その日の放課後。
ゴールデンウィーク明け初めての部活の時間という事で、美術部も正式に新入部員を迎えることとなった。
とはいえみんな仮入部で馴染みのある顔ぶれであり、入部の挨拶は新入部員も先輩部員も互いに「改めてよろしく」と頭を下げる程度で終わった。
「ええと、改めまして、これからよろしくお願いしますっ!」
件の古虎渓明菜も、これで晴れて美術部の一因だ。少々緊張した様子でぺこりとお辞儀をする彼女を見て、魔鬼はほんのり懐かしい気持ちになった。
――ああ、一年前は自分もこんな風だったな、と。
奇しくも新入部員は六名。昨年の自分たちと同じ人数の彼女らを見て、魔鬼はどこか感慨深い気持ちでいた。
(先輩か。……先輩ねえ。私たちも漸くちゃんとした先輩になるのか……)
同学年の面々をちらりと見る魔鬼。美術部でありながら美術的でない事ばかりに首を突っ込みまくり、不良美術部とまで称された彼女達がそこに居る。
――果たして、彼女達がこの子羊のような新入部員を上手く導いていくことが出来るのだろうか。
一抹の不安を覚える魔鬼は、しかし自分の事だけ完全に棚上げしていた。
世間的に見れば彼女もまた美術部のおかしな面々の一員、寧ろ中心人物に近い存在であると云うのに。
ちょっぴり失礼な事を考える魔鬼を余所に、同学年の面々は非常に愛想よく新入り達を歓迎した。
お調子者の遊嬉や元々面倒見たがりの深世は勿論のことだが、あの乙瓜さえも「困ったことがあったら聞いてくれ」等とガラにもない台詞を吐いているものだから、恐らく魔鬼の心配は杞憂に終わるだろう。
美術室の中には、いつにも増して暖かい雰囲気が流れているようだった。
まだ高い五月の太陽が窓の外に広がる屋外を明るく鮮やかに照らし出し、穏やかな放課後の時間が始まろうとしていた。――そんな矢先。
何の前触れもなく美術室の扉が開け放たれた。立てつけが悪いのか時々開きにくくなることのあるその扉は、ガタッと大きな音を立てた為、部員の多くは驚き、一斉に扉の方を向いた。
その沢山の視線による集中砲火を受けて、扉の先の人物はフンと鼻を鳴らす。
「いや、何も皆して注目する事もないんじゃあないか?」
不思議そうに小首を傾げる彼は、そのままツカツカと教壇前まで歩を進める。
「注目することも無い」と言った彼のなんてことない行動に、しかし誰も――特に一年生は目を離せないでいた。
それも仕方ない。何故なら、唐突に表れた彼は教師にも生徒にも属さないような恰好をしていて、背丈こそ生徒の様であるがその頭髪は校則違反なまでに真っ赤。
おまけにその毛先は炎のように発光しながら燃え盛っているのだから。
明らかに異様。そんな奴が唐突に現れたものだから、当然の如く一年生たちは静かにどよめいた。
「一体彼は何者なのか」といった内容がヒソヒソと囁かれ始める。
その様子を見ながら、魔鬼はやれやれと言った様子で蟀谷を押さえた。
隣を見れば乙瓜も眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔をしている。
教壇の前に立った彼はというと、チョークを持って何やら黒板に書いている。その後ろ姿に、魔鬼と乙瓜の二人は呼びかけた。
「「火遠!」」
二人分の不機嫌な声を受けて、彼はニヤリとした顔で振り返った。
「やあ元気にしていたかい? 美術部たち」
草萼火遠、妖怪を狩る妖怪。先月の騒動中殆ど姿を隠していた彼は、おきまりのように口角を釣り上げるのだった。そんな相変らずの調子の火遠を見て、乙瓜は声を張り上げた。
「お、おまええっ! 暫く見ないと思ってたら……今までどこで何してたんだ!」
「なにを、先月会ったじゃないか。ほら、君がおもらししたとかしないとかの――」
「わああああーーーっ!? 馬鹿馬鹿そっから先は言うなよ一年も聞いてるんだぞ……ってそうだった。おいお前! ぬけぬけと出てきやがって、一年がちょっとビビってるじゃねえか!」
「一年……? ああ」
火遠はそこに来て漸く一年の存在を認識したのか、彼女らに視線を向ける。
一年生たちは益々訳が分からないといった様子で埴輪みたいに口を開けて固まっていたが、火遠の視線を受けて一斉にびくりと体を震わせた。
そんな彼女たちを見て火遠は苦笑し「そんなに怖がらなくたっていいじゃあないか」と呟き、きちんと体ごと一年生に向き直ってぺこりと一礼した。
「やあはじめまして新入部員のお嬢ちゃんたち。自己紹介させてもらうと俺は草萼火遠。美術室には時々出入りすると思うからよろしく頼むよ」
そう言って愛想よく笑う火遠を見て、乙瓜は言う。
「騙されるなよ。そいつ妖怪だから半径5m以内には近寄らんほうがいいぞ」
「よ、妖怪っ!?」
一人の一年生が悲鳴のような声を上げた。
他の一年と比べて一番小柄な彼女の名前はなんだったかと、乙瓜は一瞬だけ考え、確か音色とかいう名前だったなと思い出す。
恐らく彼女も怖がりの類なのだろう。
一方、そんな彼女とは対照的に嬉々とした笑顔を浮かべた娘が居た。
普段腫れぼったい印象の目を皿のようにする前髪ぱっつんの彼女は、明菜の友人岩塚柚葉だった。
妖怪という響きにときめきを抑えきれない様子の彼女を見て、魔鬼も乙瓜も「きっとこの娘もオカルトが好きなんだろうな」と思った。
……実は彼女こそが先の怪談自爆テロの中心人物だったということは、知らない方が吉だろう。
「な、何の妖怪なんですか!? 触ってもいいですか!?」
鼻息荒く目を輝かせる柚葉を見て、火遠はニコリと笑んで指先から火の粉を出して見せた。それを見て柚葉は大興奮。勿論他の一年も、である。
なんだかわからないけどなんだかすごい! という雰囲気が一年生の中に広まりつつあるのを見て、乙瓜はやれやれと溜息を吐いた。
「……嫌に気前がいいじゃないか」
「初回特典みたいなもんだよ」
火遠はチラリと乙瓜を振り返りつつ悪戯っぽくニヒヒと笑った。
その嫌な笑いに乙瓜がムッとするのとほぼ同時。火遠はサッと何でもない顔に戻ると、怯えていた音色も巻き込んですっかり盛り上がっている一年に向き直り、彼女達に向けてこう言った。
「美術室には時々俺みたいのが来るけど、まあ気にせずやってくれよ?」
それから人差し指を立て「このことは何処にも内緒だよ?」と秘密の約束を呟く火遠に、一年達は小学生のような素直な返事と共に首を縦に振った。
「まあざっとこんなものかな」と言いながらいつものメンバーに振り返った火遠の視線の先には、教師に質問する生徒のようにスッと手を上げる遊嬉の姿があった。
「なんだい遊嬉?」
「はいはいせんせー。質問、質問でーす! あの黒板の文字の意味はなんですかーー?」
わざとらしくハキハキと喋りながら遊嬉が指し示す先には先程火遠が書いていった文字があり、そこには『侵入者に対する警戒強化について』という、如何にも業務連絡然とした文章が書かれていた。
火遠は自分で書いたそれを見返しながら、「ああ」と思い出したように呟いた。
「どういう意味って、そのまんまの意味だよ。……何者かが北中に侵入している可能性があるってこと。もっと具体的に言うなら花子さんからの連絡だね」
「花子さんからの?」
「連絡?」
火遠の言葉を受けて、乙瓜と魔鬼の二人が顔を見合わせる。
その時点で、二人には互いに何を思って互いを見たのか分かっていた。
「……花子さんから呼び出しあった?」
恐る恐る言う魔鬼に、乙瓜はふるふると首を横に振った。
そう、そのことなのだ。これまで花子さんは、何か用件のある場合は決まって二人をトイレへと呼び出していた。
しかし今回はそれがない。そんなことは初めての事で、二人はなんとなく不安になった。
「もしかしてスルーしてただけで呼び出されてたとか……?」
「怖いこと言うなよ……」
嫌な想像をして二人ともさっと青褪める。
普段のほほんとしている花子さんを怒らせたら多分恐ろしいことになると、二人とも理解していたからだ。
本人の本気なんて見たことがないし見たくもないが、少なくとも闇子さんに一度勝ち、学校に巣食う妖怪や亡霊の類の半数以上に支持されている存在である。
敵に回したら相当恐ろしいことになるに違いない。そう考え、二人はそっと身震いした。
そんな彼女らを見て、火遠は「安心しな」と言いつつ教壇に腰を下ろした。
「花子さんは昨日から二、三日の間行楽で留守だよ。学校内の異変を連絡したらじゃあ警戒しろってことで、こうやって用件だけ伝えてきたわけ」
「「はぁ!? 行楽!?」」
思わず声をシンクロさせる二人に、火遠は「そうそう」と頷いた。その様子を見て何を思ったか乙瓜は床に崩れ落ちた。
「一人だけゴールデンウィーク延長してるんじゃねえよ! ていうかお化けが行楽行ってんじゃねーよ!」
床に八つ当たりしながら叫ぶ乙瓜を余所目に、魔鬼は身を乗り出しながら更に追及した。
「連絡って、どうやって!? ていうか今どこに居るの花子さんっ!?」
「いや、連絡手段普通に携帯電話だけど。今浜松だって」
「携帯持ってんのかよ! 番号何番だよ! 浜松!? 静岡ッ?? いいなあッ?」
魔鬼は握りこぶしで激しく机を叩いた。それから乙瓜と同じようにへなへなと崩れ落ち、床に膝をついた。
二人並んで謎の敗北感を醸し出す彼女達は、実は互いに連休中碌な事が無かったのであるが、そのことはまた別のお話である。
勿論そんな彼女らの事情など知る余地もない火遠は、不思議そうな目で乙瓜と魔鬼を一瞥した後、思い出したように言った。
「あ、お土産はうなぎパイだって言ってたよ」
「……それ、今要る情報か?」
呆れた様子で言う深世に、火遠は不思議そうに首を傾げた。
「お土産は大事な情報じゃないかホ・シンセイ?」
「あゆみみよだし……」
「いいじゃあないか。まァそんな事よりだね」
火遠は教壇の上から降り立つ。そしてその炎色の瞳で美術部二年の姿を順々に捉えながら、至って真面目な面持ちで話し出す。
「何者か。本来北中に居る筈のない何者かが、今北中に忍び込んでいると云う事。これが尤も優先される通達であることを忘れるんじゃあないよ? 怪事は既に来ているんだ、あちらから。故に君たちも警戒を――」
言いながら火遠の視線が遊嬉に向いた時、火遠は遊嬉の血色の瞳が真っ直ぐに自分を見ていることに気付いた。
如何にも何か言いたいことありげな彼女に、火遠は視線を動かすのを止め、軽く口角を釣り上げた。
「何か質問でも? 遊嬉」
「…………」
遊嬉はほんの少しだけ黙った後、鋭い眼光そのままに口を開いた。
「校内に忍び込んだ怪事。……もしかしてそれは、姿を変えられる存在じゃない?」
まるで全てを知っているような遊嬉の言葉に、杏虎と眞虚が顔を見合わせる。
「姿を?」
「変えられる?」
きょとんと首を傾げる二人をよそに、火遠はスッと瞼を狭めた。
「それは姉さんが?」
「いいや」
遊嬉は首を振った。
「確かにあの場に嶽木も居たけど、視たのはあたしも一緒。猿の顔、狸の胴体。手足は虎で尾は蛇、そしてトラツグミの声で鳴く。多分アレは――」
遊嬉がそこから先を言うより早く、火遠がその単語を紡いだ。
「――鵺」
鵺。平家物語などに登場する正体不明の妖怪。
と云うのも、鵺は一般に様々な動物の集合体のような姿をしていると伝承されているのだが、その動物には諸説あり。
且つ黒煙を纏って現れるともされている為、実の所どんな姿をしているのか不明とされている。
しかし鵺は正体不明であれど姿が変えられるという伝承は無く、妖怪事情に明るい者なら遊嬉の主張はおかしいと感じるかもしれない。
現に今こうして訝しげな目を向ける杏虎ら物好き仲間に対して、遊嬉はふうと息を吐き、弁解するように語り始めた。
「……こうは考えられない? 鵺は黒煙を纏って現れるとされる。つまりその中身が繋がってるかどうかなんてわからないわけじゃん。昔の人が部分部分だけ見て総合して考えたにしちゃ、時々鶏だったり狐だったりとキリがないワケ。だったらあたしはこう思うのね。鵺は姿を変えられるんだって。ね?」
「いや、ね、って。そーんな事言われても、あたし実際に視たわけじゃないし」
呆れたように頬杖を付く杏虎を見て、遊嬉は火遠の方をぐるりと向いた。
「火遠からも何とか言ってやってよ! 頼むよぉーっ! 妖怪を狩る妖怪せんせぇー!」
先程までの真面目な雰囲気から一転、幼い持論を論破されそうな小学生みたいな調子で遊嬉はわめく。火遠はやれやれと額を抑え、面倒くさそうに口を開いた。
「……遊嬉の論はそこまで間違っちゃあいないね」
「ほ、本当!?」
「ああ」
途端に元気になる遊嬉を見て、火遠は「これだから」と溜息を吐いた。
その一連の様子を見ながら、殆ど話に付いていけていない深世でも、遊嬉がなんだかトンデモ論的な事を言ったのに専門家に肯定されてしまったような状況だと気付いてしまったらしく、唖然として口を開ける。
――マジなのか。と思う深世の隣で、火遠は「一応補足しておくけどねえ」と前置きして続けた。
「俺も鵺って奴には殆ど会ったことはないんだぜ? ……そもそも正体不明なワケだから、おいそれと正体を明かすはずもないし。けれど、一度だけ。恐らくこれは本当に鵺なんだなと思うモノに遭遇したことがある。……そして」
火遠はそこで一旦区切り、思い起こすように目を瞑ってからこう答えた。
「そいつは体の一部分ないし全身を変幻自在のモノに変化させることができた。全身はともかく部分部分を全く異種の生物に変化させてそれを保つなんてのは、狐狸の類には中々出来ない芸当だ。……だから多分、本物だったんだろうなぁ。たぶん」
「なんでたぶん二回つけた!?」
そうツッコミを入れたのは、いつの間にか負け犬の縁から蘇っていた乙瓜だった。
傍らにはピンピンした様子の魔鬼が居る。どうやら二人とも復活したらしい。
「……どの辺から聞いていたんだい?」と問う火遠に、乙瓜は「鵺って奴はの辺り」と答えた。
「いや、そんな事より何でたぶん二回つけた!?」
「俺からすると乙瓜、君の言ってる事の方がそんなことよりだよ。……はあ。言ったろう鵺は正体不明だって。だから俺が見たモノも真に鵺かどうか分からない、そう言う意味で二回言ったんだ。別に話を適当に誤魔化そうとかそんな意図はないよ」
火遠はうんざりした様子で肩を竦めると再び教壇の上に飛び乗り、美術部二年を振り返った。
「兎にも角にも事態はもう起こってるんだ。相手は恐ろしくステルス性が高いらしく、異物が入り込んだ事以外にはまだ何も、潜伏している位置も姿形もわかっていない。敵意があるのかも、それとも一過性の客人なのかも定かではない。全てが謎だ」
「おいまて! そんな居るか居ないかすらわかんねー相手にどう警戒すりゃいいんだよ!」
唇を尖らせる乙瓜を見て、火遠は平時通りにやりと笑った。
「なにを、大した事じゃあないさ。いつも通りやればいい。……それに普段幽霊の見える君たちが何処から襲ってくるとも分からない脅威に怯えるなんてなかなかない事だろ?」
そう言って意地悪く笑いながら火遠は軽く手を振り、まるで煙のように姿を消した。
「言うだけ言って逃げやがった……」
呆れたように立ち尽くす乙瓜の肩を、誰かの手がポンと叩く。乙瓜が振り向くと、そこにはニコリと笑顔を浮かべた眞虚の姿があった。
「どうした眞虚ちゃん」
そう問う乙瓜に対し、眞虚は花が咲いたような笑顔で答えた。
「言い方は悪いけど、火遠くんが大丈夫って言ってるんだから大丈夫。しんじてあげて」
「……お、おう?」
眞虚の発言の意図がわからず目を丸くする乙瓜。
というか、その場に居た眞虚を除く五人全員わけがわからないと言った様子で首を傾げている。
そんな彼女等に向かって、眞虚は更に爆弾を投げ込んだ。
「えっと、学校の中にお化けか何かが入り込んでいる事は確かだから。乙瓜ちゃん魔鬼ちゃん遊嬉ちゃん、これから四人でがんばりましょー」
間。
その発言の意味を皆が理解するまで、実に五秒程の間が必要だった。
たかが五秒、されど五秒。短い筈なのに妙に長いその時間が流れた後、魔鬼が「んん?」と首を前に出す。
「……おかしくない? 今のなんかおかしくない?」
同意を求めるようにぐるりと皆の顔を見渡す魔鬼に、誰もがうんうんと頷いた。――眞虚以外は。
「おかしくないよ?」
不思議そうにそう言う眞虚に、乙瓜が「いやおかしいだろ」と小声でツッコミを入れる。しかし尚も釈然としない様子の眞虚に対し、魔鬼は言葉を続けた。
「私と乙瓜と遊嬉で三人だよね? 四人って……」
言いながら、魔鬼はまさかという視線を向ける。勿論他の面々もそう思ったようで、皆の視線が一点に集中した。一点――乃ち眞虚にである。
皆の注目を一身に受けた眞虚は、少しの後納得したようにポンと手を叩いた。
「そっか、まだ言ってなかったね」
そう言いながら、眞虚は懐から何かを取り出した。
それは白い紙のようだった。
けれど、それを見た乙瓜の表情が一変する。
いや、乙瓜だけではない。皆がそれが何であるかに気付き、驚愕の表情を浮かべた。
「ま、眞虚ちゃんそれ……!」
乙瓜の震える指がさし示す先には、一枚の護符があった。乙瓜のものとは模様が違うが、それは確かに護符だった。
驚く五人の視線の焦点で、眞虚はにっこり微笑む。
「対抗する力を持ってるのは、三人だけじゃないよ!」