怪事捜話
第九談・盛暑青海サマーデイ④

 昼も12時を回って益々海岸が盛況する頃、美術部の面々は珠美との約束通り『りくのうえ』へと戻って来た。
 玄関を開けてすぐに食欲をそそる匂いが各人の鼻孔をくすぐり、胃袋を刺激する。
 その匂いの根源であろう台所の方からは、昼のニュースを淡々と読み上げるテレビの音声に混じり、数人が談笑する声が聞こえてくる。
「別の泊り客の人かな?」
 スリッパに履き替えながら何気なく呟く眞虚に、杏虎は「さあ?」と首を傾げる。
「あーそれ、多分昨日から泊ってる人。朝の内出かけてって、お昼に帰って来たんでしょ」
 靴箱にサンダルを仕舞いながらそう答えた遊嬉は、スッと立ち上がると何食わぬ顔で「珠美ちゃんただいまー」と声を張り上げた。
 泊り客が居るとわかっているのに、である。女将を親し気に呼び捨て、である。
 皆がギョッとするのと同時、食堂の出入口にかかった暖簾のれんを掻き分け、珠美がひょっこりと顔を出した。
 あわやお叱りを受けるのでは、と震え上がった遊嬉以外の内心とは裏腹に、珠美は頬の肉を上げ、満面の笑顔になった。
「お帰りなさあい。どうだった、海は?」
 そう迎えた珠美はなんとも上機嫌な様子だった。どうやら本当に怒っては居ないらしい。
 遊嬉はそんな珠美に小走りで歩み寄ると、「ただいまー!」と豪快に抱き付いた。
「めーっちゃ楽しかったぁ! なんかサメとかめっちゃいてさあ~」
「やあねえ遊嬉ちゃん、この辺にサメなんかいませんよう」
 冗談交じりにうふふあははと談笑する二人を見て、立ち尽くしていた面々も漸くほっと一息吐き。遊嬉に送れて食堂へと向かうと、女将に向かって一人一人一礼した。
 珠美はそんな彼女らに優しく微笑みかけ、「さあ」と食堂へ誘う。
 食堂は広めのダイニングキッチンになっており、長方形の食卓が横一列に二台ばかし並べてある。
 隅の角に佇む三角棚の上にはブラウン管のテレビがドンと載り、その傍らには左足を上げた招き猫がちょこんと座っている。横のラックには雑誌や新聞が少々。やや雑然としているが、民宿らしいといえば民宿らしい。
 そんな食堂に、厨房から流れ込む食べ物の匂いが充満している。もう作る側の準備は出来ているのだろう。
 すっかり腹を空かせた美術部一同はさっと三人・三人に別れて手前の食卓に腰を下ろすと、濡れた水着の入った荷物を足元へと置いた。
 ……そして、誰ともなしに、ふっと。何気なく、奥側の食卓に目を遣った。――そう、一瞬忘れかけたが、おそらくそこにいる筈の別の客に向けて。

 ――そしてその姿を認識した瞬間、美術部は一斉に目を剥いた。
 珠美が配膳した夏野菜たっぷりの焼うどんには目もくれず、まず真っ先に乙瓜が叫んだ。

「なんでここに居るんですか!?」

 驚愕の言葉の向けられる先には、一組の男女。
 おそらく夫婦だろうか、男性は40代手前程で、女性はそれより幾らか若く見える。そしてその女性のほうこそが、乙瓜が、そして美術部が揃って目を剥いた原因。
 彼女は何食わぬ顔で焼きうどんを食べており、それだけなら何の変哲も不可解さもないのだが……その口は耳元までぱっくりと裂けており、真横から見ても、先程彼女が口中に頬ったうどんが舌の上で踊っているのがハッキリと見えた。
 それはこの平穏平凡な民宿において明らかに異質な光景だった。正面の男性と女将がまるで気にした様子がないのも、その異様さを助長させている。
 そんな彼女は乙瓜の言葉にくるりと振り向き、口中のモノを一気に飲み込むように水をゴクリと飲むと(口が裂けているのに器用だ)、左手を上げて親し気に振って見せた。
「なんでって、居て悪いって事はないじゃないの、乙瓜ちゃん」
 言って彼女は、"口裂け女"・狩口梢は、隠す事無い大きな口でニィーっと笑った。
「ふうん、美術部みんなで夏の小旅行ってところぉ?」  狩口は美術部一同をしげしげと眺めてニヤニヤとした。彼女らの様子と持ち物から先刻まではしゃいできたのだと察したのだろう。
 そんな狩口の様子に、乙瓜と魔鬼はちょっぴりはにかんだように笑った。遊嬉と杏虎は事もなげに手を振り返し、それぞれの言葉で肯定した。
「そんなかんじでーす」
「そんなかんじっすねー。狩口さんは何旅行ー?」
「ちょっとした取材旅行よお。昨日から旦那と一緒にね~」
 続け様に問いかけた遊嬉に、狩口はそう答え、向かいに座る男性を手で示した。
 そこに来て漸く、蚊帳の外だった男性は美術部の方へ体を向けた。
「いやあどうもどうも、いつもうちの者がお世話になっとります」
 どこか気恥ずかしそうに会釈をし、「狩口のぼる」と彼は名乗った。魔鬼はその名を聞いて、そういえば狩口家の表札にその名があったことを思い出した。
(なるほどこの人が旦那さん)
 狩口が過去に言った通り、狩口旦那の方は普通の人間であるようだった。
 中肉中背、目元に僅かに年齢が浮かんでいるものの、髪はまだ若々しい黒で、小奇麗に整えてある。どこにでも居そうな働き盛りの男性だ。
(それはそれでちょっと怪しくもあるんだけどな……。まあ、狩口さんのこと疑う理由もないけど)
 そう思い、魔鬼はふっと乙瓜を見た。彼女は魔鬼の視線にその心中を察したのか、奥のテーブルまでは聞こえない程度の小声で呟いた。
「いや、登さんは人間。本当に本当」
「お、おう……」
 自分よりは狩口との付き合いの長い乙瓜が言うのだからそうなのだろう。
 魔鬼は自分にそう言い聞かせ、しかしそれならそれで本当にどういう馴れ初めなんだとか、別の事が色々と気になってきて仕方なかった。
 そんな魔鬼の対面側では、深世が一心不乱に焼うどんを食べている。
 恐らくこのメンバーの中で初めて狩口を見たであろう彼女は、初対面にしていきなりその素顔を拝んでしまった事を自分の中で有耶無耶にしようとしているらしかった。
 その向かって右隣では眞虚が珠美と談笑していた。
「それにしたって最近の特殊メークは凄いわねえ」と、どうやら驚かなかったのは作り物だと思い込んでいたかららしい女将の発言に、眞虚が上手い事調子を合わせているようだった。
「ねえねえ、あの人女優さん? ホラー映画か何かのプロモーションかしらねえ? サインとか貰えると思う? おばさん有名人のサインとか一遍飾ってみたかったのよ~」
「うーん、とりあえず頼めばサイン貰えると思いますよ。あはは……」
 苦笑いしている眞虚を見て、魔鬼は今度は左隣へと視線を移す。そこに座る杏虎は向かいの遊嬉と共に体の向きを変え、食事をしながら狩口夫妻と他愛もない世間話を続けている様子だ。
 魔鬼はその会話の中で二人の馴れ初めに触れてくれやしないものかと期待するが、一向にそのような流れにならないので、仕方なく――というか単に空腹を思い出し、漸く焼うどんに箸を付けた。

 ちょっぴり冷めはじめた焼うどんは、しかし褪せることなく美味しかった。



 昼食を終えた美術部の面々は早速食後の後片付けと清掃を手伝った。
 加えて午後からのチェックイン予定が二組ほど入っているからと、客室や布団の確認に風呂の準備等を手分けしてこなしている内に、陽もすっかり傾き始めた。
 夏の昼は長いもので、斜陽が窓越しに主張するようになる頃にはすっかり5時も半を回っている。まだ辺りは明るいが、少しずつ鳴き始めたヒグラシが、一日の終わりが近い事を告げているのだった。
「……結局午後丸々働いたーって感じ」
 客室の畳の上に大の字に寝転がった遊嬉が、すっかりくたびれた調子でそう吐いた。同室内では杏虎、深世、魔鬼、乙瓜もまたぐでんと横になっており、事前に言い渡されていた「手伝い」の内容が思いの外重労働であったことを物語っている。
 しかしそれも致し方ない。掃除など普段からやっているから余裕と高を括っていた彼女らを待っていたのは、客商売故の厳しいチェックとリテイク。女将さんの「あそこもちゃんと綺麗にしてね」の駄目出しが出る度に、皆頭を抱えた。
 無論それだけなら夕刻までたっぷりと時間を使う事も無い。だが、大旅館に及ばずとも快適に利用して貰う為の細やかな確認なのだろう。
『布団はちゃんと人数分あって清潔な状態であるか』だとか、『部屋のテレビに不調はないか』だとか、珠美女将の矜持を掛けたチェックに付き合った末、やっと解放されたのがこの時間というわけだ。
「女将さん、普段からこれ全部一人でやってんのかな……」
「知らんよう、普段の事は流石に」
 深世の呟きに遊嬉が答える。続けて「家族で来た時は別にここまでしなかった」と愚痴る遊嬉に、「一人サボってる間に家族が相応の手伝いしてたんだよ」と杏虎が言う。全くの正論であった。
 その正論に頬を膨らませ、遊嬉は「ちがうし」ぼやいた。だが、そこから新たな愚痴を吐くでもなく、ちょっぴり考え込むように押し黙ってから、ポツリと呟いた。
「やっぱ珠美ちゃんムリしてんのかな……三人でやってたところを一人で続けるのはさー」
「えっ、なにそれは?」
 意味深な呟きに反応し、深世がふっと顔を上げる。杏虎も魔鬼も興味ありげな表情だ。そんな中で一人、乙瓜だけは何かを思い出したようにこう言った。
「――ああ、旦那さんが行方不明なんだっけ?」
「そうそれー」
「いやいや! 『そうそれー』じゃなくて! なに!? 乙瓜は知ってんの!? ていうか知らないのは私だけのパターンですかッ!?」
 跳び起きてわめき出した深世に対し、魔鬼・杏虎の「チガウヨー」の言葉がゆるりと刺さる。
「つかあたしも知らないし? 折角人揃ってるんだから話してみー?」
 寝転がったまま言う杏虎に同調し、魔鬼もコクコクと頷いている。乙瓜も「俺も詳しい事は聞いてないぞ」と、皆して遊嬉に話を迫った。
 四方からせがまれる形になった遊嬉はほんのりと面倒そうな表情を浮かべた後、思い切ったように起き上り、事の仔細を語りはじめた。

 民宿『りくのうえ』は、一年前まで陸野上りくのうえ珠美とその夫・陸野上照一しょういち、そしてその母の三人によって経営されていた。
 小さな宿故に三人でも回していけていたし、仕事にも大分余裕があった。その余裕のある時間で、照一はすぐそこの海岸でライフセーバーをしていた。
 まだ宿を継ぐも継がぬも決めていない頃から活動していたよしみ故か、このような「二足の草鞋わらじ」を履くことが許されていたようだった。
 そんな照一は去年の8月盆、前日の大雨で増水した川に溺れる子供を見つけた。
 その時は買い出しの帰りであったが、仕事柄の正義感故か、それとも大人の義務感故か――兎に角迷わず河へと飛び込んで行ったと、目撃者は証言している。
 その勇気ある行動故か、子供は無事に助かった。しかし照一の方は急流に流され、――そのまま帰ってくることは無かった。
 死んだかどうかは――まだ分かっていない。飛び込んだ場所から河口・河口付近の海に至るまで大規模な捜索がなされたが、彼らしき人は今日に至るまで保護も発見もされていない。
 最後に目撃された瞬間に続く絶望的な状況から生存は望み薄であり、多くの人々はもう死んでいるだろうと思っているが、書類の上ではまだ『行方不明』なのである。――そう、間もなく訪れる8月のその日までは。
 ……少なくとも、この国の制度上では。死亡したと思しき危難に遭遇したが生死不明の場合、一年間は「死亡」ではなく「失踪」として扱われるのである。

 照一の『行方不明』を受け、照一の母・大女将はすっかり具合を悪くしてしまい、今は民宿の仕事を休んで養生している。
 珠美は気丈に振舞うものの、その儚い笑顔の裏に計り知れない悲しみが隠れている事は明白だった。
 そんな中、今回の『バイト』の話が上がった。
 どうやらその話は他ならぬ珠美自身が持ち出してきたもので、親族は皆「やはり寂しいのだな」と受け取り、来られそうな者を送ると約束したのだという。
 その結果一番近場で暇そうな遊嬉が釣れ、遊嬉の口車に乗せられて美術部皆が釣れた、というのが今回のあらましらしい。

「まー、そんなわけだからあたしらは基本楽しそーに、テンション上げてやってくのが主目的だからー。そこんとこたのみますぜ~」
 話を締め括った遊嬉に、皆神妙な顔で頷いた。と、その直後。思い出したように魔鬼が言った。
「あ。そういや眞虚ちゃんは?」と。
 その言葉に遊嬉は「知らんかった?」と瞬きし、海の見える窓外に視線を遣ってこう答えた。

「珠美ちゃんと夕食の買い出しに出かけたけど」



 ――一方その頃、珠美と眞虚は人気の薄れた夕の海岸を見下ろす防潮堤上の道を歩いていた。
 女将はパンパンに膨れた買い物袋をその細腕に提げているが、最早日常であるからか、苦もない様子で宿への道を歩いていく。
 そのペースは片道20分はあるスーパーからこの方衰える事なく、宿に近づいた今となっては「いいのよいいのよ」と軽い荷物を任された眞虚の方が一歩後ろに付いていくくらいだ。
「女将さん健脚ですねえ」
 すっかり感心する眞虚をチラと振り返り、「そうかしら?」と珠美は微笑む。
「全然そんな事思った事なかったわ。まあ、ありがとうねえ」
「いいえいいえ。……私なんかはすっかり疲れちゃって。やっぱり、一人でお仕事となると体力も違いますね」
「あらやだそんなことないわよ~、私ったら普段は宿のなかに籠りっきりのひきこもりですもの。……だからその分歩きたいのかもね、私は」
 クスリと笑うと、珠美はゆっくりと立ち止った。そっと荷物を道に下ろし、防潮堤の手摺に手を掛ける。
「海もすっかり夕焼け色ねー」
 一息吐くようにそう漏らした彼女に釣られ、眞虚もまた立ち止って海を見る。
「綺麗ですねえ」と返す眞虚に「そうでしょう?」と珠美は頷く。
「おばさんこの景色好きよう。生まれも育ちもずーっとこの街で、ずーっとこの夕焼けの海を見てきた。夏の長い夕焼け。青かった昼の海が、オレンジに、赤紫に変わって行って、そして陽が沈む。それまでの時間が本当に好きなのよね」
 薫る潮風に髪を揺らす珠美は、しかし海よりもずっと遠くを見つめる様な目でそう言った。
 眞虚はそんな珠美の横顔を見て、もう一度海へ目を遣った。
「少し……わかります。私も……生まれは港町ですから」
「あらあ。それじゃあ親近感湧くわねえ~」
 子供のような歓声を上げ、珠美は眞虚に笑いかけた。眞虚もその笑顔に微笑み返した。

 だから、眞虚は気づかなかった。珠美がその時本当は何を見つめていたのか。何を考え、何を望んでいたのか。
 ――否、気付けと言うのも無理だろう。何故なら女将は隠していた。何故親族に会いに来てほしかったのか、その理由も目的も。

 ざざん、ざざんと海が鳴る。きらめく波が赤く光る。
 その赤い波の下、深い深い水の底で何かがうごめく。

 その何かは、待っていた。待っていて……そして。
 ――その何かは、さがしていた。

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