怪事捜話
第三談・雨月張弓③

 ――正直、うらやましくなかったと言えば嘘になる。
 眞虚の告白を聞いた後で杏虎は一人そう思った。
 それまで共に魔鬼や乙瓜たちの背中を見送る立場だった彼女が、成り行きとはいえ怪事に対抗し得る力を手に入れてしまった。
 そのことをちょっぴり嬉しそうに語る眞虚を見て、杏虎は少しだけ嫉妬した。
 ――なんで自分じゃなかったんだろう、と。

 同期たちが度々遭遇し、絵空事のような戦いを繰り広げているという怪事。
 そんな彼女らの非日常的な日常の裏方に徹しながらも、杏虎は密かに思っていた。
 自分だって力が欲しい。友人たちが得られたように、自分にも怪事と渡り合える力が欲しい。
(……いいや、わかってるんだ。あんな現実離れした力がホイホイ手に入らない事なんて。それこさ宝くじに当たるようなもんだって。それが偶々たまたま、あたしの周辺では続出したってだけで。……あたしにまでツキが回って来るなんて、そんな都合のいい話はないだろねぇ)
 そう考えて溜息を吐きながら、杏虎は自室のベッドに横になった。部屋の電気を消して布団を被り、そして思い出す。
(そういえば、あの夢。今日も見るかな……?)
 遊嬉に相談した不可解な夢の話。そのことが、いざ眠りに就こうと云うこの瞬間になって彼女の頭に浮かんだのだ。
 茫と輝く青白い光の夢。昨晩の夢では、確かそれは何かを形作ろうとしていたような気がする。
 ……あれは何を意味していたのだろうか、と思いを馳せながら、杏虎は再びゆっくりと眠りの世界に落ちて行った。


 何も見えない真っ暗闇の中、ぼうと光が浮いている。
 まるで墓所ぼしょに出ると云う人魂のように青白い光。その光はやがて弦月のように弧を描き、光の中に何かを形作った。
 しかしその姿は不鮮明で、アウトラインが霞んではっきりとその全貌が掴めない。
 まるで雲越しの朧月ろうげつのような、あるいはピントの合わないレンズ越しのような。そんな茫漠
ぼうばく
たる姿に杏虎は目を凝らす。
「もっと近づいてよく見てみればよかろう」
 不意に背後から声がした。
 それはこの曖昧模糊あいまいもことした夢の中に在りながら非常に鮮明なものであり、そして今夜になって初めて現れたものだった。
 杏虎はそれに驚き振り返り――

 ――そこで、目が覚めた。
 カーテン越しに差し込む光が見慣れた天井を薄く照らしている。それを暫く眺めながら、杏虎はやっとここが夢の続きではない現実だと気付く。
 もそりと体を起こしながら壁時計の針が六時過ぎを指している事を確認すると、杏虎は小さく舌打ちした。
「今日もまた駄目だった」
 そう呟く彼女の中には、もう不安は殆どなかった。その代り夢の中の気分の延長のような悔しさがぐるぐると渦巻いている。
 あれが何であるのか知りたい。あの光の向こうにある何かを知りたい。
 憑かれたようにそう思いながら――白薙杏虎はさがしはじめた。


 その日登校した杏虎は、授業の合間思い思いに雑談する生徒たちの噂に学校で「キメラ」を見たという話を聞いた。
 もしかしたら昨日話題に上がった鵺の目撃談なのかもしれないと考えつつ、杏虎はふと後方の席を振り返った。
 そこにはボールペンを片手に大真面目な顔をする乙瓜と、彼女とひそひそと何かを相談する遊嬉の姿があった。
(……この件はあっちに任せておけばいいか)
 杏虎はそう思って次の授業の準備をはじめた。ふと見た空には何処からともなく雲が立ち込め、じわりじわりと青空を侵食している。
(嫌な天気だなあ……)
 そう思いながら、杏虎はシャープペンシルの芯を装填した。

 その最中、どこかから鳥のような鳴き声が聴こえたが、窓際の席に座る彼女からすればそんなことはままあることで、また外で鳥が鳴いているのだろうくらいにしか思わなかった。

 午前も過ぎて昼休み、三階図書室前廊下。
 構造上北側にしか窓がなく昼間でも薄暗いそこは、曇天の天気の為にいつにも増して陰鬱いんうつとした雰囲気が漂っている。
 そんな場所に一人立ちながら、杏虎は図書室の鍵を弄っていた。
 彼女が南京錠の鍵をカチャカチャと弄るのを見下ろす天井には、一枚の紙がぺたりと貼ってある。
 それは乙瓜の札であり、昨日あの後校内を見回りした際に、正体不明の侵入者(鵺?)が通過した際の感知トラップとして設置して行ったものだった。
 現在校内にはこれと同様に乙瓜の札と眞虚の札があちこちに設置してあるが、それに気づいた生徒は今の所居ない。何故なら、その全てが意識上の死角に貼られているからである。
 ――意識上の死角。人間は目に映るものを100%認識しているわけではない。
 視覚情報の中から必要な情報のみを取捨選択し、それ以外は雑多なものとして排除されているのだ。
 それは例え慣れ親しんだ生活空間であっても同じことで、壁のヒビや天井のシミなども、意識するまで気付かない事が多い。
 要するに、意識上の死角とは。完全に隠されているわけでは無いが、わざわざ見ないとわからない場所のことである。
 とは言えしかし。実際に札が貼られる現場を見ていた杏虎にはそんなもの関係ない。
 開けた鍵を取り外しながら、思い出したように天井を見上げる。
「異常なし、か」
 視線の先にある札を確認しながら、杏虎はぽつりと呟く。
 彼女は昨日これを設置していった乙瓜が、何らかの異変があれば紙が変色すると言っていたことを覚えていた。
 しかし札は貼られた時の姿のまま、白い紙に橙の模様が描かれている。ということはつまり、現時点で図書室には何も異常はないということになる。
「一応安全だと見ていいんかね?」
 杏虎は鍵をポケットの中に突っ込むと、ガララと扉を開けて図書室に歩を進めた。
 ……彼女の視界から外れた札にじわりじわりと赤茶けたシミが広がって行くのを知らないまま。

 今の今まで施錠されていたのだから当然のことではあるが、本棚と読書机が整然と立ち並ぶ教室内はしんと静まり返っている。加え、本日の曇天を受けて、手前の廊下ほどではないが薄暗い室内はやはり少し不気味だった。
 杏虎はそんな教室に電気の明りを灯すと、目当ての本棚に向かってスタスタと歩き出した。
「確かこの辺に……ある筈なんだけど」
 独り言を呟きながら眺める棚の列に並ぶのは、彼女の傾倒しているオカルトの本――ではなく、日本古来の武道やら伝統行事についての書籍群だった。
 彼女はその中から一冊一冊を手に取りながら、文字を読み飛ばすようにパラパラと捲ると、釈然としない顔をしながら棚に戻すという行為を繰り返した。
 そうして数冊の本を雑に読み飛ばしながら、杏虎は探していた。それは他でもない、夢の内容の核心に迫る何かであった。
 目覚めてから登校するまでの間、杏虎はずっと考えていた。
 夢の中でおぼろげながらも光がかたどった形、あれは何かに似ていやしないか、と。
 考えて、考えて。そして漸く思い至ったのだ。――アレは弓なのだと。
 それに気づいたのは、木曜朝の学年集会を前にして廊下に並んだ時だった。
 早くも五月病を患ってだるそうに並ぶクラスメートの中に、凛とした顔の彼女の横顔があった。
 鬼伐山おにぎりやま斬子きるこ。杏虎と同じ小学校の出身であり、古霊町に三つある大神社の一つの親族として、巫女のバイトをしている少女。
 彼女を見て、杏虎はハッと思い出したのだ。何年か前の節分の日、斬子の神社の祭を見に行った時の事を。そしてそこで老齢の神主が破魔矢はまやを放った姿を、鮮明に。
(――そっか、あれは弓なんだ)
 それに気づいた瞬間、杏虎は妙に納得した。と同時に、新しい疑問が湧きあがってきた。
 ――何故、弓なのか。
 杏虎はゲームの中で弓使いをやったことはあれど、夢に見る程思い入れがあるわけでもないし、別にこれといった憧れも無い。
 武士の家系だなんて話もなければ先祖が矢に刺されて死んだなんて逸話もとんと聞いたことがないし、夢に出てこられる謂れも無い。
 ならば、あの弓は一体何なのだろうか。一週間近くもしつこく夢の中に出てきて、何を伝えたいと云うのか。
(そしてあの声……)

『もっと近づいてよく見てみればよかろう』

 夢の中で響いた声を思い出しながら、杏虎は思う。
 子供のような声だったと。言葉は古めかしいが、あの時聞こえたのは自分よりもずっと幼い声だったと。
(呼んでいるのか、誘っているのか。導いているのか、それとも唆しているのか。……どの道あたしに用があるならもっとはっきり言って欲しいんだけど)
 杏虎は頭を抱えた。読んでいる分厚い本の中身は相変わらず何の参考にもならず、諦めるようにパタンと閉じる。
 学校の図書室ここじゃ何も分からないかと溜息を吐きつつ、杏虎が本を棚に戻そうとしたその時。

「あっれー杏虎ちゃんじゃん。珍しーね、勉強?」
 不意に掛けられた能天気な声に顔を上げ、杏虎は内心驚いた。
 それを顔に出すことはないが、しかし。彼女の目の前にはほんの数分前に思い浮かべた人物、その人が立っていたからだ。
 スラリとした体躯、一部だけはねた色素の薄い髪。鬼伐山斬子。
 彼女は興味ありげな顔で杏虎を覗き込むと、改めて「やっ」と挨拶した。
 杏虎はそれに気の無い返事をすると、戻しかけの本を棚の奥まで押し込んだ。
「何読んでたの?」
 戻した本の背表紙を覗きこむようにして斬子は問う。
「や、別に。ちょっとした調べものだし」
「そーかい? それにしちゃあ分厚い本じゃんよー。何々、日本の武器事典? ……杏虎ちゃーん、暗殺とかはやめとけー」
「ちがうし。そーいうんじゃないってば」
「あらそーお?」
 ニヤニヤと悪戯っぽく笑う斬子を見ながら、杏虎は内心呆れつつ、けれども思った。
 ……もしかすると彼女なら何かわかるのではないかと。
 親族間のバイトとはいえ斬子は正真正銘神官の一族の娘だ。それに、学校では剣道部だが、弓や薙刀の心得もあると聞く。
 もしかしたら、もしかすると。杏虎は思い、「ねえ斬子」と言いかけ――途中で言葉を飲み込んだ。
(――やめとこう。巫女とは言っても所詮只の人、夢の話なんてオカルトともスピリチュアルとも知れない事相談してもまともな答えが得られるとも知れないじゃんか。……どうかしてるんだ今日のあたしは)
 自らを落ち着かせるように息を吐く杏虎を見て、斬子は不思議そうに首を傾げた。
「え、今何か私に言おうとした?」
「ごめんなんでもない。忘れて」
「ん、んんー? んー……うん」
 釈然としない顔で頷く斬子に背を向けて、杏虎は本棚の列から抜け出した。
 横目で見た時計は1時15分を指し、昼休みも残り少ない。
 少々時間を無駄に使ってしまった感が否めないなあと思いつつ、杏虎が図書室を後にしようとした時だった。
 引き戸の死角からさっと影が飛び出し、杏虎の行く手を塞いだ。

「いやあ、やっと見つけましたよ。美術部の人ですよね?」
 その影――人物は馴れ馴れしくそう語りかけると、杏虎にペコリと一礼した。突然の事に流石にビクリと肩を跳ねさせた杏虎は、一瞬遅れて相手の姿を認識した。
 目の前に立ち塞がったのは女生徒だった。
 癖毛の入ったミドルロングの髪を低い位置で二つに縛った眼鏡の生徒。見た事の無い顔だったが、上履きの学年カラーは緑色で、杏虎たち青色学年の一級下――つまり一年生のようだ。
 まだ五月だし、ならば馴染みのない顔が居ても仕方ないか。そう杏虎が納得しかけた、その時。
「杏虎ちゃん今すぐその子から離れてッ、できるだけッ!」
 牽制するような叫びが図書室全体に響き渡る。
 杏虎が振り向くと、そこには眉間にしわをよせつつ女生徒の方を真っ直ぐに睨む斬子の姿があった。
「何、え、はあ? 何?」
 何がなんだか分からず動揺する杏虎に、斬子はもう一度、今度は静かに言う。
「いいから離れて。……その子多分普通じゃないわ」
 大真面目にとんでもないことを言い放つクラスメートに目を白黒させる杏虎の視界の外れで、件の女生徒が「いきなり何ですか」と呆れたような声を上げる。
「ええっと、何の脈絡もなく犯罪者を見るような目で見られてとても恐縮なのですが。私新参者ですが集会委員の者でして。企画で学校でちょっとした噂の美術部の方々に取材しているのでありまして。別に怪しい者じゃないです、はい」
 彼女は実に慇懃無礼にそう往なすと、斬子に冷たい視線を送った。
 しかし斬子が女生徒への態度を改めることはなく、まるで野生動物の喧嘩の如く相手へガンを飛ばすことを止めようとしない。
 そんな彼女達を他人事のように見ながら、杏虎は全く違う事を考えていた。――美術部ってまだ噂されてんの、と。
「杏虎ちゃん何ぼんやりしてるの、早く!」
 まるでうわのそらの杏虎を見て、斬子は業を煮やしたような声を上げる。
「いやいや、この状況なんだか分からんし喧嘩なら余所でやってよ??」
「喧嘩じゃないの、兎に角やばいの!」
「???」
 必死な斬子に対して何がなんやらという顔の杏虎。そんな杏虎の顔を集会委員を自称する女生徒がじっと覗き込み、目を細めて笑った。
「あら好都合ですね。一時ひやりとしましたけど、やっぱその目開いてないんですか・・・・・・・・・
「は? どゆこと?」
 顔をしかめる杏虎に対し、女生徒は「いえいえ」と続けた。

「別に大したことは無いんです。芽が出る前に潰せるなら、それはとっても好都合だなって」
 細く閉ざされていた女生徒の目がすうっと開く。その眼窩には大凡普通の人間ではなさそうな、黒目しかない目が覗いていた。
「――ッ!?」
 やっと異様さに気付き女生徒から一歩退く杏虎だったが、時すでに遅し。
 眼前の異物は見る見るうちに形を変え、どう見ても人間ではない異形の姿となった。
 既存の生き物のような、しかし違うような。まるで知っている生物を片っ端から繋ぎ合わせたようなグロテスクで巨大な化物の姿に!
 それを見て、杏虎は思い出す。――鵺だ。

『もしかしてそれは、姿を変えられる存在じゃない?』

 遊嬉の言葉を思い出しながら。杏虎は目の前の存在に戦慄し、そして心底恨んだ。
 何故自分の所に来るのかと。何故怪事と戦う力を持つ他の部員の所に現れてくれなかったのかと。
 彼女の目の前に居る怪物はもはや伝承上の鵺の姿とは全く違う。
 足は無秩序に十本くらい生えているし、体はハンバーグのように丸く扁平へんぺいな形をしていて、どこが前でどこが後ろともつかない。
(冗談じゃない、あたしは何かすごい魔法とか護符とか契約の力とか、そういうの一切持ってないんだよ!? なんでこっちに来るワケさ、狙うならもっと別な相手がいるじゃないか!)
 余裕なくそう思う杏虎は完全に怯えていた。
 鵺の見た目が怖いからではない。この程度のグロ物体なら普段やっているバイオレンスなゲームでいくらでも目にしてきた。
 だが、そういう敵を相手に平然として居られるのはあくまでゲーム中の主人公がそれを倒せるだけの力を持っているからだ。
 しかし杏虎にはそんな力は無い。対抗手段が無ければどんな雑魚敵だろうがラスボスも同じだ。
 そのことが、理屈で無く本能的にわかってしまったからこそ。杏虎は恐怖し、その場から一歩も動けなくなってしまったのである。
「やっべ……絶体絶命って奴だわ……」
 余裕ぶって吐く台詞は震えていた。杏虎はもう駄目だろうなと思った。
 張りつめた空間に休み時間の終わりを告げるチャイムが間抜けに響き渡るが、だからどうしたというのか。
 杏虎は気付いていた。鵺がグロテスクな姿を明かして以降、この場は既に現世ではないのだろうという事に。
(だって、掃除の時間が近いのに誰一人としてやってこないなんて、流石に妙じゃないか。……それにこの空気、覚えがある。昔水祢があたしたちを美術室に閉じ込めた時のあの感覚だ……!)
 チラリと見遣る窓の外は相変らず曇天だったが、雲はまるで前衛芸術のような妙な色に染まっており、誰がどう見ても尋常ではないことは明らかだった。
(多分……逃げられないだろなぁ)
 そう思い、杏虎は舌打ちした。そんな彼女に鵺が語りかけてくる。
『オドオドしちゃって、可愛いなあ。大丈夫ですよー、怖くないように優しく食べてあげますからね』
 妙に優しい声でそれは言う。
 見た目は全く変わってしまったが、声は集会委員をかたっていた時と変わらず、快活な少女の声で語りかける。
 何の変哲もない、少女の声。だがそれは化物の不気味さを余計に引き立てるばかりで、杏虎は全身に鳥肌を立てた。
 そうしているうちに化物の体がぱっくりと割れ、その内側から赤くぬめぬめとした何かが現れる。
 それは巨大な舌だった。裂けた体から現れたのはそれだけにとどまらず、肉食動物のように尖った真っ白い歯もまたその姿を覗かせる。
 その世にも奇怪な光景を眺めながら、杏虎は妙に冷淡な心持で居た。
(ああ、あれであたしのこと丸呑みにするのか)
 もはや恐怖するのもめんどくさい。全てを他人事の様に考えながら、杏虎ははぁと溜息を漏らした。

「ついてないなあ――」

 そう言い終わるか終らないかの内に、鵺の舌が杏虎の体を包み、巨大な口の中へと放り込んだ。


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