――同じ頃、遊嬉サイドでは。
ガサガサと大きく音を立てる茂みを凝視し、遊嬉は右手を左腰に回した。
まるで武士が刀に手を掛けるような姿勢。しかし無論、現代の女子中学生である彼女の腰には刀など携わっていない。
だが、遊嬉は知っている。今は目に見えなくとも、形が分からなくとも。己の意思に応じていつでも呼び出すことの出来る刃があることを知っている。
退魔宝具・崩魔刀。その見えざる柄に手を伸ばして、遊嬉は視界の先に広がる闇を睨みつける。
ここは只でさえ寂しげな田舎の細道、民家も街灯も云10メートル置きにしか存在せず、日没後ともなれば殆ど誰も通りたがらない場所だ。
……その上"ひきこさん"の噂もある。未だ野山に入って遊ぶ子供達が健在の古霊町ではあるが、件の噂は彼等に帰路を急がせ、すっかり日が暮れる頃になると子供達の姿は町のどこからも消えて無くなっていた。
故に、遊嬉は思った。いいや、きっと遊嬉でなくてもそう思っただろう。
……こんな状況で、こんな藪の中から出てくるモノなんて。野生動物である可能性も高いが、もしそれが人型であったのなら――。
(……これがひきこさんだったとして。もし噂通りなら、とんでもない怪力の持ち主の筈。出合い頭に斬るしかない……!)
まるで辻斬りのような事を考えながら更に眼光を鋭くする遊嬉。対象の姿が見え次第いつでも飛びかかれる肉食獣のように身構える。
そしていよいよ茂みの奥から何者かが姿を現し、遊嬉が刀を喚び出そうとした瞬間。彼女の視界を一本の腕が遮った。それは嶽木の腕だった。
「ちょ、ちょっと! 何すんのさ!?」
突然の事に驚く遊嬉に対し、嶽木は静かに口を開いた。
「――下げて
そう言って嶽木が退かした腕の先、再び広がる視界の向こうには、遊嬉の予想とは全く違う人物がその姿を現していた。
「……お前ら何やってんだ?」
ぽかんとした調子で言うその人物の声に、遊嬉は聞き覚えがあった。
声だけではない、その服装、髪型、顔、どこを取っても遊嬉の見知らぬところの無い人物がそこに居た。
しかし、てっきりひきこさんが来るものだと思っていた遊嬉は意外な人物の登場に驚き、思わず指さしながら叫んでしまう。
「乙瓜ちゃん!?」
「……? お、おう。そうだけど」
遊嬉の指さすその先には、狐につままれたような表情の乙瓜が立っている。
その服や髪の毛には大量の葉っぱや"ひっつき虫"の類をくっつけており、ずっと道なき道を歩いてきた事が窺える。
彼女の背後には小奇麗な恰好のままの火遠がふわりと浮かんでおり、嶽木を見て「やあ姉さん」と軽く手を振るのだった。
とりあえず現れたのがひきこさんでないことがわかったため、遊嬉はふぅと息を吐くと乙瓜らに歩み寄った。
「はーー。いきなりそんな所から現れて一体どうしたのさ。ひきこさんかと思って超びびったじゃんかー。もー。……てかさー、乙瓜ちゃんたちもっと北の方見てなかったっけ?」
「いやすまん。なんていうか……、ちょっとコイツ捕まえるのに手間取ってな」
「コイツぅ?」
不審そうに顔をしかめる遊嬉の前で乙瓜はスカートのポケットをまさぐると、とてもポケットの広さと見合わない大きさの何かを取り出した。
腕人形くらいの大きさがあるその黒い物体は、魔鬼の使い魔だった。
しかしそれを知らない遊嬉は使い魔を見るなり新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせ、何の気なしにその頬をひっぱりはじめた。
「えーーーーなにこれやっわらかーーーい!?」
「ぼっさー……」
「うわぁ鳴いた! へーー、何この人形よくできてるね?」
遊嬉は興奮気味に言うと乙瓜の手から使い魔を奪い去り、今度は全身をこねくり回しはじめた。どうやら使い魔のビーズクッションの如き手触りが気に入ったようだ。
「いや遊嬉、これ人形じゃ……」
話が進まないことを危惧した乙瓜がそう呼びかけるが、当の遊嬉から返ってきた返答は「かぅわいいー」という、全く話を聞いていない感想であり、乙瓜はがくりと肩を落とした。
「……駄目だ聞いちゃいねえ」
「やり方が悪いのさ」
困り果てた乙瓜を見て、火遠は小馬鹿にしたようにそう言った。
それを聞いて乙瓜はムッと唇と尖らせ、「じゃあお前やってみろよ」と売り言葉に買い言葉で返した。
火遠はそんな返答を受けて予想通りと言わんばかりに含み笑いするとスッと遊嬉に近寄り、その手の中で玩
「あー……なにすんのさー」
遊嬉は必然的に残念そうな声を上げて頬を膨らました。
火遠はそんな彼女の唇にそっと人差し指を当てて黙らせると、よく見えるように使い魔を掲げ、その首元に付けられた赤い玉を僅かに押し込んだ。
使い魔は一瞬「むぎゅ」と苦しげな鳴き声を上げ、しかし直後に真四角の口をパカと開けるとそれまでの意味の無い文字の羅列のような喋り方から一転、きちんとした日本語を喋りはじめた。
『商店街マエ、坂、口裂ケ女と遭遇。三十分イジョウ連絡ノ無イ時ハ救援頼ム。オワリ』
まるで留守電のメッセージのように簡潔な文章を喋り終え、使い魔は一旦口を閉じた。
そして一瞬の後我に返ったように首を傾けると、また気の抜けたような鳴き声を上げるのだった。
「ぼっさー」
「はい、ご苦労さん」
言って火遠が手を放すと、使い魔は背中についた小さな羽をパタパタと動かし、気ままな蝶の如くどこかへと飛んで行ってしまった。
遊嬉はその様子を呆然と見送りながら、訳がわからないと言いたげ顔で「なに今の」と呟いた。
「なにって、魔鬼の奴からの伝言
な? と同意を求めるように顔を向ける火遠に、乙瓜はムスっとした顔でこう答えた。
「……伝言するならせめて逃げるような奴を寄越さないでほしかった」
「なぁに、君の顔が怖かったのさ」
「てめぇ!」
そこから何やら痴話喧嘩のようなものを始めた二人の様子を見て、遊嬉は納得した。だからあんな所から出てきたのかと。
「えーと要するに、魔鬼が寄越したあの伝言人形が二人の近くまで来たところで逃げちゃって、それを捕まえようと追っかけてて変な所から出てきたと、そういう事なのかな?」
考えをまとめるようにそう言って、遊嬉は振り返った。
背後の嶽木は「そういう事なんじゃないかな」と、どこか生返事な肯定を返しながら呆れた目で乙瓜と火遠を見つめていた。
「そっかー。……しっかし口裂け女って、ひきこさんじゃないけど大丈夫なんかね? アレでしょ、『わたしきれい?』って奴でしょ。こんな呑気に構えてて大丈夫なんかねー?」
腑に落ちない顔で呟く遊嬉の前で乙瓜と火遠の喧嘩が唐突に止まった。あまりに唐突な事に遊嬉が「え」と声を漏らすより早く、乙瓜はこう言った。
「いや、大丈夫だと思うぞ。口裂け女って多分、狩口さんのことだし」
い草の畳の上には、布団を取り払った炬燵テーブルと型落ちのブラウン管テレビ。漆喰
さほど珍しくないが、少しだけ懐かしい雰囲気の漂うお茶の間がそこにあった。
テーブル上にはまだ冷めきっていないおかず類がフードカバー越しに食欲をそそる臭いを放っている。
――おいしそう。そう思った直後腹の虫がぐぅと間抜けな音を立て、魔鬼の顔はみるみる真っ赤になった。
そんな彼女の様子を見て、狩口梢はクスクスと笑いを漏らした。
そう、ここは狩口梢の自宅である。口裂け女の居城と云うにはあまりにも普通で小奇麗なその家に、魔鬼と狩口の二人だけが存在していた。
(一応……他に何かが潜んでいる気配はないし、いざとなったらすぐ逃げられるだろけど――)
家主は今奥の台所へご飯を盛りに行っているので逃げるチャンスはいくらでもある。
しかし。美味しそうな料理を前にして、自然と正座待機してしまう魔鬼がそこには居た。
(……ひもじい。情けないくらいとてもひもじい。知らない人の家でおよばれとか防犯意識的には完全アウトだけど、やっぱりお腹は減るんだよぅ……)
情けなく思いながらも、魔鬼はまたぐぅぐぅと鳴り出す正直な腹を抑えるように手を当てた。
そこに丁度、狩口が奥の台所から炊き立てと思しき白米の盛られた椀を持って戻ってきた。
彼女は微笑みながら続けざまに茶碗と箸を差し出し、フードカバーを取り払った。
「別に我慢しなくってもいいのよ、お腹減ってるでしょう? 大
「……それって、ひきこさんの事ですか」
フードカバーを畳む狩口を見ながら、魔鬼は静かにそう言った――つもりだが、またお腹が鳴ってイマイチ締まらなかった。
魔鬼は再び顔を赤くしながら、唐突に「いただきますっ」と叫ぶとガツガツと食事を摂りはじめた。もう変に警戒している場合ではない、一分一秒でも早く腹の虫を抑えようと必死だったのだ。
それは傍から見ていてかなりはしたなかったが、狩口は笑うでも苦言を呈するでもなく、ただ直前の問いに対して「……そうね」と、少し寂しそうに呟いた。
何やら真面目な雰囲気を察知して箸を止めようとする魔鬼だったが、狩口は「食べてるままでいいから」それを静止する。
「ほら、"ひきこさん"を捜してほしいって、私言ったじゃない。……あれは、そうね。美術部
そこまで言って、"口裂け女"は左手を上げた。その薬指には銀色の指輪が光っている。
(あ、本当だ指輪がある。全然気づかなかった)
魔鬼は漬物を噛みしめながらしげしげと指輪を見た。狩口はその指輪をそっと撫でながら、静かにまた口を開いた。
「花子さんて居るじゃない、トイレの。もしかしたらこれも知ってるかも知れないけれど、"トイレの花子さん"も日本各地にそれぞれ違う花子さんが居るの。それと同じように、"口裂け女"も"ひきこさん"も、話のバリエーションの数だけ存在してる。ポマードって言葉に弱い口裂け女も居れば、べっこう飴に目が無い口裂け女も居る。で、私はそんな数ある中の……人間に恋をした口裂け女なのでしたー」
唐突にえへへーと笑って見せる狩口さんの前で、魔鬼はみそ汁を一口啜って顔を上げた。
「あ、旦那さん人間? なんですか?」
「そうよー。やったね!」
狩口は両手でピースすると嬉々として話を続けた。
「まあ、そんなこんなあって私は人間を恐怖させる存在の最前線から身を退き、普通の主婦としてほそぼそーと、時々小説なんかを書きながら生きてきたのでしたー。……だーけどねー。あの子はねー。"ひきこさん"はちょっと違ったんだわ」
全くもう、とぼやくように言いながら、狩口は腕組みした。
「"ひきこさん"は……少なくともこの辺に居るひきこさんは。私のはとこなのよ」
「ふぇっ? はふぉふぉっ?」
「リアクションは飲み込んでからでいいのよ」
狩口はたくあんを頬張りながらツッコミを入れようとした魔鬼を制しつつ一度組んだ腕を解いた。
「ほら、"口裂け女
「あー……」
魔鬼はたくあんを飲みこみながら納得したような声を上げた。つまりそう言う事なのだ。"口裂け女"が"ひきこさん"と合おうとしていたのは、きっとそのことについて苦言を呈するつもりだったのだ。しかし待ち合わせの場所に"ひきこさん"は来なかった。故に彼女は言ったのだ。「"ひきこさん"を捜してほしい」と。
(成程、そういう事か……)
ごちそうさまと箸を置き、魔鬼は腕組みした。そして狩口の金色の目を真っ直ぐに見つめた。
「とりあえず話はわかりました。それで、ひきこさんを捜した後、狩口さんはどうするつもりですか」
「うーん、とりあえず一発殴るのは必至かなー。傷害沙汰だけど仮に警察に引き渡したとしてあの子絶対自力で脱走しちゃうだろうから、先ずは身内でボコボコにします」
サラりととんでもない事をのたまう彼女に魔鬼は少々ゾッとした。
幾ら怪事を解決する身であるとはいえ、そんな都市伝説ドリームマッチに巻き込まれるのは御免である。
明らかに顔色を悪くする魔鬼に対し、狩口は「冗談よ」と手をヒラヒラと振った。
「大丈夫よー、ちゃんと最後のトドメとかは美術部に譲ったげるからぁ。ほら、怪事は人間が解決しなきゃダメじゃない。大霊道塞がなきゃでしょ~」
ニコニコと笑う彼女を見て、しかし魔鬼は何か違和感を覚えた。
「……ん? あれ、私その話してましたっけ。それとも噂?」
顔をしかめる魔鬼に、狩口は「言ってなかったっけ」と続けた。
「私に北中美術部の事話してくれた知り合いが教えてくれたの。乙瓜ちゃんって言うんだけど」
「あいつかーーーーーーーーー!!!」
まさかの身内の名前に、魔鬼は叫ばずにはいられなかった。
(道理でやたら慣れ慣れしいしやたら詳しいと思ったんだ! ……でもそれならそれで最初に乙瓜の知り合いって言ってほしかった! そしたら家に入る前の問答とか要らなかった! ……ああああああ!)
すっかり頭を抱えて項垂れてしまった魔鬼を余所に狩口は立ち上がり、食器を片づけ始めた。
「去年の暮に薬局でマスク買占めについて揉めたのがはじまりなんだけどねー……。それにしても今日日魔法使いのお友達がいるとか、おばさんびっくりしちゃったわー。……ってあら。なにかしらこれ」
「?」
不思議そうに呟く狩口の声に魔鬼は顔を上げた。広がった視界の向こうには、狩口の周りを旋回する白いものが見えた。
(……鳥?)
魔鬼は初めそれを鳥だと思った。
しかし一瞬の後気付く。宙を舞うそれは確かに鳥に似ているが、それにしてはやたらとのっぺりとしている事に。
まるで紙。紙の鳥。そこまで考えた時、魔鬼はそれに見覚えがあることに気付く。
「水祢の鳥! 式神!」
ハッとしてそれに手を伸ばすと、それは先程まで滞空していたのが嘘のように床へ落ちた。
魔鬼はそれを拾い上げる。まじまじと見たそれは、やはり水祢の使う式のようだった。
――何故こんなものがここに。魔鬼はそう考え、すぐにとある事を思い出した。
水祢は最近眞虚と契約した。ならば、おそらく眞虚と共にいるのではないか。そして自分が使い魔を用いて乙瓜にメッセージを送ろうとしたように眞虚の方からも何か伝えたいことがあり、それをこの式に託したのではないか、と。
そして案の定と云うべきか。そんな事を考えている間に式の体には黒々とした文字が浮かび上がり、すぐに一つの文章が出来上がった。
『居鴉寺前公園でひきこさん発見。杏虎ちゃんと居る。待ってる。 眞虚』
「おおうマジか……」
そんな声を漏らすと同時、式神の伝言に目を落としたままの魔鬼の視界に影が落ちる。どうやら狩口が後ろから覗きこんでいるようだった。
魔鬼が振り返ると、狩口は静かな声で「見つけたのね」と呟いた。
その静かな怒気を含んだような表情を見て、魔鬼は少しだけゾッとする。
狩口はそんな魔鬼の視線に気づいて先程までのようにニッコリ笑うと、その肩を元気よくパンパンと叩いた。
「よっし、じゃあいこっかー! 寺前公園こっからちょっと遠いでしょ、おばちゃん車出すから乗ってきなー」
「え、ええ……はい」
また流されるままに家の外へ連行されながら、魔鬼はなんだかとても嫌な予感がしていた。
(この人自身は何度も大丈夫と言ってるけども……)
果たして本当に大丈夫なのだろうか、と。