怪事廻話
第二環・環状返済リスタート②

 暦は変わり、四月を迎える。
 終わりからの始まり。花開いた薄紅色の桜はは去る者をしのび、新しく来るものを迎え入れる。
「また会えるわ。今度はその気になればいつだって。だから、今はもう一度お別れ」
 春休みが終わるまで乙瓜の近くに寄り添っていた七瓜は、そう言い残して再び青薔薇の陣営へと戻って行った。彼女とて漸く普通に会えるようになった家族と再び離れるのが寂しくないわけではない。けれども行くのだ。「ここは自分の場所ではない」という悲観からではなく、またいつでも会えるという希望を持って。
 烏貝七瓜は烏貝七瓜で、烏貝乙瓜は烏貝乙瓜。どちらがどちらのでもなく、どちらもとしてここに在り、どちらも紛れもなく烏貝の娘。
 例えおおやけの事実として認められなくとも。二人は確かに友達で、姉妹で、家族で。つまりは会いたくなればまた会える関係だ。互いに、当然親兄弟にも、家族にも。
「――だから、平気」
 立ち去る前の最後の夜。乙瓜と寄り添う狭いベッドの中で、七瓜はそう言って微笑んだ。
「けれどさ七瓜。お前まだ杏虎に赦して貰えてないだろ? ……俺の所為で、落ち着いて話し合う時間も無かったみたいだし。そのまま立ち去っていいのかよ」
「大丈夫よ。……それにどんな事情があったにしろ、赦されない事をしたのは私。これからの行いで少しずつ償っていくわ。……本当にまたすぐ会えるしね。戦いはまだ……終わっていないもの」
 終っていない。最後真剣な眼差しでそう呟いた七瓜の顔を、乙瓜はきっと忘れないだろう。
 そうして再び七瓜と離れて、一人の夜が戻って来た中で。烏貝乙瓜は考え始めた。
 己を否定し隠れる事で目を背けた事を。これからするべきことを。しなくてはならないことを。
 終わっていない。――そう、まだ、終わっていないのだから。

 四月十日金曜日、放課後5時過ぎ。新入生歓迎の諸行事や部活見学等の対応に追われて暫くそれらしい・・・・・活動を自粛していた美術部で、久しぶりに作戦会議が開かれた。尚、美術部が自由に動けない間の対【月喰】警戒は学校妖怪や、引き続き居鴉寺に滞在中の丁丙ら【灯火】の勢力が行っている。
「とりあえずあれから今日にいたるまで【月喰の影】からの攻撃は行われていない。それはそれでありがたい事だけれども、敵が手を引いていない以上、これまで通りの警戒を続ける必要はある。まあこの辺は再確認だね」
 黒板に簡単な図を示し、遊嬉はくるりと振り返る。彼女は教壇を挟み作業机の座席に掛けた部員たちが肯定に頷くなり言葉に出すなりする様を確認すると、「よし」と言葉を続けた。
「そして連中の作戦については、予定も規模も何もかも不明。……だよね乙瓜ちゃん?」
「ああ」
 チラリと遊嬉が見た先で、乙瓜はコクリと頷いた。
「……敵のところから来ておいてなんだけど、多分俺はもう捨て駒だ。あの時・・・の最後で切られたのか、それとも火遠が何かしたのか知らんけど……とにかく連中がこの先どう動くかは俺にはわからねえ」
 すまんと結ぶ乙瓜にいいよと返し、遊嬉は言う。
「乙瓜ちゃんが敵の情報を持ってるか持ってないかより、これからもあたしらの仲間である事の方が大事だしね。まあ難しい事は引き続き丙師匠らに任せよう」
「だね」と魔鬼が同意する。杏虎や眞虚らもコクコクと頷き、乙瓜はそれを見てどこか気恥ずかしそうに「ありがとう」と呟いた。
 部長の深世はというと、そこまでの遣り取りを見届けた後で少し考えるように小さく唸ってから、教壇に立つ遊嬉を見上げた。
「ところでさ、あいつ……火遠はどうする?」
 その言葉に一瞬周囲が静まり返る。遊嬉さえも。
 それはほんの十秒にも満たなかったが、どこか気まずい沈黙であったことは間違いない。
 それを壊したのは遊嬉の溜息だった。彼女はハァと息を吐いて、ついでに困ったように首を掻いて。「そうなんだよなあ」と、いつになく頼りなさげに呟いた。 「丙師匠的には休ませてやれってスタンスらしいけど、心情的にもこれから的にも、火遠せんせ抜きではとどうにもならない事あるからなぁ。……全部頼りってわけじゃあないけれど」
 言いながら、遊嬉は唐突に手で空を切る。まるでそこから何かを掴もうとするように。否、するようにではなく、明らかに掴むつもりで。
 一見してシュールなその光景を見て、眞虚がハッとしたように言う。
「遊嬉ちゃん、もしかして刀が?」
「そゆこと」
 残念そうに答え、遊嬉は続けた。
崩魔刀ほうまとうは元々あたしの刀じゃないからね。火遠経由で借りてただけ。……だから貸出主の意思が無い今は、手元に呼び出す事すら出来ないみたい」
 最後にやけっぱちのように大きく振るった手を納め、遊嬉は不服そうに口を結ぶ。
「そんな! 遊嬉ちゃんが戦えないんじゃ、次にまた大きな襲撃があった時――」
「眞虚ちゃん。最悪の想定より打開策だよ」
 思わず身を乗り出した眞虚を制し、そう言ったのは杏虎だった。作業椅子に掛け腕組み足組した彼女は遊嬉を見上げ、「なんもないわけじゃないんだよね?」と問う。
「代わりの武器の目星くらいはついてんでしょ? あんたあたしらの知らない事ちょいちょい知ってるんだからさ」
 ジトリと。青と黄白色の同居する、朝焼け色の杏虎の視線が遊嬉を射抜く。
 己に向けられた疑念とも嫌味ともとれる言葉に、遊嬉は一瞬不貞腐れ気味の表情を浮かべるが――一瞬の後、微かに余裕を感じさせる笑みを浮かべ。己の瞳に宿った夕暮れの紅の色を、朝焼け・・・に向けて打ち返した。
「あーい変わらず鋭いじゃん。そうだよ? 代わりの刀の目星くらいはちゃーんとついてる。その辺抜かりはないからね」
「やっぱりね。……なんかずるいよなあ。全部嶽木に教えてもらってんの?」
「まあね~。それとあとは人徳って奴ですよ。へっへー」
「いやどこだよ人徳」
いつもの調子でおどけたように言う遊嬉と、呆れたように笑う杏虎。周囲のその他面々は、杏虎の厳しめの言葉から一瞬感じた不穏が泡と消えたことにホッとし、皆で胸を撫で下ろす。 だがおどけて見せた遊嬉は直後、さっと真面目な調子に切り替わり、こう続けた。
「……とはいうけど、あたしが思ってるそれはいつ頃調達できるとか、確実に調達できるとか、それはまだなんとも言えない。……だからみんなにはその間頑張ってもらうしかないし、もちろん火遠せんせを目覚めさせることも考えないといけないと思う」
「それはまあ、一理ある」
 頷く杏虎。他の四人も同意する。
「それじゃあ、これからは【月】に警戒しつつ火遠復活も模索していく感じか?」
「いや模索っていうか、そろそろぼちぼち復活可能か否かはっきりさせた方がいいかなって」
 問う魔鬼にそう返し、遊嬉は再び乙瓜を見た。そして言う。「乙瓜ちゃんもそろそろ我慢ならないでしょー?」と。
 乙瓜はハッと目を見開いて、口を真一文字に結び、コクリと大きく頷いて。それから胸中に渦巻く大きな感情の爆発を抑えるように、震える声で言った。
「俺を助けてああなったんだ。……早くなんとかしてやりたい」
「そうだな」
 魔鬼はキリリと眉を寄せ、真剣な眼差しで乙瓜を見た。遊嬉はそんな彼女らを見て、思った通りとばかりにふふんと笑い。
「よっし! じゃあそれを叶えるべく、で行こうか。なるべく早く」
 ドンと胸を叩いた遊嬉は、そうしてこう告げたのだ。

『火遠を目覚めさせる方法を知っている者が居る。それもこの古霊北中学校の中に』と――



 タンタンと階段を踏みあがる足は速く速く、はやる気持ちを解き放つように一段飛ばしに加速してゆく。
 遊嬉の言葉を受け、乙瓜は弾丸の如き勢いで美術室を飛び出した。最終下校時刻も遠くないというのに、昇降口に逆行するように上階へと昇り昇り、廊下を走り走って辿り着いたのは、三階西の最奥に位置する図書室の前だった。
 はあはあと肩で息をする乙瓜の前に立ち塞がる扉は、当然と言えば当然であるが、既に閉ざされ、南京錠で施錠されていた。その光景を前に八つ当たりするように廊下をダンと踏みつける乙瓜の背後には、漸く追いついた眞虚と杏虎が立つ。
「乙瓜ちゃん」
 そう声をかける眞虚の手には、南京錠の鍵。振り向いた乙瓜はそれに気付いて目を見開き、少しの間固まってから漸く感謝の言葉を口にしたのだ。
「あ、ありがとう」
「もう。先走りすぎだよ」
「ごめん……。魔鬼たちは?」
「私たちに任せてって、美術室で待っててもらってる」
 眞虚は言って困ったように笑うと、それから傍らの杏虎をチラリと見て言う。
「乙瓜ちゃん、えっと、あのね。……言おうと思ってずっと言えなかった事があるの。だから今言うね」
「……え? うん」
 何だろう。そう思う乙瓜に顔を寄せ、眞虚は囁くように言った。「ごめんね」と。乙瓜としては、ここ暫くで言うも言われるも飽いたその言葉を。
「ごめんって、今更眞虚ちゃんが謝る事なんて何もないだろ……?」
 不思議に思って問い返す乙瓜に、眞虚は「ううん」と首を振る。
「乙瓜ちゃんが戻って来た後の一週間のどこかで、私は伝えるべきだったと思うの。乙瓜ちゃんは何であっても絶対に乙瓜ちゃんで、皆もそんな乙瓜ちゃんが大好きだからここに居てほしいって」
「眞虚ちゃん……?」
 やや纏まらない事を口にする眞虚の顔をよくよく見て、乙瓜は息を飲んだ。
(泣い……てる?)
 そう、小鳥眞虚の目には涙がにじんでいたのだ。ギリギリのところで眼の縁に留まった雫が、窓越しに差す西日に照られてきらきらと輝いていた。
 その雫を小さな指でぬぐって、眞虚は言う。
「駄目だ、やっぱ自分の口で上手く説明できそうにないや」
 ごめん。杏虎ちゃんお願い。そう続ける眞虚の肩を任せろとばかりにポンと叩き、杏虎が一歩前に立つ。
「うーんと。……そういや前もここだったっけ、それとも二階だったっけ。まあどっちでもいいんだけどさ」
 そんな曖昧な所から切り出して、杏虎は言った。
「眞虚ちゃんがよくないものになりかけてるって話をしたじゃん」と。
 その言葉に乙瓜は最初キョトンとしたが、けれども徐々に思い出す。
 去年の末、杏虎に打ち明けられた事を。直後の【月】の幹部の襲撃で記憶が有耶無耶になっていたが、確かに杏虎に打ち明けられた眞虚の秘密を。
(そういえば確かにそんな事を言われた。ついでにスキー合宿の時の眞虚ちゃんの様子も幾らかおかしかった……!)
 全てあの前後に起こった様々な出来事の中で曖昧なままになっていた事。それを思い出し、乙瓜は叫ぶ手前の声音で言う。
「だ、大丈夫だったのか!?」
「なんとかね」
 杏虎は溜息交じりにそう言って、あの日――乙瓜が攫われた日に起こったもう一つの事件についての経緯いきさつをざっくりと語った。
「まあ、そんなわけで悪魔になりかけたりとかしたけど、眞虚ちゃんはもう大丈夫だから。ね? その報告」
「……うん」
 コクリと頷き、眞虚は再び乙瓜を見上げた。そしてもう一度言うのだ。「ごめんね」と。
「だけどだからって私、自分の事しか考えてなかったっ……! スキー合宿の時自分ばっかり辛いと思って、他に辛そうな乙瓜ちゃんを見て……酷いよね私。最低だよね。その事を謝りたいと思ってたのに、今日まで言い出せなかったのはもっと最低。……ごめんね乙瓜ちゃん」
「……眞虚ちゃん、………………違うよ。俺だって最低だ」
「えっ……」
 後悔を吐き出す眞虚の肩に手を置いて、乙瓜は静かに首を振った。そして続ける。
「俺だって自分の事しか考えて無かった。だから、………………だからさ。釣り合うかどうか知らないけど、お互い様って事にしとかないか?」
「お互い……様?」
「うん。お互い様。…………でも俺学校壊したんだよなあ。マジでお互い様になるのか……?」
 自分で言いだしておきながら、乙瓜はふと不安に思う。果たして眞虚と自分はお互い様なのだろうか? と。
 そうして土壇場でまた悩み出して俯く乙瓜の頭を、杏虎がペシと軽めに叩く。乙瓜が驚き顔を上げる先で、杏虎は湿っぽさのない言葉で「終わり終わり」と繰り返し、ついでに眞虚の頭も軽く叩いた。
「きょ、杏虎ちゃっ!?」
 乙瓜と同じく呆気に取られる眞虚を見て、もう一度乙瓜を見て。杏虎は再び言う。「終わり」と。
「二人してここにカビ生やすつもりかってーの。とにかくもう謝るのもどっちに非があるとか言うの止め止め。ていうか眞虚ちゃんも泣いたり泣かせたりするのに来たわけじゃないだろがい。あたしに言ったよね?」
 ほぼ一息に言い終えると、杏虎はチラリと眞虚を見た。無言で。けれども何かを促す目で。
 眞虚はその視線に数秒見つめられた後、コクリと大きく頷き、眉に強く力を込めた。もう泣き顔でも困り顔でもない。キリと覚悟を決めた顔で乙瓜と向き合い、そして言う。
「がんばって」
 そう。ありきたりだが誰しもに通じる応援エールを。
「がんばって乙瓜ちゃん。……火遠くんを助けられるのはきっと乙瓜ちゃんしかいない。私が何をしたからって、それに基づいて言う訳じゃないけれど……だけどきっとこれは乙瓜ちゃんにしか出来ない事だと思う。だからどうか火遠くんを起こして。火遠くんの為に……そして乙瓜ちゃん自身の為に」
「ま、そういうこと。がんばんな」
「眞虚ちゃん……杏虎……」
 願うように言う眞虚と、言葉は緩くとも確かな信頼を感じさせて腕を組む杏虎。そんな二人を前に、乙瓜はふうと深く息を吐いて、吸って。それから涙で潤んだ目を制服の袖で乱暴に拭って、力強く頷いたのだ。

「――わかった。行ってくる……!」

 二人にくるりと背を向け、鍵を鍵穴に。カチャリと開く南京錠と、ガラリと開く扉。その向こうに広がる闇に一歩足を踏み入れて、乙瓜は目指すのだ。
 火遠を目覚めさせる方法を知っている者の場所へ。古霊北中学校裏図書室専属司書、兼、永年図書委員長。行動不能に陥った火遠を守る、一ツ目ミ子の元へ――

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