6045*

ロクマルヨンゴー

白翼の鳥、虚の卵 下

 ぴとん、ぴとん、ざぁざぁざぁ。
 地面に乱暴に当たり散らすような水の音。土砂降りの雨が降っていた。

 ぴとん、ぴとん、ぺちゃぺちゃぺちゃ。
 私は靴も靴下も履かない素足で、濡れてぬかるんだ斜面を歩いている。

 ここはどこだろう。もうどれだけ歩いたろう。
 四方を囲む山の木々は、行けども行けども知っている景色を映しやしない。
 雨の山中に、裸足でずぶ濡れの子供が一人。こんな姿を大人に見られたら怒られてしまうだろうか、それとも亡霊か何かだと思われて悲鳴を上げられるだろうか。
 後者だったら……私は少し想像して、くくっと笑った。
 母がリボンで二つに結んでくれた髪は解け、服は山中の低い木の枝に引っかかってぼろぼろ。その上何度も転んで泥だらけ、あちこち怪我をしているようだ。もし今目の前に鏡があったなら、この世に恨みを持つ少女の亡霊の姿がきっと私にも見えるだろう。

 私が誘拐されてから、もうどれだけの時間が過ぎたかな。
 灰色の空と明瞭な視界は、今が少なくとも日中であることを教えてくれているけれど、夕方なのか、朝なのか、それとも昼なのか、まるで見当がつかなかった。
 ……果たして今日は何月何日なのか。まだ誘拐された当日なのか、翌日なのか、それともそれよりもずっと時間が経過しているのか。何一つわからなかった。

 ――あの時私は。

 体の自由を封じられたバラック小屋の中で、人語を解する純白の孔雀という神秘の存在に出逢い、そして卵を預けられた。……らしい。多分。
 そこで一旦記憶が途切れ、何がどうなったのかさっぱりわからない。気がつけば私は、この見知らぬ山中に一人ぼんやりと立っていたのだから。

 私の見回す景色にはあのバラック小屋らきし建物も誘拐犯と思しき男たちも、そして孔雀も見当たらず、ただただ溜息がでるくらいの森が広がっているのみ。
 明らかに人里離れた大自然の中に、子供の私が一人きり。何の荷物も持たず、着の身着のままポツンと立たされていたのだから、最初はまた悪い夢が始まったのかと思った。
 ――そうだ、これはきっと悪い夢だ。そうに違いないよ。
 思い、試しに頬を思い切りつねってみる。
 お約束といえばお約束だが、案の定痛みを感じ、私はここが夢の中でないことを悟った。しばらく呆然と立ち尽くした後、崩れるように地面に膝をついた。
  どこで脱ぎ捨ててきたのやら知らない間に無防備な状態になっていた足に、小枝や石が食い込む。その痛みに、ここは疑う余地がないくらいに現実なのだと思い 知らされた私は、自ずと笑っていた。
 それは刑事ドラマで追い詰められた犯人役がするような、自分でも自覚できるくらいに狂った笑いだったと思う。

 ああ、私、生きてる……!

 少なくとも今の私は、縛り付けられて死を待つばかりの鳥ではない。二本の足で立って、この地面を踏みしめて歩けるじゃあないか。
 ここがどこかなんて、そんなことどうでもいい。……私は生きている。ふもとへ下ろう。そこでどこでもいいから民家に入って、自宅うちに連絡を取ろう。
 そうすれば、帰れるんだ。私は帰れるんだ。日常に帰ってこられたんだ……!

 衝動のように押し寄せる感情は歓喜。嬉しくておかしくてしかたなかった。
 その有りっ丈を吐き出すように笑いに笑ってから、私はむくりと立ち上がった。そして決意するように呟き、そこから山を下り始めた。

「行こう――」



 傷つきながら、汚れながら、何度もくじけそうになりながら。膝をつく度に自分を奮い立たせ、麓を目指した。目指し続けた。
 起きあがる度、どこからともなく元気が沸いてくるような気がした。なにか見えない大きな力に動かされているような気がした。

『――卵を暖めて欲しいのです』

 孔雀の言葉が脳裏を過ぎった。あの時の燃えるような熱さがお腹の中で暴れ、それが私の活力になっているんだと感じた。
 あの非現実的な邂逅も、今となっては夢か幻かわからない。わからないけれど、私は私の内なる何かに願った。

 ――どうか家に帰り着くまで力を貸して下さい、と。

 その願いは直後あっさりと達せられることとなるけれど。



 更に山を下り続けて数分。私は視界の先にコンクリートの道路を見た。
 緑の自然物ばかりの景色の先に現れた灰色の人工物。人間の生活圏が近い証明。転げ落ちるように斜面を駆け下り、その無骨な地面にしがみつく。
 何か失くし物でも捜すように四つん這いになる私の両目からは、気づけば目からぽろぽろと熱いものが零れ落ちていた。

 直後、私は通りがかった老夫婦の車に保護された。



 麓の交番で住所氏名を聞かれた後は、ちょっとした騒ぎだった。お巡りさんは漫画みたいに目を丸くし、どこかに電話をかけはじめたかと思ったら、私はパトカーに乗せられ、あれよあれよの内に県警本部まで連れて行かれた。
 なんでも、私が誘拐されてから十日近い時間が経過していたらしく。誘拐の件は思っていたより大事になっていて、私の顔写真は全国ニュースにも出たという。
 まさかそんなことになっていたとはつゆも知らず、私はただただ驚愕した。驚きすぎて婦警さんがくれたホットココアを零してしまうくらいには衝撃的だった。
 色々な目撃証言に基づき犯人グループが使っていた車と潜伏していたと思しきバラック小屋は事件発生から四日ほどで特定されたらしいが、中はもぬけの殻で。しかし幾つかの血痕と私の靴が残されていたことから、世間ではもう私が死んだものだと思われていたらしい。
 無事に見つかったとわかったら驚かれるだろうと言われて、私は恥ずかしいやら嬉しいやら複雑な気持ちになった。

 それから両親がやって来るまでの数時間、私は自分がどんな経緯で解放されたのか、犯人グループのその後の動向について知っていることはないのかと、根掘り葉掘り聞かれた。
 両親が来るのにそんな時間がかかった理由は、私が発見された場所にある。
 私が保護されたのは岐阜の山中。社会で習った日本の都道府県を間違って覚えていない限りでは、愛媛と岐阜は相当離れていて、少なくとも隣同士では無かったはずだ。
 そこまで聞いただけなら随分遠くに運ばれてきたんだなあとしか言いようがないが、婦警さんが言うに、私が監禁され、犯人グループが潜伏していたと見られるバラック小屋は高知にあったという。
 愛媛と岐阜、岐阜と高知、高知と愛媛。
 高知と愛媛は同じ四国で隣同士。けれど、高知から岐阜だなんて、随分飛んだじゃないか。
 警察としては消えた犯人グループがどうして私をそんな遠方の山の中に捨てていったか甚だ疑問で、その経緯を知りたい様子だった。
 そんなこと聞かれても、私としては願い続けていたらいつの間にか全てが終わってしまったとしか言いようがないので答えられなかった。
 犯人グループの行方も、何故解放されたのかなんてのも知らない。あの白い孔雀のことも、どうせ信じてもらえないだろうから話さなかった。

 うん、きっと信じてもらえない。
 きっと信じてもらえない、けど。

 犯人グループはきっともう日本のどこを探しても ……いや。地球のどこを探しても見つからない。なんとなくそんな気がした。



 事件の終結、日常への帰還。
 愛媛に帰ってきた私は、「念のための精密検査と心身のケア」という面目で一週間くらい入院させられ、お陰で引っ越しの日取りが少し後ろ倒しになった。その間学校の友達がひっきりなしに尋ねてきて、少し嬉しかった。

 けれど楽しい時間も過ぎ去り。私と家族がここから離れる日がやってくる。
 友達と離れ離れになるのは、やっぱり何回経験しても慣れなかったけれど。でも、お別れの時の心境はいつもよりだいぶ穏やかだったと思う。
 だって、生きているから。また会えるかもしれない。
 凄く嫌な経験を経て、少し楽になった自分がいた。

「いいお知らせがあるんだよ」
 手を振る友達の姿も遠く消え去った頃、一家四人を乗せた引っ越しの車中で父が言った。
「なぁに、お父さん」
 私はドア壁に身体を寄り添わせながら言った。ぼんやりと眺める窓の向こうの景色は目まぐるしく移り変わり、もうそんなに知らない風景を映し出していた。
「次の街に行ったら、もう当分引っ越ししなくていいんだ」
「……本当?」
 父の言葉に、私はドア預けていた上体をむくりと起こした。どうして? 今まで引っ越しばかりしてきたのに?
 ちょっとした疑念と半々くらいの期待の眼差しを向けると、父は言った。
「今まで何度もつらい思いをさせてすまなかったね。言わなくたって、ずっと耐えてきたのは分かっていたよ。……それに答えるのが随分遅くなってしまったけれど」
 ハンドルを握る父の顔は後部座席からは伺いしれない。けれど、バックミラー越しの父には見えているだろう。
 今まさに、飛び出そうなくらいに目を丸くした娘の顔が。

 あの場所で、孔雀は言った。私の「助けてほしい」という願いと、もう一つの切なる願いを叶えると。
 もう一つの願い。――それって、まさか。

 隣に座る弟は早々に寝息をたてている。
 助手席の母は僅かに振り向きながらにっこりと微笑んだ。

「よかったね、眞虚まこ

 眞虚。マコ。音だけ辿れば日本中にありふれた名前。私の名前。

 私の名前、なのだけれど。

 ……なんでだろう。私は昨日も今日も明日も、生まれた時からコトリマコであるはずなのに。
 なんだか何かを奪われてしまったような、何か余計なものを付け足されてしまったような。名前を呼ばれたその瞬間、私は妙な違和感を覚えた。

 自分の中に芽生えた、正体のわからない違和感。小さくも気持ちの悪い疑念。
 内面から湧き上がる不可解なそれを振り払うように、私は車外に目を移した。

 車はやがて本州に繋がる大きな橋を渡る。眼下には濃い藍色が広がっている。
 窓を少しだけ開けると、どこか懐かしいしおの香りが流れ込む。

 ざざん、ざざん。耳に入り込む波の音。
 白い鴎がすいすいと飛び、ニャアニャアと鳴いている。

 ――大丈夫、私は変わらず私。

 誰でもない自分に言い聞かせるようにして、私はそっと窓を閉じた。

(白翼の鳥、虚の卵・完)

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2013.12. 2 小鳥眞虚の話
2018. 7.28 ブログより発掘再掲載、加筆修正