口を押えて辺りを見回し、再び声を抑えながら「皆は知ってるのか?」と続けた。
「行く行くは伝えるつもりでござるよ、……でも流石に四人も連れ出すのは難しいゆえ……」
「それで私か……」
クラス分けに特に恨みはないがとんだ貧乏くじを引いたもんだ。
そんな風に思いつつ、魔鬼は呆れ気味の溜息を吐いて、それから「わかったよ」と頷いた。
「今日一日警戒してみる。それじゃあ」
言って再び階段を下り始めた魔鬼の背中を、困惑したようなたろさんの声が追いかける。
「ちょ、まっ……魔鬼殿!? 何処へ!!?」
「保健室ー」
素っ気なく答え、魔鬼は振り返らずに手を振った。
鉄筋コンクリートを伝って聞こえる雨音はより強く、彼女の頭痛は僅かに疼きを増していた。
(まあ、何がカチコミに来るにせよまずは薬貰わんとだね……やる気が出ん)
当初の目的を優先して行く魔鬼は、しかし。――出会ってしまった。
まさか今すぐにということは無いだろうという無意識の楽観を抱きながら、降りきった階段の先で。
眼前に見える二学年用昇降口と、そこから見える雨の前庭に濡れる事も厭わず立つ、奇妙な服装の女と。
「こんにちは。宣言通りに参りました」
愉快そうにそう言って、女は――アンナ・マリー・神楽月は。わざとらしくご丁寧に頭を下げて見せたのだった。