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ロクマルヨンゴー

白翼の鳥、虚の卵 上

 暗い夜にざざん、ざざん。
 海鳴りの音がざざん、ざざん。

 私は真っ黒な海を窓から見ている。灯台の明るい灯火が遠くに見える。海が鳴く。境目を無くした水平線の向こうに船の明かりが見えている。
 いつまで起きているのと母が言う。
 ――「だってお母さん、海が何か言っているのよ」。幼い私が言う。
 だけど母は窓を閉じ、厚手のカーテンを引いて行ってしまう。

 海の音は依然として聞こえている。だけど、黒い海はもう見えない。
 おやすみなさいと呟いて、幼い私は布団に潜る。ほどなく眠気が訪れる。
 私は眠る。眠りの海に沈んでいく。明日になれば、また白い鳥が鳴くだろうか?
 波止場はとばに止まる、あのとぼけた顔の鳥を思いながら、私は眠る。沈んでいく。


 私は、海の見える街に生まれた。



 父母はとある事業をしていて、その都合で私は幼い頃から各地を転々としていた。
 はじめは長崎。生まれてから小学校に上がる前まですんでいた港町。港には大小様々な船が泊まり、波止場にはたくさんのカモメたちが鳴いていた。二つ下の弟が歩き始めてからは、ふたりで鴎を追い回しながら飽きるまで遊んだ。たぶんきっと一番思い出深い街。
 次は広島、そして京都。どちらも一年足らずで引っ越した。友達はできたけれど、すぐに離れ離れになってしまった。携帯電話はあったけれど、まだ今ほど普及していなかった頃の話。大人ですら持っていない人が珍しくなかったのに、ましてや子供が持つだなんて夢のまた夢。住所も電話番号もコロコロ変わる私と彼らとのつながりなんて、存外簡単に切れてしまった。
 その次は沖縄。ここは二年も持った。学校帰りには友達と海に遊びに行った。沖縄の海は故郷の海とは違った色を宿していて、怖いくらい蒼かった。ここでの生活も楽しかったけれど、結局また引っ越した。
 さらにその次は愛媛に来た。長崎を離れて三年後のこと。転校の挨拶も小慣れてきた。また友達ができた。友達ができるのは素直に嬉しい。
 でも私は知っていた。ここでの暮らしもそんなに長く続かないんだって。
 そしてそれは意外と早かった。新しい学校にようやく馴染み始めた矢先、母にその話を聞かされた。

「また引っ越すことになるの」

 寝る前に、何でもない風に切り出された宣告。
 ああ、やっぱり。
 今度は随分早かったなと思いながら、私は首を縦に振った。逆らうことは特にしない。こうなることはわかっていたんだから。
 母は「ありがとう、いい子ね」と撫でてくれる。
 ……違うよ母さん。私はいい子なんじゃない。ただ、慣れてしまっただけなんだよ。
「二週間後には新しい街に越すから、先生や友達にもちゃんと伝えておくのよ」
「……はい、お母さん」

 ――もう、終わってしまうんだ。

 思わず零れ落ちそうな溜息を飲み込んで、私は部屋に戻った。
 二段ベッドの上ですやすやと眠っている弟は、まだそのことを知らない。
 きっと弟は泣いてしまう。こんな夜中にわざわざ泣かせることもないだろうと思って、私は黙って自分のベッドに潜った。
 何かから隠れるように頭からすっぽり布団を被りながら、明日のことを考える。憂鬱だ。先生はともかく、やっとできた友人たちはどんな顔をするだろう。

 振り払うように堅く目をつむる。
 耳奥でざざん、ざざんと、故郷で聞いた海鳴りのような音が聞こえた気がした。



 弟の手を引いて家を出た。

 まだ何も知らされていない弟はのんきなもので、朝の子供番組で取り上げられた新作ゲームの情報に心躍らせている。
「タカちゃんたちと一緒にやりたい!」
 待ち遠しそうに語る弟に、そのゲームが出る頃にはもうこの街にはいないんだよなんて、とてもじゃないけど伝えられなかった。

 学校で。
 先生は急なことに驚いた顔をしたけれどそれだけだ。問題はクラスメートの方だった。私の引っ越し・転校を伝えられた彼らの大騒ぎぶりときたら。

 どこに行っちゃうの?
 何で引っ越しちゃうの?
 どんくらい遠い?

 質問責めにうんざりしながら、今はまだ引っ越すということしかわからないと流していると、一人の女の子が私の腕をぎゅっと握りしめてきた。
 愛媛の学校に来て初めて話した友達だった。
「いっちゃやだあ……」
 震える声で彼女は言った。
 堪えるようにくしゃりと歪んだ顔、目からはぽろぽろと大粒の涙。
 あまり多くはないとはいえ、クラスメートの前で恥も何も捨てて、ほんの一月ほどしか居なかった私の為に泣き出す彼女。

 ずきんと、胸が痛んだ。


 引っ越しまで、あと二週間。
 彼女にもきちんとお礼とお別れをしなくちゃ。

 帰り道、小石を蹴りながら帰る道。
 なんだかとっても憂鬱だ。昨夜なんかよりもずっと憂鬱だった。
 そんな私の心情を映すような曇り空はもっと憂鬱だ。雨雲未満の白灰の雲が、もやもやと渦巻いているだけの空は私の気分を落ち込ませるだけで嫌いだ。

 ――ああ、鳥になりたいなあ。
 ふと、思った。

 渡り鳥は一所にずっとはいないけれど、季節がくれば帰ってくるんだって、言っていたのはテレビだっけ。
 なら、私も鳥になれたのなら。もといた街までひとっ飛びで、いつでもみんなに会いに行けるのだろうか。

 そこまで考えて失笑する。
 馬鹿だなあ私。鳥になんてなれっこないって、今時幼稚園児だって知ってるのに。
 長いこと蹴り続けてきた石を思い切って遠くへとばす。思い切り飛んだ小石は藪の中に入ってしまい、もうどこにあるのかわからない。

「私には、渡り鳥より小鳥より、小石の方がお似合いだよ……」

 独り言。
 だけど、呟きながら涙が出てきた。
 今まで転校してきた学校の子も、もう自分のことなんか忘れて楽しくやってる筈。今度だってそう。藪の中に消えた小石は追いかけない。新しい手近な石を見つけたら、前の石の事なんて忘れてしまう。

 まるで前の石なんて、始めからなかったように。

 私はその場に座り込んで、石の消えた藪の中を泣きながら見ていた。
 わかってる。端から見たらきっと私変な子だ。道の向こうから車のエンジン音が聞こえてくる。そろそろ立たなきゃ、歩き出さなきゃ。

 ごしごしと無理やり涙を拭って立ち上がった、その時。

 ごん、と衝撃。
 頭に鈍い痛みが走る。

 私は何が起こったのか全くわからないまま、その意識を闇の向こうへと沈めた。


 ――ざざん、ざざん。
 どこかで海鳴りの音が聞こえた気がした。