怪事戯話
第三怪・怪談の女王様②

 彼女がいるのは女子トイレ。
 三階の入り口から三番目の個室のドアを、コンコンコンと三回ノック。
 はじめの合図はたった一言。

『花子さん、遊びましょ』


「――と、いうのがメジャーな説ではあるけれど。そもそも"花子さん"の呼び出し方にはこれだ、っていう決まった方法はないのさ」
 "花子さん"に会いに行くため、乙瓜の前をふわふわと浮かびながら廊下を行く火遠は続ける。
「メジャー故にあちこちに伝わる過程でご当地ルールが出来てしまった、というべきかな。ついでに言うなら、この古霊北中がっこうには"三階女子トイレ"というものが存在しない。一階ごとに男子トイレ女子トイレが交互にある、まあ、古くて不親切な造りだからね。つまり花子さんがいるべき場所は存在しないのさ、最初はなから」
「じゃあどこにいるってんだよ。居るんだろ、"花子さん"」
「勿論いるとも、乙瓜。該当する場がないならその条件に一番近い場所に移るしかない。というわけでこの学校の"花子さん"は二階西の女子トイレ。入り口から三番目の個室に居るのさ」
 ――そう、ここにね。
 言って、火遠は女子トイレのドアを開けた。
 乙瓜は一瞬、あれ……そういやこいつ男……と思ったが、面倒なので気にしないことにした。……知らなかったことにしよう。

 二階西女子トイレの中には、都合よく誰もいないようだった。
 年季の入ったコンクリートとタイルに囲まれた、昼でも直射日光の当たらない薄暗くじめじめとした空間に、緩んだ蛇口から滴る水の音がそっと響いている。
 近頃主流の明るく清潔なトイレとは違う。明らかに何かが潜んでいそうな雰囲気。
 平時何気ない気持ちで利用している日常空間が、そう思うだけで瞬時に魔窟に変貌する。

 "花子さん"は、居る。

「さあおいで」
 先に中に入っていた火遠が、入り口で立ち止まる乙瓜を手招きする。
 乙瓜はごくりと唾を飲み込むと、意を決してトイレの中に一歩踏み出した。冷たいタイルに上履きのゴムが乗り、キュッと少し大きめの音を立てる。
 キュッ、キュッ、キュ、と一、二、三歩。
 先頭の個室から一つ、二つ、三つ。三番目の個室の前。
「…………ん?」
 そこで乙瓜はあること――寧ろ今まで何故気付かなかったか不思議であったが――に気付き、首をかしげる。
「……火遠、おかしいぞ」
「ん? 何がだい?」
「このトイレ、鍵閉まってない時は扉が開いてるじゃんか。これじゃノックのしようがねぇ」

 そう、古霊北中のトイレの個室はそのほとんどが和式で、内開きの扉がついている。つまり中に人が入っていない限り、鍵が閉まっていない限り。扉をノックすることは不可能なのだ。
 乙瓜は入学してもう一か月以上経つというのに、この基本的な構造を今の今まで全く失念していた。
 呼び出すためには、ノックが必要。
 どうしてもノックしたいなら、中に誰かひとり入って鍵を閉めなければならない……!

「なあんだ、今気付いたのかい?」
 それを聞いて、火遠は何を今更、といった風に目をぱちくりさせた。そして直後、にまりとほくそ笑むと、ぷぷっと噴き出した。
「……おい馬鹿にしてんのか」
「馬鹿にしてるけど? そもそも、普段使ってるトイレの構造も知らないとは君は本当に女子かい? 本当は男子トイレで用を足してるんじゃないのかい?」
 すました顔でさらりと酷いことを言う火遠。乙瓜は無言で右手を伸ばしそのネクタイを掴みにかかるが、風に舞う花弁のようにするりと避けられてしまう。
「おっと危ない。全く、君は相変わらず粗暴な奴だなぁ」
「……ンの野郎」
「あーあー。汚い汚い。レディってのはもっと綺麗な言葉遣いをするもんだぜ、お嬢ちゃん」
「生憎レディじゃないんでね。……フン、悪かったな」
 乙瓜は舌打ちをしてそっぽを向いた。
 掴みかかろうとしたときに力の限り握りしめていた左の拳を緩やかに開きながら。

「さぁて、ここでこうしてじゃれ合ってても仕方ない。さっさと"花子さん"に会わねばならないからね」
 何事もなかったように、火遠はけろりと話を元に戻した。
「……それでノックできねえって話だったんじゃねぇかよ」
「いや、ノックは出来るさ。出来るとも。……と、いうわけで」
 火遠はすっと乙瓜の背後に回り、がしっと両肩を掴んだ。
「…………は? おい、おまっ、何の真似――」
 抵抗する暇すらなく物凄い力で個室の中に押し込まれる乙瓜。僅かに振り向いた彼女が見たものは、外側から引っ張られて閉じる扉と、いい笑顔・ ・ ・ ・の火遠だった。

「おい!!! 何すんだこの野郎!!!」
 内側から精一杯扉のつまみを引く乙瓜。内開きな分こちらが有利な筈なのに、どういう力で押さえつけているのか、どれ程力を込めて引こうとびくともしなかった。
 その上、「両手が塞がってるんだ。さっさと鍵閉じてくれないかい?」なんて呑気な声が扉越しに聞こえてくる始末。
「断る! それで"花子さん"呼び出すとか怖すぎるだろ馬鹿、出せ!!」
「大丈夫さ、彼女だって鬼じゃないから死にはしないよ。…………多分ね?」
「多分!?」
 だめじゃねーか! 火遠の曖昧な返答を聞いて一層躍起になって扉を引っ張る乙瓜。
 指先を真っ赤にしながらも抵抗する彼女に扉越しに投げられたのは、予想外の言葉だった。

「あーごめん。全然閉じてくれないから俺が勝手に閉めたよ」

「はぁッ!?」
 完全に意表を突かれ、即座に鍵を確認する乙瓜。そこには、閉めた覚えなんて全くないのにしっかりと閉じられた鍵があった……!
 最初は確かに閉じていなかった……と思う。ならば乙瓜は途中から、必死に独り相撲を取っていたことになる。
(――やられた……ッ!)
 まるで初めからそう作られていたかのようにびくとも動かない鍵を掴み、乙瓜は『敗北』を確信し、頭を抱え。そしてタイル張りの床に膝をついた。

「前みたいに空間を閉じたわけじゃないから安心したまえよ。妖力でこう、ちょちょいっとしただけだからさ。さぁて」

 向こう側の火遠が今どんな動作をしているのか、乙瓜にはもう見ていなくてもわかった。
 コン、コン、コン。ノックの音三回。
 僅かな間を置いた後、すぅっと空気を吸い込む音。
 そして。

「はぁなこさんっ、あっそびっましょー!」



「はーぁーいー」
 個室内にいる乙瓜の真上で、空気が震えた。

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