怪事捜話
第一談・非常日常トロイメライ④

「あうぅ……ててて……」
 弾き飛ばされた美術室扉前で、魔鬼は腰を擦りながら体を起こした。
 彼女とぶつかった件の女子生徒もあちこちぶつけたのか、うめきながら頭頂部を撫でている。
 そんな彼女を、魔鬼はしげしげと観察する。衝突直前に見た通り彼女の上履きは一年生の緑色で、一級下であることは間違いなさそうだ。どこかで見たような気がするので、もしかしたら見学に来ていた子なのかもしれないと思った。
 魔鬼はゆっくりと立ち上がると、制服の埃を掃いながら目の前の女生徒に言った。
「……あのね、あんまり後輩にこんな事言いたかないんだけどさ。廊下を全力疾走してくるのは本当に危ないからやめた方がいいと思う」
 件の女子生徒――明菜はそこに来てやっと顔を上げた。そして魔鬼の存在と上履きのカラーを確認すると、見る見る顔を青くして平謝りを始めた。
「ご、ごめんなさい先輩ごめんなさいッ! 悪気は無かったんです……!」
「そんな謝らんでもいいよ、こっちもちゃんと見てなかったんだし」
 魔鬼はもういいからと明菜を制すと、首回りを揉みながら廊下の角へと視線を移した。
 ――ああ、居るな、と魔鬼は感じていた。妖界の気配はまだ去っていない。すぐそこには妖怪の気配。そして明らかに何かから逃げてきた下級生の存在。
「ところで……そこな後輩ちゃん。あんた一体何をやらかしちゃったのさ」
 後輩を振り返りながら魔鬼は問う。明菜はその言葉にビクリと身を震わせ、恐る恐ると言った様子でぎこちなく首を動かす。
 そして、丁度明菜の視線が向いた瞬間。廊下の角の向こう側から、土気色の手がぬっと姿を現した。それを見て明菜は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
 そうしている間にも手はずずずと動き、二本目の腕が伸び、やがて角の向こうから女の顔が現れる。そのあまりにもホラー映画然とした光景に明菜は震えあがるが、魔鬼は却ってうんざりとした顔をした。
 そんな魔鬼の袖に縋り付きながら、明菜は叫ぶ。
「追われているんです! 助けて下さい!」
「いや、そんな事言われても……」
 魔鬼はてけてけと明菜を交互に見ながら困ったような顔をした。
(このガチのビビりようを見るに、この子は多分無意識のうちにてけてけを呼び出しちゃったんだな。……まあ、気持ちはわからんでもない。てけてけ結構見た目怖いもんなァ)
 初めててけてけに出会った時の事を思い出しながら、魔鬼はしみじみとてけてけを見る。ホラー映画の悪霊よろしく長い髪に隠れ気味の顔、上半身だけの身体、生気のない肌に剥がれかけの爪。どう見ても悪霊である。
 だが魔鬼は知っている。喋ることが出来ないのと恐ろしげな外見の所為でよく誤解されるが、この学校のてけてけは他人思いの優しい妖怪なのだ。現に一年前、てけてけに首輪と鎖をつけた張本人が学校妖怪を襲う事件があったが、てけてけの説得によって事態が収束している。
(あの時は確か声帯を復元して異怨の奴を説得したんだよなぁ。なら今回も私が声帯を修復して……いや、耐性の無い一般人からして悪霊にしか見えないものが急に喋り出すのは逆効果か……? うーん……)
 どうしたものかね。と、魔鬼はてけてけを見つめる。てけてけもまた全身するのをやめ、貼り付いたような笑顔のまま魔鬼を見つめ返す。
「どうにもならんね……」
 魔鬼は疲れたように溜息を吐くと、足元に落ちていたままの定規を拾い上げた。
「何してるんですか先輩、早く逃げましょうよ……!」
 妙に冷静な魔鬼の態度とは対照的に、焦りに焦った様子で明菜が言う。
 助けてと言ったり逃げようと言ったり主張が安定しないが、動転していたらこんなものだろうと魔鬼は流す。第一、肝心の彼女が腰が抜けて立てない様子なのに、一体何処へ逃げると言うのか。
 ――だが、ずっとこのままこの一年生を怯えさせておくわけにもいかない。ならばこの際はっきり宣言した方がよかろう。それが魔鬼の出した結論だった。
「いいや、逃げも隠れもしないよ。……なんていうか、さっきあなた私に言ったよね? "助けて"ってお願い。なら、それは極力叶えるべきだよね。先輩としては、さ!」
 魔鬼はそう言うと定規を持った手を天高く振り上げ、そして宣言った。

「六つの聖なる五芒星ペンタグラム、一つの魔なる六芒星ヘキサグラム! 円陣の門を潜りその力を解放せよッ!」

 瞬間、掲げた定規の先に紫色の光が奔る。明菜はその眩さに一瞬だけ目を瞑り――そして恐る恐る開いた視界の先にそれを見た。
 紫の光が宙に直系30cm程の円を描き、星の模様と様々な記号や見知らぬ文字を組み合わせた不思議な模様として展開されているのを。
(魔法陣……!)
 明菜はすぐにそれに思い至り、目をこれでもかというほど見開いた。そう、それは明菜も好んでいるファンタジー系のゲームや漫画等に出てくる魔法陣そのものだった。
 実写ドラマならCG合成の一言で片づけられてしまうような代物だが、ここがドラマの撮影現場でないことくらい明菜にはわかっている。目の前の光景は画面越しの出来事じゃないし、夢でない以上は現実に相違ない。その事実に、明菜は驚きを隠せなかった。
 そんな明菜の様子など知ってか知らずか、魔鬼は定規をてけてけの方に向ける。それに応じるように魔法陣が真ん前に移動し、まるで銃の照準器の如くその中心にてけてけを捕えた。
 照準が合ったのを確認すると同時、魔鬼は叫んだ。
火炎灼熱波フレイム・ウェーブ!」
 何らかの宣言。それがゲームで言うところの技名のようなものだと明菜が気付くのに、さほど時間はかからなかった。何故なら、魔鬼が叫んだと同時に魔法陣の中心から火が上がり、てけてけ目がけて飛んで行ったからだ。
(魔法陣、火、魔法……!? 魔法を使った……?)
 もはや明菜の中にはてけてけに対する恐怖は無く、目の前の不思議な先輩に対する興味ばかりが強まるばかりだった。
 魔法(のようなもの)を使った魔鬼を暫し見つめる明菜。ふと気付くとてけてけの姿はなく、もう炎も魔法陣も全て幻のように消えている。しかしやれやれと定規を下す魔鬼は相変らずそこに在り続け、全ての出来事が夢ではないと物語っている。
 明菜は震えていた。しかし今度は恐怖にではなく、感動に打ち震えていた。こんな現実があってもいいのか、と。
 そんな明菜に、魔鬼は言うのだ。「大丈夫? 立てる?」と。
 差し出された手を掴み、明菜はゆっくり立ち上がった。腰が抜けていたのもいつの間にか治っていたのか、しっかりと立ち上がることが出来た。
「あ、あの……!」
 何から言っていいものか、興奮だけが先行して何も言えない明菜の肩にポンと手を置き魔鬼は言った。
「今日の事は秘密にしておいてね、古虎渓明菜・・・・・さん」
 明菜はコクリと頷く。それを確認すると、魔鬼は美術室の扉を開けてその中へと入って行った。
 ぴしゃりと閉ざされた扉の前。残された明菜は、しばし呆然とした後に呟く。

「か、かぁっこいい……」

 古虎渓明菜は、普通の12歳である。別にマニアでもなんでもない、ちょっと引っ込み思案でちょっと不思議な事が好きなだけの、ごく普通の12歳。
 そんな彼女は美術部と出会い、何かを見つけつつあった。
 もしかしたら、何か素敵なものに出会えるような。そんな予感と期待を抱きながら、彼女は帰路につくのだった。
 鼻歌交じりで自転車を漕ぎながら、遠くない未来を夢見るように。



 ――一方、黒梅魔鬼は焦っていた。
 正直なところ、てけてけとは知らない間柄ではないので、あの場くらいは魔法を使わずとも乗り切れたのだ。しかし件の後輩の怯えきった様子を見て、形だけでもなんとかしないといけないという気持ちが先行してしまった。
 勿論、だからと言っててけてけを本気で攻撃する気等微塵も無かった。普段使わない炎の魔法を使ったのも、てけてけの姿を後輩の視界から一瞬隠すため。一瞬で良かった。本気を出したてけてけのスピードなら、その間に妖界を解除し、その場を立ち去るのに十分だったから。直前にアイコンタクトしていたのが功を奏してか、その作戦は成功した。……だが、しかし。
「だけどうわぁあぁぁどうしよう魔法やっちまっ、うわあああああ!!!」
 美術室の裏側、棚の向こうの外から見えない空間で、魔鬼は一人のた打ち回っていた。
 黒梅魔鬼には秘密がある。それは自分が本物の魔法使いであるという事である。なんだか去年に入ってから身内間ではそれほど秘密というわけでもなくなってしまったような事柄な上に、その他同級生にも冗談半分ながらも薄々気づかれつつあるが、……それでも魔鬼にとっては重大な秘密なのである。それには魔鬼の痛々しい過去が大いに関係しているのだが、そのことについては割愛する。
 そんなわけであまり知られたくない秘密を成り行きとはいえ自ら知らしめることとなってしまった魔鬼は、美術室に戻ってきて以来ずっと羞恥にのた打ち回っていた。……ちなみに、明菜の名前を呼べたのは魔法でも何でも無い。真新しい彼女の上履きにそう書いてあったのを見たからである。
 それはさておき、他の部員達がどうしたものかと手をこまねいている最中。美術室の扉がガララと扉が開く。丁度乙瓜が帰ってきたようだった。
「ただいまー。……って何やってんだあいつ?」
 乙瓜は一歩入るなり、棚の向こう側から聞こえてくる声に顔をしかめた。そんな乙瓜に遊嬉は言う。
「あーね、なんか一年生に魔法見られたんだって」
「はぁ、そりゃ問題だ」
 乙瓜はなんとなく事態を察すると、そそくさと棚の裏側に回り込んだ。
 覗き込んだそこでは、ゴミに出すでもなく放棄された木片を積み上げながら体育座りでベソをかく魔鬼の姿があった。
「何やってんだおまえ……」
 乙瓜は呆れながら魔鬼の隣に座りこんだ。そんな乙瓜にチラリと視線を移しつつ、魔鬼は言う。
「いいよないいよな。お前は大した秘密無くていいよな。困らないからいいよな」
「ラッパーみたいに言うなよ。てか俺にも知られて恥ずかしい事くらいあるし、気にすんなよ」
「………………。……例えば?」
「……例えば……? えっと……」
「ほらみろ言えないじゃないか」
 魔鬼は不機嫌そうに頬を膨らませた。乙瓜は大人げなくなっている魔鬼に困りつつも、ここで何らかのフォローを入れないと暫くこのままだと思い、頭を捻った。
(何か、何か言わないと……。自分の恥ずかしい事……!)
 乙瓜は考えた末、とある一つの出来事を思い出す。だが、これを言ったら自分のイメージは地に落ちるかも知れない。当分馬鹿にされるかもしれない。だが、なまっちょろい羞恥では「それくらい何」と言いそうな雰囲気を醸し出す魔鬼を見て、乙瓜は意を決した。
 ――言うしかない。
「いや……ある。……言う」
「なに」
 鋭い眼光を向ける魔鬼にたじろぎつつ、乙瓜は震える声で続けた。
「……しょ……した…………この間……」
「え、何。聞こえない」
 しかし声が小さすぎたのか、魔鬼は益々不機嫌そうに睨む。そのプレッシャーに耐えかね、乙瓜はヤケクソになった。
 ――ええい、ままよ!
「おねしょした! この間!!」
 叫んだ。中学二年生の少女が。おねしょしたと。はっきりと。美術室全体に聞こえる程の声で。
 流石に今度こそ派はっきりと聞こえたようで、乙瓜の目の前で魔鬼は目を白黒させている。
 部屋の表側がなんだかざわざわ言っている。乙瓜は顔を真っ赤にしている。

 烏貝乙瓜には秘密がある。つい数秒前までは死ぬまで内緒、このまま墓場まで持って行こうと思っていた秘密だ。
 話はつい先日の春休みも終わりの頃に遡る。学校が休みなのにかこつけて不規則な生活を続けていた乙瓜は、そろそろ生活習慣を見直そうと考えていた。
 そんな時、安眠するのに寝る前にホットミルクを飲むのがいいという話を聞き、それを実践する。そんな夜。久しぶりにすやすやと眠っていた乙瓜の眠りを妨げたのは、尿意であった。
 ――あ、やばい。そう思ってトイレに向かうべく起き上がろうとした乙瓜を更なる悲劇が襲った。金縛りである。
 流石はオカルトの本場古霊町というべきか、不意打ちの如く襲ってきた金縛りを前に乙瓜は身動き一つ取れなくなってしまった。それまで家の中で何かオカルト的な事が起こったことは無かったため、すっかり油断していた乙瓜の手元には札もない。
 そのうちありきたりというべきかパターンと言うべきか、乙瓜の枕元に女が立つ。恨めしそうに見下ろす女に、……だが乙瓜には見覚えがない。そして金縛り中にも関わらず無情にも迫りくる膀胱のリミット。
(おのれ……おのれ……!)
 その時の自分は、恐らく枕元の悪霊よりも恐ろしい顔をしていたのではないだろうか。乙瓜は後に振り返ってそう思う。どうせ止めるなら何故尿意も止めてくれないのかと、乙瓜は女に恨みの眼光を向けた。
 しばし睨みあう二人。やがて乙瓜の怨念が勝ったのか、それとも女が飽きたのか定かではないが、乙瓜の身体にスッと自由が戻る。
(勝った……!)
 何の根拠もなくそう確信し、ガッツポーズする乙瓜だったが。直後彼女を悲劇が襲った。
 悲劇が、襲ったのである。

(終わった……!)
 全てを告白した美術室で、乙瓜は完全に燃え尽きた顔をしていた。
 例えどんな事情があろうとも、中学二年生にもなっておねしょをしたのは紛れもない事実である。乙瓜は泣いた。消せない過去に泣き、現在の羞恥に泣いた。
 だが、それを覚悟で告白した甲斐あったのか、先程までイジけていた魔鬼はすっかり頭から血が引いたのか、少々申し訳なさそうに言うのだった。
「その……ごめん」
「アヤマラナクテイイヨ!」
 泣きながらも元気よく親指を立てる乙瓜は、なんかもうどうにでもなれと思っていた。

 そして、やっぱり少しだけ思った。……ここまで全部夢だったらいいのになぁ、と。



 始まりあれば終わりあり。怪事も終わり部活も終わり。帰路につく美術部たち。
 夕闇に沈みつつある紫色の空を背負いながら、自転車を押す乙瓜は溜息を吐いた。乙瓜はあの後部員達の口止めに回ったものの、どこからか現れた火遠には全て聞かれていたようで、散々弄られて酷い目にあったのだった。
(あの野郎、久しぶりに出てきたと思ったら人の秘密を盗み聴きしやがって……絶対に許さん)
 乙瓜は未だに湧き上がる殺意にわなわなと拳を震わせる一方で、こうも思うのだった。この頃が平和すぎるのがいけないんだと。
「当たり前で普通」の日常生活を送りながら、乙瓜は何とも言えない物足りなさを感じていた。確かに、怪談自爆テロ等の問題はあったものの、少し前まで乱発していた怪事から考えると可愛いもので、目新しさも無い。そんな今はまさに怪事のオフシーズンと言えよう。
 だから、乙瓜は望んでいた。怪事を調伏し大霊道を封印する立場でありながらおかしな話であるが、新しい怪事がどこかから訪れてくるのを待ちわびていた。魔鬼が人目も憚らず魔法をぶっ放し、自分も思う存分護符をばら撒ける。そんな日がまた来るのを、内心楽しみにして待っていたのだ。
 乙瓜は思う。今は非常と日常のバランスが日常寄りの中途半端だから、魔鬼もちょっぴり不安定なのだろうと。実際少し前まで魔法使い云々の秘密事なんて自分でも忘れているかのように動いていたのだから、本当はとっくに吹っ切れている筈なのだと。
 たろさんが今日このタイミングで差し入れをしたのは、恐らくそう言う事なのだ。そろそろ何もないことに疲れて来ていないかと。きっと彼はそれに気づいていたのだ。
「――はぁ。どっかにないかなぁ、怪事」
 不謹慎な独り言を呟きながら、乙瓜は大きく溜息を吐いた。独り言。そう、独り言だった。――だが。
 その独り言に返す者がいた。
「そのうちあっちこっちから転がってくるわよ、怪事」
「……何ッ?」
 乙瓜は当たりを見渡す。だが、前後左右に広がる帰路には誰もいない。そんな乙瓜を嘲笑うかのように、声は続く。
「やだ、どこを見てるの? 上よ、上」
「――上?」
 声に誘導されるまま、乙瓜はバッと顔を上げる。西日はいよいよ赤く細く、間もなく闇に飲まれそうな世界の中で。寂しく立つ電柱の上に、ぽつりと立つ影があった。
 その、雨でもないのに傘をさしたシルエットに。乙瓜は見覚えがあった。一瞬言葉を失った後、乙瓜はかの人影に向けて叫ぶ。
「おまえ……七瓜なのかッ!」
 その言葉を受けて電柱の上の人影――烏貝七瓜は、乙瓜と同じ顔で満足そうにニコリと微笑んだ。

 烏貝七瓜。乙瓜の姉を自称する――少なくとも人間ではない何か。昨年の秋に美術部を襲撃し、部員を操って乙瓜の命を狙った恐るべき「敵」。
 ――あれから一切音沙汰無かったが、まさか今頃になって現れるとは。乙瓜は身構えつつ、袖の内側に仕込んだ札にそっと手を掛けた。
 そんな乙瓜の敵意を察したのか、七瓜はクスクスと笑うと電柱から一気に飛び降りた。そして通常の人間だったら何かしら怪我をしそうな高さから軽々と着地した七瓜は、傘を閉じて改めて乙瓜に向き直った。
「大丈夫よ。私は今日は戦いに来たわけじゃないわ」
「……信用できるかよ。一度自分を殺そうとした奴の言葉を」
「まあそうね。……じゃあ別に信用しなくてもいいわ」
 七瓜はちょっぴり不機嫌そうに地面を蹴ると、乙瓜に背を向けた。
「私は戦いに来たわけじゃないわ。だけどちょっと伝えに来たの。信用しないってのなら、別にそれでも構わないわ。お姉ちゃんの戯言たわごとだと思って流して頂戴」
「……だからお前のような姉を持った覚えはない」
「そう思うならそれでもいいわ。だけど私はあなたが飽きるまで妹と呼び続けてあげる。まあ、そんなことはいいから兎に角聞いて」
 七瓜はほんの少しだけ振り向いて続けた。
「怪事がね、これから溢れるわよ。学校だけじゃなくて街にも、家にも、どこにでも」
「……何? ……お前、そんな事言って惑わせようとしてるわけじゃねーだろな?」
「言ったでしょ、信じなくてもいいのよ。でも、どちらかと言ったら信じて欲しいわ。――だって、あなたさっき言ったじゃない。どこかに怪事ないかなって。よかったわね。叶うわよ、それ」
 そう言って、七瓜は再び傘を刺した。そのタイミングで街灯の明りが点く。どうやら日が沈んだらしい。
「確かなのか……?」
「あなたが信じれば」
 問う乙瓜に七瓜はそう答える。直後に何処からともなく一枚のカードのようなものを取り出した。
時間だわ、もう行かないと・・・・・・・・・・・・
 そう呟く七瓜の周りにどこからともなく何かが現れて舞う。それは、青い薔薇の花弁だった。
 風も無いのに七瓜の周りを飛び交う花弁は次第に数を増していき、いずれ七瓜を覆い隠す勢いだ。
 ――この花弁に覆い隠されてしまったら、七瓜はまたどこかへ行ってしまう。乙瓜は直感的にそう思い、引き止めるように手を伸ばした。
待て・・! お前その情報どこから……!」
 しかし薔薇は勢いを止めぬまま、七瓜の姿は殆ど見えなくなって行く。そして七瓜は最後にこう告げた。
「あなたの契約者に伝えておいて。魔女ヘンゼリーゼがよろしく言っていたとね」
 その言葉を最後に薔薇の嵐は掻き消え、七瓜の姿もまた跡形もなく消え去っていた。後に残されたのは立ち尽くす乙瓜と、自転車のみ。
 ――それはまるで、夢幻のように。七瓜の痕跡は何一つとして残っていない。……だが、乙瓜は覚えている。
 彼女は確かにそこに居て、確かにそれを告げたのだ。


 空に星の火が灯る宵入りの頃。それは静かに始まったのだ。
 非常と日常の狭間で夢見るように、夢見るように。

(第一談・非常日常トロイメライ・完)

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