怪事捜話
第三談・雨月張月①

 何も見えない真っ暗闇の中、茫と光が浮いている。
 まるで墓所に出ると云う人魂のように青白い光。その光はやがて弦月のように弧を描き、光の中に何かを形作ろうとする。
 しかし、それは結局何にもなることは無く。いつもあとわずかと云うところで霧散する。
 無念にも掻き消えた光の名残を見ながら、彼女はまた溜息を吐いた。
 ――ああ、今日もまた・・駄目だったか、と。


「……変な夢をさ、見るんだよね」
 それは、ゴールデンウィーク明けの水曜日のこと。
 時刻は丁度昼休み、まだ連休中の怠惰な気持ちを引き摺っているのか、やる気なく教室内に留まっているクラスメートも大勢居る中。
 特に目的も無くベランダに出ていた杏虎は、傍らにいる遊嬉にそう打ち明けた。
「変な夢ぇ?」
 案の定怪訝な表情を浮かべる遊嬉に、杏虎はコクリと頷いて話を続けた。
「なーんかさ。連休の少し前辺りから、ずっと同じ夢ばっか見るワケよ。……まーっ暗な所で、青白い光がぽわんって浮いてて、……まあそれだけの夢なんだけどさぁ」
「なにそれ。人魂? ねえヒトダマ?」
「……知らないよ。人魂かもしんないし、そうじゃないかもしんないし」
「ふーん?」
 遊嬉はイマイチ良く分からないと言った風に首を傾げると、ベランダの手すりに頬杖を立てつつ改めて杏虎に問う。
「光の中に恨めしそうな女の顔が浮かび上がってたりとかは?」
「ないない、全然。でもって何処からともなく恨めしそうな声が聞こえたりとかも無い」
「そっか……はぁ、残念」
 残念そうに呟く遊嬉。変な夢と聞いて当たり前のようにオカルト的に面白い話を期待していた彼女としては、とんだ肩すかしを喰らった気分なのだろう。
 杏虎はあからさまにガッカリした様子で肩を落とす遊嬉を見て、少し呆れたような顔をした。
「そうガッカリすんなよ、この話にはちゃんと続き? っつーか現在進行形の展開があるんだから」
「進行形ィ~?」
 続きがあるという杏虎の言葉に、遊嬉はゆっくりと顔を上げた。杏虎はそんな彼女を見てニヤリと笑い、話を続けた。
「あの話。ずっと同じ夢って言ったけど、少しずつ変化してる感じなんだよね。最初は只光が浮かんでるだけだったんだけど、今日見たのは光が何かの形を作ろうとしてた。これってつまり、これからまたどんどん変わってく可能性もあるわけじゃん?」
 そう言って杏虎が小首を傾げるのと同時に、遊嬉の顔がぱぁっと明るくなった。
「悪霊かな!? 悪霊の仕業かな!?」
 遊嬉は手すりの上の杏虎の左手に自らの両手を重ねながら、満面の笑顔でそう言った。
 そんな、世間的に見てとんでもなく頓珍漢とんちんかんかつ失礼な事を言って笑う友人を見て、しかし杏虎は怒ることをしない。
 何せ少なくとも一年間は同じクラス、同じ部活に所属しているのだ。戮飢遊嬉がどんな奴でどんな趣味趣向をしているのかなんて分かりきっている。分かりきった上で、彼女に夢の話を振ったのだから。
「悪霊かどうかは知らないけど、とりあえず予め言っとくから。なんか面白い感じになってきたら教えるけど、その代りヤバくなってきたらどうにかしてくんね?」
 ベランダに気持ちの良い五月の風が吹く。その風で顔にかかった前髪を払いながら、杏虎はそう言った。遊嬉はそんな彼女の言葉を受けて、ぶんぶんと頭を縦に振り、任せておけとばかりに親指を立てた。
「バッチこいよ! 何があってもこの遊嬉ちゃんが居るから安心して悪夢を見なさいッ! そして進展を報告するんだッ!」
「うっわーゲスい台詞」
「うぇっへっへ、まあちょっとの事くらい気にすんなよ。それにあたし最強だよ? 最強の遊嬉ちゃんだよ??」
 偉そうにふんぞり返る遊嬉を見て、杏虎はやれやれと溜息を吐いた。
 ――遊嬉の自信には根拠がある。
 それは一見するとそんじょそこらの女子中学生と何ら変わりのない彼女の持つ裏の顔――すなわち、退魔剣士であるという事実に由来する。
 昨年の秋に妖怪と契約した彼女は、何やら由緒正しき退魔の武器――退魔法具を取得し、並大抵の幽霊妖怪の類なら何でも両断殲滅してしまえる力を持っている。昨冬のマラソンで自らに憑いた悪霊の未練で具現化した霊体のトラックを一刀両断した話などは、少なくとも美術部内で知らない者は居ない。
 今はこうしてふざけた様子だが、いざとなったら頼りになる――それが戮飢遊嬉だった。
 そんな彼女の安心宣言を受けて、杏虎はひとまず安心しておくことにした。

 実の所、杏虎は不安だったのだ。はっきりと言動に表すことはないが、毎夜続く同じ夢……否、同じように見えて少しずつ変化していく夢を、何となく不気味と思っていた。
 尤も、夢の中の杏虎は謎の光を前にして不気味に思ったり不安に思ったりすることは無い。寧ろ妙に落ち着いた心持で光を見守っている。違和感を覚えるのは覚めてからだ。
 ――もし、光の変化する末に何か恐ろしいことが起こったらどうしよう。
 目が覚めてから杏虎はそう思う。他人からすれば、いつも冷静沈着な様子の彼女がまさかそんな不安を抱えているだなんて、それこそ夢にも思わないだろう。
 杏虎としてもそんな他者達の自分に対するイメージに気付いているからか、迂闊に心情を吐露することが出来なかった。
 だからこそ遊嬉だった。彼女にならオカルト話の種を売るという面目でそれとなく頼めるだろうと踏んだのである。そしてそんな杏虎の目論み通り、遊嬉はいつもの調子で受け止めたのだ。
 ――安心して悪夢を見なさい。そんなふざけた一言が、どれほど杏虎を安心させたか。恐らく遊嬉自身は知らないだろう。
(そしてこれからも知らないで欲しい)
 杏虎はそう思いながら、ポンと遊嬉の肩を叩いた。
「そんじゃ任したよ、最強ちゃん」
「任された!」
 冗談っぽく敬礼してみせる遊嬉に背を向け、杏虎はベランダを後にした。
 ――万が一遊嬉にどうしようもならなかったときには、あと二人ほど心当たりがある。彼女達にも近日中に何らかの形で相談しておいた方がいいだろう。そんな事を考えながら。

 そんな彼女の背後で、「ヒョーーゥ」と云う音がした。少々不気味なその音は、どこか笛の音のようでもあり、鳥の鳴き声の様でもあった。
 しかし杏虎は振り向きもしない。聞こえているのかいないのか、さも何事も無かったかのように教室を去っていく。そんな彼女の背中を、ベランダに残る遊嬉が無表情で凝視していた。

「……いいや、聞こえちゃあいるんだろうね。杏虎の奴、前に聞こえはするって言ってたから」
 遊嬉は杏虎が見えなくなるまで目で追ってからそう撃った。
「何だったと思う、あれ」
 ポツンとベランダに残された彼女が呟くと、誰かが歌うような声で答えた。
「蛇だったよ」
 その声に遊嬉が振り向くと、先程杏虎が居た場所に新たな人影があった。
 本物の植物の葉を交えた新緑の髪と翡翠色の瞳を持つ人影――遊嬉の契約妖怪である草萼嶽木がそこに居た。
 彼女はニコリと微笑むと、手すりに腕を置いて寄り掛かった。
「それとも狸だったかな?」
 嶽木は両手の親指と人差し指で二つの輪を作ると、両目の前にかざして「ポン!」と言った。どうやら狸の真似のつもりらしい。
「ポンは腹太鼓の音だよ。そしてアレは狸じゃないよ、お猿だよ」
「猿か、猿ね」
 嶽木はニィと笑い、白い歯を見せながら「キーッ」と猿の鳴き真似をして見せた。遊嬉はそれを見て、しかしまたしも首を振る。
「いいややっぱり猿でもないな。アレは鳥だよ、鳥のように鳴いたから。……でもおかしいな、それにしちゃあ金と黒の縞々模様の足があって、これじゃまるで虎みたいだ。はて、こんな鳥がいるかいな?」
 まるで演劇の台詞みたいにわざとらしくそう言うと、遊嬉もまたニヤリと笑った。
 それを見て嶽木は満足そうな顔になり、手すりの策の隙間から片足を突出しながらこう言った。
「アレは杏虎ちゃんに憑いてるモノじゃあないよ」
「……知ってるよ。杏虎が夢に見てるのは多分悪いもんじゃない。きっとアレとは別物だ」
 言いながら、遊嬉は首だけで杏虎の消えて行った廊下の向こうを振り返った。勿論そこにはもう杏虎は居ない。何か不気味なものの痕跡もない。何もない。
「消えた、か」
 呟きながら向き直る遊嬉に嶽木は言う。
「いいや、多分姿を変えて潜伏しただけだよ。遊嬉ちゃん――」
「わかってるよ」
「ならいいんだ」
 嶽木は手すりに寄り掛かっていた体を起こし、「任せるよ?」とだけ言い残して姿を消した。遊嬉は誰も居なくなったその場所を暫く見つめたまま腕組みし、はぁと息を漏らす。
「……アレって、アレ・・でしょ? 超有名な所の」
 今度こそ誰も聞くことない本当の独り言を吐く彼女に、校内外のスピーカーからチャイムの音が被さる。それは昼休み終了の合図であり、これから昼の清掃の時間が始まるという報せでもあった。
 そのチャイムを受けて、遊嬉はやれやれと肩を竦めながら教室への出入り口へ向かう。教室の中で過ごしていた生徒はいつの間にか数を減らしており、どうやらそれぞれの清掃の持ち場へと移動したようであった。
 数少ない残りである教室当番のグループが清掃の準備に取り掛かる様子を見ながら、遊嬉は小さな声でと呟いた。

「……怪事、来たれり」

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