怪事捜話
第四談・現代奇談ナイトメア⑥

 夜の狩猟動物の如く眼光を燃やす狩口を見て、ひきこさんは――否。森谷もりたに燈見子ひみこは眉間に皺を寄せた。



 森谷燈見子は、生まれつき"ひきこさん"と呼ばれ忌避されるような存在だったわけではない。
 親戚であり"口裂け女"である狩口梢にも言えることであるが、彼女たちは元々普通の人間だった・・・・・・・・・・
 口も裂けていなければ、人間離れした力や俊敏さを持ち合わせていたわけでもない、世界中のどこにでも居るごくごく普通の人間だった――筈なのだが、ある時期を境に彼女たちは人間の枠からはみ出してしまった。
 一体何が原因で、何が要因したのか。それは未だ本人達にも解っていない。しかし、おぞましい容姿に変わり常人凌駕する力を持つようになった彼女たちは、いつしか怪人物として語られるようになった。
 そして全国的に噂される都市伝説の中の、半ば妖怪に近い存在としてカテゴライズされるようになったのである。
 狩口梢は当時日本中を恐怖させていた"口裂け女"の名で呼ばれるようになり、いつしかその伝説の内容に従って行動するようになっていった。
 燈見子は、はじめこそ自らの容姿と力を畏れて引き籠もっていたものの、やがて"ひきこさん"の噂に誘われるように夜の街へ飛び出し、夜の帷が下りた後も気にせず遊び回っているような悪ガキ達を襲撃するようになっていった。
 しかし恐怖の都市伝説の流行は一年もしない間に終焉を迎え、ちまたを騒がせた恐怖の存在は人々の記憶から忘れ去られて行った。
 得体の知れない噂話の怪物は表舞台から去り、世間の関心はまた別なものに向けられるようになった。
 人間の方が余程残虐だとしか云いようのない事件は何度も起こったが、物騒だと騒ぎ立てる世間に対し、狩口梢は平穏な生活を取り戻していた。
 皮肉なことだが、一度怪物として開き直ってしまった経験から、人々から向けられる好奇の視線に大してある程度の耐性ができていたのである。
 出来るだけ目立たないように生活し、何となく"口裂け女"として暴れ回っていた頃の経験を元に物語を綴る内に小説家としてデビューし、結婚し。彼女は少しだけ人と変わっているだけの"普通の主婦"になった。
 一方で、森谷燈見子はすっかり活力を失ってしまい、再び家の中に引き籠もるようになった。
 はとこの狩口とは違い、怪物としての役割も奪われた彼女には全てを割り切って生きていける自身がなかったのだ。
 只々無為な毎日が流れた。
 幸か不幸か、現在の姿になって以来彼女には食事も睡眠も必要なく、代謝も生理も起こらなかった。その為、文字通り一歩も部屋から出ずに過ごすことが可能だった。
 そうして何をするでもなく、ただぼんやりとそこに居るだけの生活が続いた。
 否、それはもはや生活とも云えず、燈見子は物言わぬ置物も同然だった。
 年老いた両親はそんな風になってしまった娘を哀れみ、幾度となく食事を摂らせようと試みたり伝手のある医者に診せたりしたが、一向に善くなることはなかった。
 やがて両親は全てを諦め、人里から離れた森の土地を買って小さな家を作った。
 彼らは二階建てだが妙にこぢんまりとしたその家に燈見子を移すと、それっきり二度と訪れることはなかった。……彼らは娘を見捨てたのだ。
 両親に見放され孤独となった燈見子だったが、しかし彼女は幸せだった。
 ――もう醜い姿を誰の前に晒すこともない。もう誰も苦しめることもない。そう思うと、不思議と心安らかな気持ちになった。
 燈見子は眠りについた。もう"ひきこさん"として暴れる必要もなければ、森谷燈見子として苦悩する必要もない。
 このままこの見捨てられた場所で朽ち果てるまで眠るのだと、彼女はそう思っていた。

 だが。そんな彼女の平穏を脅かすものが現れた。

『町の外れにお化け屋敷がある』
 子供達の間でそんな噂が立つようになったのがつい最近の事。
 ――お化け屋敷。そう、それは紛れもなく燈見子の家のことである。
 森の中で長年誰にも手入れされることなく背の高い雑草に囲まれ、外壁を蔦や葛などの蔓植物に覆われた燈見子の家は、何も知らぬ者から見れば廃墟同然であり、子供達の探求心をくすぐる外見に変貌していた。
 そして去る日曜日。噂を聞きつけて終結した近所の悪ガキたちが燈見子の家に集結し、窓を破って家の中に侵入したのである。
 ずっと眠り続けていた燈見子は、硝子ガラスの割れる音で久方ぶりにその目を覚ました。
 階下から聞こえる複数の子供達の声に、すぐさま自らの居城が荒らされているのだと把握した。
 それをった瞬間、もうこのまま朽ちるように死んでいこうと思っていた彼女の中にどす黒い感情が吹き上がった。
 もう何年も何年も忘れていた感情だった。
 そう、それは遠い昔、自らが"ひきこさん"と呼ばれ恐れられていた時代にずっと胸中にあったもの。

 ――殺意。全てを失った自分と対照的に全てを持っている子供達への羨望、怒り、憎悪。

 すっかり消え去ったものとばかり思っていた感情が次から次へと泉の如く吹き出し、遂に"ひきこさん"は目覚めてしまった。

 それが今回の怪事のきっかけであり、全てだった。
 "ひきこさん"として目覚めた燈見子は、先ず自宅に侵入した悪ガキ共を片っ端から引きずり回し、血祭りに上げた。
 だが彼女の中の感情は収まるどころか益々強まり、まるで街灯に誘われる蛾の如く、彼女は夜の町内へ姿を現すになったのだ。

 そんな彼女の前には今、もう何年も会っていなかった親族が立ち塞がる。
 狩口梢。"口裂け女"。燈見子と殆ど同じ境遇でありながら、正反対の人生を送った女。
「い、今更、何よッッ!!」
 自分に無いものを持っている狩口を睨み付け、燈見子はどこかぎこちなく叫んだ。
 狩口はそんな彼女に涼しい視線を送り、その場から静かに一歩を踏み出した。
「今更? それはこっちの台詞じゃない。燈見子ちゃんこそ今更何をしてるの? もう長いこと引き籠もったままだって聞いてたんだけど」
「……こ、梢さんには、関係な、ないでしょう!?」
 ゆっくりと距離を縮めてくる狩口に、ジリと後退する燈見子。すっかり身内だけの世界に入った二人を見て、眞虚が困ったように呟く。

「えっと、これはどういうこと、かな……?」
 答えを求めるように視線を送る彼女に対し、魔鬼は首を横に振った。
「手を出さない方がいいよ……都市伝説大戦に巻き込まれたく無かったらね……」
 神妙な様子で告げる魔鬼に、眞虚たち三人はそっと身を引いた。
 魔鬼と乙瓜はそんな彼女らに駆け寄り、改めて全員に怪我が無いことを確認した後、眞虚の腕の中に居る少年を見て顔をしかめた。
「こいつぁひでぇな……早いところ救急車なり何なり呼ばないと――」
 言いながらケータイを探すようにポケットをまさぐる乙瓜の肩を、誰かの手がポンポンと叩く。乙瓜が顔を上げるより早く「大丈夫だよ」と囁く声は、他でもない眞虚のものだった。
「大丈夫って、何でそんな事が言えるんだ?」
 顔を上げ、訝しげに問う乙瓜に対し、眞虚は真剣な表情で答えた。
「ひきこさんが居るんだよ、今この場に救急車を呼ぶわけにもいかないでしょう? ……だからここは一旦私に任せて」
 眞虚はそう言って僅かに微笑み、胸の前で両手を組んだ。まるで神に祈るようなポーズで跪くと、眞虚は小さな声でそれを唱えだした。
「我希う、封滅の札三十一枚、封壊の札二十五枚、来たれ」
 短い言葉を紡ぎ終わると同時、眞虚の周囲が眩く発光し、その光の中から複数の護符が姿を現した。
 神秘的な七色に輝くその札に向かい、眞虚は更に祈りを捧げた。

「癒し給え、治し給え。回復結界・虹郷こうぎょう

 静かな宣誓と同時、現れた札達は少年の傷ついた体を覆いはじめた。
 まるで包帯か膏薬のように、傷の深い部分に次々と張り付いて行く。そんな奇妙な光景を見て、眞虚以外の美術部達は皆呆気に取られていた。
 しかし眞虚はあくまで冷静な様子で最後の札が少年に貼り付くのを見届けると、より一層強く念じるように目を瞑った。
 札たちはそんな眞虚の姿に呼応するように強く強く輝いた後、燃え尽きるようにその身を塵へと変えた。
 札に覆われていた少年が再び姿を現す。しかし、数秒前とは打ってかわり、その肌には傷一つ付いていなかった。
 それを目の当たりにした部員達の顔が驚愕に染まる。
「うっそ、さっきまであんなに傷だらけだったのに……! 眞虚ちゃんこういうことも出来るのっ?」
 一際驚いた様子で目を剥く遊嬉に、眞虚はコクリと頷いた。
「うん。元は物体の崩壊を防ぐ護符なんだけど、最近傷の治療もできる事に気付いたの」
「へーーーっ、すごいじゃん!」
 感心したように息を漏らす遊嬉に、眞虚は「そんなに凄くはないんだけどね」と、控えめに付け加えた。
「あんまり重傷過ぎると治らないみたい。骨とか内臓とか、あと病気とかはちょっと無理かな」
「いやいや、でも十分すごいってこれェ。RPGの僧侶みたいじゃん。いいなー」
 羨ましそうに頬に手を当てる遊嬉に杏虎もうんうんと頷いた。
 その瞬間だった。公園の中心からまるで事故でもあったかのような轟音が響いたのは。

 再び顔を上げた美術部達の前で、それは既に始まっていた。

 "ひきこさん"の前で拳を振り下ろした体勢の"口裂け女"、そして頬を抑えてよろめく"ひきこさん"。
「遂におっぱじまったか!!」
 乙瓜が興奮気味に叫ぶ。何故か少し嬉しそうなのは置いておくとして、状況はまさに彼女が言った通りだった。
 美術部達が目にしたのは、狩口が燈見子に対し強烈な右ストレートを叩き込んだ直後の光景だったのだ。


 眞虚が少年の傷を癒す間の事である。
 狩口は燈見子の真ん前に辿り着き、行く手を阻むように仁王立ちすると、威圧するような眼光で燈見子を見下ろした。
「さて、一体どういうつもりなのかしら? ……おばちゃん相談に乗るって言ったわよねぇ? だのにこんな所で、しかもまた人を引きずって。……何考えてるの?」
「そ、そんなこと言った、言ったって! 梢さんには、わ、分からないわよっ!」
「そーりゃ知るわけないじゃないの。燈見子ちゃん、おばちゃんになーんも話してくれないもの」
「だったら、……ほ、放っておいて、頂戴よっ!?」
 自分のことは放っておいて欲しい、そういう意図の言葉を燈見子が吐いた、次の瞬間だった。

 まるで交通事故でもあったかのような、自動車同士が激突したかのような凄まじい音が、辺り一面に鳴り響いた。
 同時に燈見子の頬にとんでもない衝撃が走る。
 何と形容したら良いか定かではないが、燈見子はそれを鋼鉄の丸太で殴り飛ばされたようだと思った。
 それは常人ならば軽く公園の敷地外まで吹き飛ばされかねない威力だったが、燈見子は咄嗟に足を踏みしめその場に留まる。
 そして頬の衝撃が顔面を通りからだ全体を駆け抜けた頃になってやっと、自分が狩口に殴られたのだと気付いた。
 だが、状況の把握に脳内の理解が追いつかず、燈見子はしばし呆然としていた。美術部が目にしたのは丁度この瞬間であったのだ。
 目を白黒させるばかりの燈見子に対し、狩口は声を張り上げた。
「あんたねえ! そんな事言って自分が何やってるかわかってんの!? 確かに私もあんたも昔は暴れまくったけど、あの時のあんたは今ほど見境なくはなかったでしょう!?」
 親が子を叱りつける時のように言う狩口を見て、燈見子は無意識に唇を噛んでいた。
 眼光は自然と鋭くなり、狩口の金色の瞳を睨み返す。
 ――何もしてくれなかった癖に。燈見子の中にはそんな思いが渦巻いていた。
(何もしてくれなかった癖に。自分だけ幸せになって、今更現れて、身内面して。……お節介焼きめ。そう言うのが鬱陶しいから、放っておいて欲しいのに……!)
 狩口の登場で一瞬消えかけた黒い感情が再び燈見子の中に満ちてゆく。恨めしい、羨ましい、悔しい、悔しい、悔しい――死ね。
 ぐるぐると渦巻く呪詛のような思念に身を委ね、燈見子は獣のような雄叫びを上げた。

 燈見子の雰囲気が変わった。それは遠巻きに見守る美術部にもはっきりと分かった。
「……てかアレ、やばくない?」
 杏虎が指さす先で、"ひきこさん"は糸の切れた繰り人形のように姿勢を落とす。
 倒れたのではない。体勢を低くして唸っているのだ。さながら威嚇する肉食獣の様に。
「なんだか……急に様子が変わったような」
 困惑気味に眞虚が呟く。と同時に、彼女の隣に気配が生じた。
「成る程、君も良い勘をしてるじゃあないか」
 気配はそう言うとクツクツと笑った。それは水祢の声ではない。だが聞き覚えのある声を相手に、眞虚は振り向きもせずに答えた。
「火遠くん」
「ああ。そうとも」
 火遠は眞虚を一瞥してにやりと口元を緩めた。
 さも当たり前のように登場した彼を見て、乙瓜はゲッと顔をしかめた。
「お前今まで何処に行ってたんだよ」
「何処だっていいじゃないか、何処だって」
「よくねえよ。肝心なときにいっつも居ないじゃねーかお前」
 言って如何にも不機嫌そうな視線を向ける乙瓜に、火遠は「そうかな」ととぼけてみせた。
 乙瓜はそんな火遠の態度にはぁと溜息を吐くと、徐に前髪を掻き上げた。
「……で、ひきこさんの様子が変わったのは何でなんだ。お前何か知ってるから出てきたんだろ?」
「勿論だとも」
 火遠はフフンと鼻を鳴らし、こう続けた。
「あれは大霊道の影響さ。先ず間違いない。まさか封印に手間取っている間にこうも影響するようになるとはね」
「大霊道のォ!? あれが?」
 魔鬼が横から素っ頓狂な声を上げる。火遠はコクリと頷くと、次のように話し始めた。
「大霊道は黄泉に通ずる異界の門。解放したまま放置しておけば常に障気が垂れ流し、現世で大人しくしていた幽霊・妖怪にも影響を及ぼす。最初に言わなかったかい? 去年、あの晩」
 火遠の言葉に「そんなこと言われたっけ?」と同時に首を捻る乙瓜と魔鬼ふたりを見て、火遠はやれやれと肩を竦めた。
「――まあ兎に角だ。あのひきこさんは今まさに大霊道の障気の影響下にある。このまま放置しておけば理性も何も吹っ飛んで、もう怪談の内容お構いなしに昼夜問わず人を襲う怪物になってしまうだろうね?」
「そんな、どうしたらッ……! 何とか助ける方法は無いの!?」
 さらりと言う火遠に、眞虚が真っ先に反応を示した。
 元来心優しい気質の彼女は"ひきこさん"を敵として見ていたときの勇ましさから打ってかわり、今にも泣き出しそうな顔で火遠に訴える。
「助ける方法ねえ……。というか君たち、ひきこさんを助けてどうするつもりさ?」
 戦って倒す気満々だったじゃないか、と火遠は言う。
 その言葉に眞虚は思わず顔を俯かせるも、一瞬の後顔を上げ、きっぱりとこう言い放った。

「助けて駄目だったかどうかは助けてから決める! だって私ひきこさんのこと何も知らない! 本当はいい人かも知れない! 悪い人かもしれないけれど、それもまだわからないからッッ!」

 眞虚のその発言に美術部の誰もが目を丸くしていた。しかし火遠だけは、日和見でなく確固とした決意を宿した彼女の目を見て嬉しそうに目を細めた。
「随分と言うじゃないか。……乙瓜、君も見習いなよ?」
「うっせぇ」
 にんまりと笑って振り返る火遠に、乙瓜は口を尖らせた。
 火遠はそんな乙瓜の様子を見てクスクスと笑い、それから眞虚に向き直ってこう告げた。

「いいだろう。ひきこさんを助け出す、たった一つの方法を教えようじゃあないか」

HOME