燃えるように暑い、八月の真ん中のことだった。
その日八歳の誕生日を迎えた住吉るりかは、両親と共に南の海へ出かけた。
ちょうど、るりかがよく遊ぶ友人らも両親の田舎に帰省したり国内外へ旅行に出掛けてしまう時期だったので、彼女はうきうきとして家を出たのだった。
誕生日祝いは海のドライブだった。
小ぶりなクルーザーを借りて、イルカの生息域として有名な離島へ出掛けたのだ。
るりかは幸せだった。
どこまでも続く海。その上をスイスイと飛ぶ海鳥。たまに顔を覗かせるイルカたち。水面近くでキラキラと輝く魚の群れ。
嗅ぎ慣れない潮の香りも、るりかにとっては新鮮で。このまま世界のどこまででも行ける、そんな気持ちにさせてくれた。
しかし、そんな楽しいドライブも長くは続かなかった。
二時間も過ぎた頃、突然海の天候が悪化したのだ。
横降りの雨が槍のように降り注ぎ、海はぐわんぐわんと揺れ。空には閃光が走り、雷が鳴り響く。
陸へ引き返そうとしたクルーザーに、断続的な荒波が襲い掛かった。
操縦士である父親は、免許こそあれど海にそう慣れておらず。小ぶりな船は呆気なく転覆し、るりかと両親は海中へと放り出された。
彼らはどうにか助かろうともがき、クルーザーから放り出された浮き輪を掴む。
しかしそこは陸地から遠く足場もない海の直中。満員の通勤電車よりも荒々しく身体を揺さぶる波に体力を奪われ、父親も母親も足を引かれるように波に飲まれて行く。
るりかも。しばらくの内は消えた父親と母親を呼びながら必死に浮き輪にしがみついていたが、一際大きな波にはじき落とされ。一瞬にして両親同様、黒々とした海の中に引きずり込まれて行った。
海水は幼い少女の身体に重くのしかかり、るりかの手足の自由を即座に奪った。
そして肺の中の空気を乱暴に吐き出させ、呼吸のできない苦しみと絶望を与えたのだ。
(くるしい! いやだ! 助けて、お父さん! お母さん! ……誰か! 嫌ぁ!!)
ほんの少し前までの幸福とは真逆の感情をこれでもかというほど押し付けられ、るりかは意識を失った。
――ああ、海に行きたいなんて言わなければ。意識を失う直前、そう強く思いながら。
彼女はそのまま海中に飲み込まれ、短い生涯に終わりを告げるはずだった。
……しかし。
天はるりかを見放さなかったのか、彼女は生還した。
それは冷酷な自然が見せた一時の気まぐれか。
意識を失った後、うねりに呑まれた彼女の身体は一度海面に浮上したのだ。
そして更に運のいいことに、浮かび上がったその場所付近には、ちょうど大きな船が航行している最中だった。
それは救助の備えのある巡視船だった。
クルーザーの貸し主が、戻らぬ一家を案じて通報していたのだ。
とはいえ発見しやすい地点にるりかが浮上したのは奇跡としか言いようのない出来事だった。
救助されたるりかは速やかに蘇生処置を受け、船内で息を吹き返した。
その瞬間、蘇生に当たっていたクルー全員が「おお」とどよめいた。
無理もない、発見時のるりかは相当な海水を飲んで呼吸もなく、熟練のレスキュー隊員から見ても絶望的な状態だったのだから。
決め手となったのは果たして、蘇生を諦めなかった隊員の意地と矜持か、るりか自身の生命力だったのか。
どちらにせよ、一度ほとんど死にかけていたるりかは再びこの世に舞い戻った。
……舞い戻って、来てしまった。
しばらくして意識を取り戻したるりかは、少しずつ状況を飲み込んで、あの苦しみから抜け出せたことに安堵して。
……そして、それから。目の前の「やさしいおにいさん」に、両親のことを聞いたのだった。
「お父さんとお母さんは、どこにいますか?」
自分がこうしているのだから、当然父親と母親も助かったと思っていたのだ。
だが、「やさしいおにいさん」は悲しそうに顔を歪めて。それからるりかを強く抱きしめて。……彼女の質問については、ついに一言も答えてくれなかった。
――両親はもう戻ってこない。るりかがその事実を受け入れたのは、船を降りて、入院して、連日警察やらマスコミやら役所の職員やらが代わる代わる訪れて。
海からは何もみつからなくて。
帰りを待って。
それでも両親が現れなくて、電話もなくて。
そんな事実を突きつけられ続けて、やっと退院するというその日のことだ。
それまでは慌ただしくて現実感がなかったのだ。非日常感が強すぎたのだ。
けれど退院の当時に迎えに来た「よその車」と「やくしょの人」を見て、彼女はやっと「これが現実なのだ」と認めたのだ。
もしかしたら、二人とも先に家に帰っていて、なに事もなく暮らしていて、自分のことを待っているのかもしれない。
そしてきっと迎えに来てくれるのだ。いなくなってなんかいないのだ。
……そんな淡い希望を打ち砕かれたショックに、るりかは泣くことすらできなかった。
「お父さんとお母さんは、もういないんだ」
ただそう呟いたきり、後はずっと黙るしかなかった。
るりかの両親は互いに天涯孤独のような身で、彼女には祖父母はおろか近しい親類もいなかった。
事故後病院に訪れていた「ふくしのおねえさん」の精一杯の説明に頷いたりしているうちに、いくらかの遺産を相続できることになったが、八歳の子供がそれだけで生きていけるはずもない。
ほどなくして、るりかは施設に引き取られることが決まった。
そして――ほとんどその頃からなのだ。
るりかが他人より多くの人間を見るようになったのは。
街でも、学校でも、部屋の中でも。
他人が認識しているよりもはるかに多くの人間が、るりかには見えるようになっていた。
いいや、回りくどい言い方を廃すなら、それは。きっと。――幽霊、というものなのだろう。
(今日もいる。アユムくんのうしろに三人いる。でもきっと、だれも気づいてない。……言ったら、うそつきになる)
るりかはなにが見えても極力黙っているように努めた。
もちろん初めからそうだったわけではなく、気付いた当初は隠すことなく他者にそのことを話していたが、ある日施設の年長者に言われたのだ。
「構ってもらいたいだけなんでしょ」と。「あんまり嘘ばかりついてると追い出されちゃうからね」と。
施設を追い出される。それは身寄りのないるりかにとっては恐怖そのものだった。
ゆえに、それ以降。学校の友人にも施設の「家族」にも「おかしい」と思われないように、るりかはそうして生きてきた。
「おかしい子」だと思われたら捨てられる。そんなプレッシャーを抱きながら、不可解なものを見て見ぬふりをしてきた。
本当は良くないことが起こる前触れにだって気づいているのに。
「ああいったものが肩に乗るようになったら事故に遭う」だとか、「あんなものに触られたら長くない」だとか、わかっているのに。
もしかしたら助けられるのではとさえ、本心では思うのに。なにも見ないふりをして。
見ないふりをして、だんだん。気にしているけど気にならない、そんな奇妙な認識を、るりかはそれらに抱くようになった。
そうして中学二年の終わりを迎えようとしていた、ある日のことだった。
「あれ、みえてるんだろ。お前さんは目が良さそうだから、興味があったらついてきな」
学校帰りの夕方。まだ人の往来も多い、地方都市の街中で。
器用なことに陸橋の欄干の上で胡坐を組んで座っている、白い髪と独特の髪型、金色に輝く妙な瞳を持つ小柄な女が、るりかにそう話しかけてきた。
その指さす先には、確実に"居る"のに誰にも気にされない、目玉の塊のいもむしのような奇妙な物体がゆらゆらと身体を揺らしている。
「わかるの?」
「わかるとも。"アレ"が"なに"かも知っているさ。お前さんは?」
「しらない」
るりかがそっけなく答えると、女はニヤリと口角を上げ、そして言うのだ。
「自分がなにを見ているか、知ってみたくはないかい?」
誘い。
それが住吉るりかと、丁丙のファーストコンタクトだった。