怪事捜話
第十九談・籠の中の虜は⑥


 消えたくなかった。死にたくなかった。家族や友人に会いたかった。よく似た他人や誰かの偽物でなく、祖父母の孫として、両親の娘として、兄の妹として、幸呼の友人として。
 の正体を知って、在りし日の思い出を皆捕食者の都合のいい作り物だと否定して、否定して、否定して。
 裏切られ存在を奪われた憎しみ悲しみと、尚も完全には捨てきれない唯一無二の妹への愛。借り物の魔法と、化け物を殺せる剣。それを歪に抱いたまま、烏貝七瓜は烏貝乙瓜と相対する。偽物に落とされた本物として。変わらず"双子の姉"として。
 それがあの七月、あの雷の日。だが死にもの狂いで纏った殺意の鎧はあまりに脆く、苦しむの姿を前にあっさりと砕け散ってしまった。
 更には魔鬼の反撃を受けた事で、七瓜は気づく。気づいてしまう。
 烏貝乙瓜はもはや己に賛同するだけの都合のいい友達・・・・・・・ではない。都合のいい幻想でおびき寄せて獲物を食らうだけの化け物ではない。
 七瓜から記憶を奪い己がなんたるかを自覚できなくなった乙瓜は、すっかり七瓜とは別人になってしまった。己の力で友人を持ち、傀儡の魔法に抵抗される程に愛されているのだと。

 気付き、七瓜は後悔する。自分はなんと恐ろしい事をしようとしていたのかと。まるで魔法が解けたように。

「……だからと言ってあの日私があなたたちにしたことは許されることじゃない。今更こんな自己満足の吐き出しを聞いたところで許してくれなくてもいい。……だけど、どうか協力してほしい。例え始まりが偽物でも、私のものじゃないあの子自身の意思であなたたちと友達になった乙瓜の事を。こんな話を聞く前と変わらず、友達だと思っていてくれるなら」
 自ら話せるだけの事を全て出し終え、七瓜は深々と、半ば崩れるように美術部に頭を下げた。美術部――特に一年は困惑したように顔を見合わせ、そんな中で遊嬉がそっと口を開く。
「一つ、聞いていい? 乙瓜ちゃんを助けたいってのは、他意なく七瓜ちゃん自身の意思なわけ?」
 淡々と。感情を抑え、ただ結論だけを問うように。そんな遊嬉をハッと見上げた七瓜は、彼女が己に向けるものが怒りでない事に却って困惑したように一旦視線を泳がせた後、「ええ」と頷いた。
「私の意思よ。この騒動で北中あなたたちに加勢したのはヘンゼリーゼの意思だけれど、乙瓜を助けたい気持ちは誰かに指示されたものじゃない」
「………………。信じるからね? その言葉」
 遊嬉はふぅと息を吐き手近な場所に転がされていた椅子を立てると、その上にどっかりと腰を下ろした。そして周囲を――自分以外にあの日に巻き込まれた美術部同期四人を見て言う。「誰か他に何か言いたい事ある人居る?」と。
「いや、言いたい事もなんも」
 真っ先に反応した深世が言う。
「確かに去年……いや一昨年か。あの夏になんかろくでもないことに巻き込まれたらしいってのは、覚えてないけど聞いちゃいるよ? ……けど今更その事について断罪したってさぁ? 今はなんてか、乙瓜ちゃん助けなきゃじゃん? 聞いてりゃ偽物だとかなんだとか、七瓜ちゃんだっけ? その人に何したとか、オカルト不穏ワードばっかでわけわかんなくなりそうだけど。……だからっていきなり知り合いに居なくなられても後味悪いんだよ。こっちとしても」
 不満気味にそう言って、深世は残りの三人を見た。
「あんたらは?」
 そんな部長の一言に眞虚は小さく首を振り、魔鬼は魔鬼で何か考え込むように俯いたまま反応を示さない。そんな中、ずっと壁に寄りかかっていた杏虎が発言権を求めるように小さく手を上げる。
「じゃあ杏虎」
「はいよ」
 杏虎は軽く返事をして壁から背を放し、腕組みしながら七瓜を見た。
「あたしはさ、理由を聞いたからって七瓜が前にあたしらにしたことを許す気にはならない」
 その言葉に七瓜は小さく息を飲んだ。覚悟していた事とは言え、直接言葉に出されることで刺さるものがあったのだろう。だが杏虎はそう言った上で「だけど」と続ける。
「だけど、あんたのここからの目的が乙瓜を助ける事ってなら、あたしも協力してやらないこともないよ。……正体がどうとか言われても友達だし。ていうかさ――」
 そこまで言って杏虎はおもむろに頭を動かし、元より大分位置のずれてしまった教壇の上に視線を向けた。
 その視線の先には火遠が居る。平時よりも、そして曲月嘉乃との因縁を明かしたあの朝よりもずっと消沈した様子の、美術部にも縁深い紅い妖怪が。
 そんな彼の姿を見つめ、杏虎は言う。
「乙瓜が救いようも無く悪い存在モノだと思ってたら、絶対そのままにしとかないっしょ?」
 青と金の混じり合う瞳で問う彼女に、火遠は小さく頷いた。杏虎はそれに頷き返し、美術部同期らを見て言う。
「ほら、話が繋がった」
「……なにがじゃい?」
 深世が怪訝に眉をひそめる中、杏虎は腕を組み直して言う。
「火遠は知ってたって事。乙瓜がそういうモノだって。大分前から」
「ええ?」
 懐疑的な声を上げて視線を向ける深世に、火遠は申し訳なさそうにまた頷く。眞虚も魔鬼もそれを見る。事情に明るくない一年生の多くも「どういう事だろう」とざわつき始めるが、遊嬉だけは特に驚いた様子もなしに遠くを見ていた。
「どうしてずっと黙ってたのさ!?」
 教壇に齧り付く勢いで深世は問う。
「……おいそれと言うわけにもいかないだろう。こんなことになる前に乙瓜が人間じゃないだなんて話をして、君たちがその事実を受け入れてくれるか不安だったんだ。……それになにより、乙瓜自身が現時点で自覚していないようなことを無理矢理自覚させたとして、その時に何が起こるかわかったものじゃなかった。仮に君が乙瓜の立場だったとして、過去はどうあれ今や自分が紛れもなく人間であると信じているモノだったとして。……今までの自分の人生が全て偽りだったなんてそんな事を突然知らされたらどう思うッ……?」
 火遠は茶化す事なくそう答え、最後に少しだけ感情的になってしまった事を自覚してか、数秒の沈黙の後に小さく「ごめん」と続けた。
「ごめん。結局は……俺の言い訳だ。君たちにはもっと早くこの事を伝えるべきだった。乙瓜にも」
 悔いるように眉間に皺寄せ目を閉じる。そんな火遠を見上げ、深世もまた「ごめん」と呟いた。
 打ち明けるべきだったというのは尤もな事だ。だが、打ち明けられなかった気持ちが全く解せないような深世でもなかった。
 どちらともなく黙り込む中、眞虚がそっと口を開く。
「やめよう。……七瓜ちゃんの事と同じで、起こっちゃった事後悔しててもどうしようもないよ。これからの事考えよう。……杏虎ちゃんだって火遠くんと揉める為に知ってた事に言及したわけじゃない、……そうでしょう?」
「まあね」
 壁際の杏虎はあっさりと頷き、深世らを見て言葉を続けた。
「あたしが重要だと思ってんのは火遠がそれを知りながら乙瓜を排除すべき対象にしなかったこと。……まあ、乙瓜は最初斬られかけたとかなんとか言ってたけど、結局斬ってないし『お前は化け物だー』とも言わなかったわけじゃん。それが大体全てだと思うんだよね。つか、今更人間じゃないとか言われたところでそもそもこの北中が既に人外魔境だし。化け物だから友達じゃねーって助けちゃいけないって事もないだろって、そういう話をしたかったわけ。責任の所在をどうこうしたかったわけじゃないよ」
 つらつらと言って、杏虎は「違う?」と言わんばかりの視線を深世に、杏虎に、そして黙ったままの魔鬼に向けた。
「まあ、あたしの言いたい事は終わり。魔鬼はどうする? 特にない?」
「私は――」
 名指しで問われ、魔鬼は俯いたままに口を開く。彼女の頭の中には数十分前の乙瓜の姿が――己の正体を知った事に誰よりもショックを受けていた乙瓜の姿があり、焼き付いたかのように離れない。
「…………、助けたいよ。そりゃあ」
 魔鬼は言う。例え偽物だったとしても、乙瓜には乙瓜の人格があり、心がある。七瓜の過去を聞いてしまった今、それはより強い確信となった。乙瓜は紛れもなく魔鬼の、そして美術部同期の友人だったと。
 だが、その一方で魔鬼はこうも思うのだ。乙瓜を攫って行った女……まるで歯が立たなかった、琴月亜璃紗を名乗る【月】の幹部。乙瓜と似た出自を持つ女。彼女が語った通り、乙瓜ら『影』の存在の父にあたるものがマガツキ様――曲月嘉乃だとするならば。恐らくは彼の元へ連れられた事で、乙瓜の身に良からぬ変化が起こってしまうのではないか、と。
(それに……)
 ゆっくりと顔を上げ、魔鬼は窓際に目を向けた。そこには並べた椅子に座り挫いた足に眞虚の護符で応急処置を施している八尾異と、その従妹いとこにあたる美術部一年・八尾音色の姿がある。
 彼女が乙瓜に真実を暴露した事も、そもそもとして打ち明けるべき真実に至っていた事も、魔鬼は未だ誰にも打ち明けていない。故にこの場に立ち会うのも偶然【月】の襲撃に居合わせて負傷したからと思っている部員も少なくないだろう――と魔鬼は思う。
(言動からして敵じゃないんだろうけど、現状あの人の行動が一番怪しいといえば怪しいんだよな……。なんかしれっと管狐とか出してたし)
 そんな視線に気づいたのか、異はゆっくりと顔を上げて魔鬼を見る。それから傍らの従妹に目配せすると、「そろそろぼくも話していいかな」と声を上げた。
「そういえばそうだよ。なんでこっちゃんいるのさ?」
 深世が言う横で眞虚もまたキョトンとしている。杏虎は眉だけをピクリと動かし、遊嬉は驚いた風でもなくチラリと視線を動かす。
 様、その他一年や学校妖怪たちの反応も興味深々から無反応まで十人十色・人様々。
 そんな中で異とも決して知らぬ仲でもない火遠はじっと異を見つめ、静かに言う。
「君があの場で何をやったのか……大体は想像つくけれど、一応話してもらおうか」
「……勿論話すさ。いい加減ぼくもこそこそとはしていられない局面になってきたみたいだからね。これからの北中も、これからの烏貝ちゃんも」
「あなた何の話をしてるの? ……何を知ってる?」
 どこか怪訝に問う七瓜の言葉に、異は小さく息を吐き、少し考えるように顎に手を当ててから答えた。

「ここから少し先の未来について」

 そして彼女は話し出したのだ。己が視たものを、知ったものを、思惑を――。



 その頃、古霊北中に向かう狭い田舎道を飛ばす一台の車があった。
 ありふれた乗用車、その運転席には営業マン風のスーツの男。助手席には男とは対照的にとても会社勤めには見えない、白い髪の小柄な女。
「もうすぐ到着です丙さん。最後の取締機越したんであとちょい飛ばします。揺れますよ」
「かまわん飛ばせ」
 女――【灯火】現・代表の丁丙の了承を受け、男――その秘書である烏丸ささぐはアクセルを踏む足に僅かにだけ力を込める。車体はまだ帰宅ラッシュには早い平日夕方の道を突き進み、幾らか舗装が劣化した道を踏んでは跳ねるように揺れる。
「……落ち着きがないぞ。もう少し丁寧に急げんのか」
 後部座席からやや怒気を含んだ声が上がる。捧はバックミラー越しに声の主をチラリと見ると、「現世では難しいことなんで」と小さく頭を下げた。
 その間、丙の携帯電話――近頃発売されたタッチパネル式の最新型だ――が小刻みに通知音を発する。
「わかってるっつうに」
 丙はそれを見て独り言のように呟いた後顔を上げこう続けた。
「寧ろめちゃくちゃ早かった方だと褒めてほしいぞ……。何しろこちとらお前さんのだけで、事が起こるよりもずっと早く向かってたんだからさぁ。なあ、玉織? 普段は頼み込みに頼み込みを重ねて漸く手を貸してくれるってのに、今回は妙に優しいじゃないか」
 言って彼女が振り返った後部座席で、仏頂面の神の眷属はフンと腕組みした。
「軽口も程々にしておけ。ここからが本当の正念場だ」
「あいよ。あいあい。おさるさん」
「……こんな時につまんない言い争いはやめてくださいよ。本当マジ、98年以来の危機なんですから」
「わかってるって」
 捧の言葉にそう答え、丙はシート正面に向き直る。それから間もなく北中へ至る田舎町の景色を見つめ、ドア側に頬杖を立てながら呟く。

「日常が非日常に変わるのは、いつもだいたい唐突なもんだ」と。



 暗くくらい夢を見る。優しく優しい夢を見る。
 闇の底に沈んでしまえば、輪郭と共に何か大事なものが消えて行く。大事な……大事だったような気がする何かが。けれども思い出せない何かが、消えてしまったという事だけが只わかる。
 抜けて行った大事なもの。思い出せない大事なもの。喪失感は涙となって目から零れ落ちる。けれど、さほど寂しくはない。
 代わりのものが埋めてくれるから。心に空いた大きな穴に、次々と違う感情が埋まっていくから。まるで傷を癒すように。
 ――そう。それが彼だった。ずっと忘れていた。そこにあった邪魔なもの・・・・・がなくなって初めて気づいた。この気持ちは最初からあったもの。だからこれは謂わば回帰。
 戻って来れた。それが嬉しい。嬉しい。嬉しい。
 冥く優しい夢を見る。嬉しい、嬉しい。だけど涙が止まらない。

 本当に、これで、いいのかな。

 けれど大切なものは、もうそれしか思い出せない、思い出せない、思い出せない――。

「――それでいいんだよ。忘れてしまうようなものなんて、どうせ大したものじゃなかったんだ」
 闇の中。虚ろな目からぼろぼろと涙を零す乙瓜の頭を撫で、曲月嘉乃は優しく微笑む。
 愛玩動物を愛でるように。籠の中の鳥を愛でるように。
 少女の手足には枷があり、その下には逃げ出そうとして暴れた際のあざがある。だが、今や彼女の中にはここから逃げ出す意思はない。……逃げ出す理由を奪われてしまった。
 今や乙瓜は心身共にこの場の虜。そんな彼女の耳に、嘉乃は満ち足りた表情で囁くのだ。

「おかえり乙瓜。僕ら・・のかわいい娘」

 勝利の核心に【月】が笑み、影は喜び騒めき出す。そんな静かな歓声を聞きつけて、闇の魔女もまた動き出す。
「そう。そしてお祭りが始まるの。囚われの虜は籠の中のまま生きるか死ぬか。奪われたままの亡霊は生き返れるのか消えてしまうのか。……そろそろ私も動く時ね。面白いものが観られるといいのだけれど」
 白いティーカップをコトリと置き、ヘンゼリーゼは赤い唇をニッと曲げた。



(第十九談・籠の中の虜は・完)

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