怪事戯話
第一怪・現世に怪事ありて②

 剥がれる。剥離する。剥落する。
 誰も知らない秘密の小戸。密かに貼られていた不可解な紋様を描いた札。
 びりっ、と小さな音を立て。
 切れる。破れる。封が開く。
 封じられていた小戸が今。ぎぃと開いた。

「ありゃ、もうこんな時間か」
 誰かの声に美術室内の殆どの部員が時計を見れば、短針は既に「6」に近く、長針は後数分で「0」を指さんというところにまで回っていた。
 それを確認して、一人の女生徒が立ち上がる。
「下校放送始まっちゃうわね。じゃあそろそろ戸締まりして終わりにしましょうか?」
 三年の首無藍子、現部長だった。しっかり切り揃えられた前髪に三つ編みのお下げ髪に眼鏡を掛けた、いかにも委員長然とした彼女は、後輩にてきぱきと指示を出し片づけと戸締まりを急がせる。
 一年二年の動きのよさ故か、下校を促す校内放送が始まる頃には退室の準備が整った。
 最後に全員一箇所に集まって「お疲れ様でした」の挨拶をして、本日の活動は終了となる。
 次々と退室していく先輩達を見送りつつ、残った一年は最後に戸締まりをして職員室に鍵を返してくる、鍵当番を決めようとしていた。
「鍵当番かー……よぉーっし、今日もまたじゃんけんで決めるか!!」
 遊嬉のノリの良いかけ声と共に全員が自分の前に拳を突き出す。
「さーいしょーはグー!!!」


 カチッ。
 南京錠は小気味良い音を立ててしっかりと噛み合い、美術室の扉を完全に閉じた。
「……戸締まりよしっ、と。さて帰るか」
 結局じゃんけんに負けたと思しき魔鬼が施錠を確認し、扉に背を向けて歩き出した。一人だけその場で待っていた乙瓜もまたそれに続く。
「他のみんなは先にトイレ行ってから駐輪場で待ってるってさ」
「りょーかーい」
 魔鬼はまあいつものことだな、と思いながら職員室までの廊下を進む。この学校に屋内(少なくとも校舎内)での部活が少ないためかもう殆ど人気がなく、照明も落ちて暗い廊下に、二人の足音だけがカツコツと響く。
 保健室の前の角を曲がった辺りで、乙瓜が妙に落ち着かない様子でポケットをまさぐっているのに魔鬼は気付いた。
「ん? どした?」
「え、ん、あー……いや、大したことないんだけどさ」
 乙瓜は尚もポケットの中をこねくり回しつつ(反対側のポケットにも手を突っ込みはじめたようだ)、魔鬼の方を見遣って一言。
「美術室に自転車チャリの鍵忘れてきたかもしんない」
 ――何故かドヤ顔なのが非常に腹立たしい。そう魔鬼は思った。
「それもっと早く言えよ。……しゃーないなぁ、鍵やっから取ってこい」
 魔鬼はあきれ顔で自分が持っていた南京錠の鍵を手渡す。
「かたじけない」
「おう、早く行け」
「そだな、じゃあちょっくら行ってくるわ。二三分待たれよ」
 乙瓜はそう言うと、早足で美術室へと戻っていった。断じて走ったのではない。早足である。なぜなら廊下は走ってはいけないものだからだ。  その背中を見送りながら、魔鬼は近場の壁により掛かった。美術室からそう遠ざかっていないし、どうせそんなに掛からないだろうと思いながらぼんやりと待つことにしたのである。
(烏貝さんって普段結構無口だし未だによくわかんないんだよなー……趣味が似てるのは何となくわかるんだけどさ)
 ――なんて、進学してつい最近知り合ったばかりの同級生について考えを廻らせつつ待つこと十分。
 
「来ねぇ!」
 魔鬼は激怒した。かの同級生の不誠実を取り除かなければならぬと決意した。
 まだかなで二分、遅いなで五分と待ち続けてきた彼女だったが、十分目にして遂に堪忍袋の緒がはち切れたようである。
「一体何分かかってるんだちくしょう!! 文句言ってやる!!!」
 怒り任せに十分前よりやや暗くなった廊下をどしどしと進んでいく。やがて薄暗がりの中から現れる美術室の引き戸を留める南京錠が外れていることを確認し、勢いよく開け放った。
「もおおおおっ! いい加減にして――」
 視界に現れた見慣れた美術室を、窓から射し込む外灯の明かりが仄かに照らしている。
 その幽かな照明の影で、何かがもぞり、と動いたのを、魔鬼の目は見逃さなかった。
「…………え?」
 もぞり。動くもの。動く物。蠢く者。蠢くモノ。何か。何。何モノか。
 それは例えるならミシンのように。針のような何かを只単調に、布地とはほど遠い何かに突き立て続けている。
 ぐりっ。ぐさっ。ずりっ。じゅりっ。ぐちゃ。ぐちゃっ。
 水音によく似た不快な音をたてながら、『ミシン』は『布』を刺し続ける。
 不運にも、暗がりに慣れた目は見てしまった。『ミシン』が一体何なのか。
 不幸にも、暗所に慣れた目は見てしまった。『布』が一体何なのか。

 ――人だ。

 人が人を、刺している。
 針だと思っていたのはカッターナイフで。それを何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も!
 烏貝乙瓜が、ミシンのように。カッターナイフを持って。誰か見知らぬ人を。長い髪を床に投げ出した、見知らぬ誰かの眼窩を。刺し続けていた。
「あ……ああ…………!」
 それに気付いた瞬間、魔鬼は一瞬にして極寒山に着の身着のまま放り投げられたかの如く震えが止まらなくなり。情けない悲鳴をあげてその場にへたり込んでしまった。
 恐怖。そう、恐怖。おそれだ。魔鬼の中には明確で確実な『おそれ』が顕現している。
 怖い。恐い、怖い怖い怖い怖い怖いこわい恐い畏いこわいこわいこわいこわい恐い恐い恐い恐い恐い!!
 手も足も糸の切れた木偶人形の様にさっぱり動かない。魔鬼は恐怖に屈した震え人形と化していた。
 がたがた。がたがた。がたがた!
 震えは魔鬼が手に掛けたままの木戸にも伝わり、大きな音を立て始めた。と、同時にミシンの、乙瓜の動きが止まる。
 見ている。視ている。
 乙瓜の黄土色の双眸が、闇越しに自分を睨んでいることが魔鬼には判った。――下手を打ったら殺される。そう思わせるだけの静かで明確な殺気が、空間を越してひしひしと伝わってくる。殺気に触れた空気は凍り、魔鬼の体感温度を確実に10℃は削った。
「――なんだ、魔鬼か」
 ――られた。
 魔鬼の心臓がどくんと大きく跳ねる。いつも美術室ここで顔を合わせている友人が、……確かに友人の筈の、少なくとも友人の姿をした何者かが。とてつもなく恐ろしいものに感じられた。
(――なんだろう。この気持ち。知っているのに、知らないような。わかるのに、わからないような。……ああそうだ、例えるならこれは……いつもは柵の向こうから見ていたライオンと一緒に、檻の中に入れられてしまったような――)
 闇の中の肉食獣は恐ろしく抑揚のないトーンで話し続ける。
「驚いたよ。まさか、こんなモノがいるなんて。お陰でご覧のありさまだよ。……なあ?」
 いつかは刺し続けていた『誰か』を一瞥し、すっと立ち上がった。
 そして未だ震え、吐き気すらこみ上げている魔鬼の方へ向かい、一歩一歩、狩をする獣のように――
「あ……いやああぁ……」
 逃げようにも動かない体は、まるで蜘蛛の巣に掛かった蝶のようにその場で見苦しく藻掻くことしか出来ない。
 涙目になりながら魔鬼が気付いたときには、既に乙瓜は眼前に――カッターナイフを握ったまま直立していた。
「ところで、
「ひいっ!」
「何か、勘違いして――」
「いっ……やっ……やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
 魔鬼が絶叫した、瞬間だった。
「んー……っててて……」
 動く筈のないものが、声を上げて。むくりと。夢でも幻でもなく現実に、確実に起きあがった。
「――ッは? えっえっ?」
 乙瓜越しにそれを見てしまった魔鬼は、素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。先程まで鉛のようだった体は、案外簡単にその機能を取り戻したようだ。
 動き出した『死体』は、「ったく酷ぇ事しやがるもんだ、近頃のガキは凶暴で困る」などと言って何事も無かったように伸びまで始めると、何故か左目の眼窩に刺さりっぱなしになっていたアートナイフを「痛っ」とか言いながら引き抜いた。
 一方、魔鬼の方はと言うと。
(し、ししし……死体が動いた!!!)
 先程までとは違う混乱の中にいた。至極当然といえば当然のことである。死体だと思っていたものがいきなり動き出したら、普通誰だってビビる。
(いやいやいやいやマテマテマテマテ……。普通人間が目ン弾ぶっさされて刳りぬかれて、その他諸々も刺されたりして……平気なんて事あるわけないだろ常識的に考えて……! あれ? てことはもしかするともしかするともしかしちゃったりするんです? いやでもまさかそんなアニメや漫画みたいな事ポンポンと……でもじゃあ目の前のアレ何よ? CG? 幻覚? つかどちら様。どっから来たの? ワッツハプン?)
 魔鬼は混乱して混線する頭脳でぐちゃぐちゃの考えを極力理解できる方に凝縮しようとし、やがてそれは一つの答えに帰結する。
 ――わかった。あれは本物リアルオバケだ。

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