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ロクマルヨンゴー

黒蛇の呪、雪の垣根 下

 ランドセルを背負って歩く、学校までのいつもの道。いつも通りの朝。
 出かける前に見た鏡の中、あたしの目は相変わらず真っ赤だった。だけど、お外はこんなにも平和。特におかしな様子もない景色。鴉の大群もいない。
 時々、電柱の上にバサバサと飛んでくる鴉や鳩を見てびくりとするけど、でも大丈夫。これくらいならまだ普通。
 神棚の神様ありがとう。あたしは産まれて初めて心の底から神様に感謝した。

 教室に入ると、二十人足らずのクラスメイトはもう半分以上席に着いていて、昨日のアニメの話だとか、最近出たゲームの話だとかで盛り上がってる。マセた女の子はアイドルとかファッションの話に花を咲かせてるけど、あたしはまだどっちかってと漫画やゲームの方が気になる。
 そもそも、お洒落だってぜんぜんだし、髪の毛も結えるほど長くないし、クラスのかわいい子見てても自分がああいう風になるってイメージ湧かないんだよね。少なくとも今の所は。
 ……なのに、なんで。
 なんであの神社のおっかない神様は、あたしのことなんかお嫁に取ろうとするかな。

 親しい子たちにおはよって挨拶して着席。そうしてから「はーあ……」っと大きな溜め息を吐く。
 頭の中をぐるぐる回るのは、昨日の不思議体験。神社でのこと、鴉のこと、そして出会った不思議な子・ガッキのこと。
 あたしを助けてくれたあの子は、一体何者なんだろう。
 綺麗な翡翠みたいな色をした瞳、優しい言葉。もしガッキがいなかったら、あたしは今こうして学校にいることはなかったろうし、家に戻ることすら出来なかっただろう。
 ガッキがいなかったら、今頃――
 想像してゾッとすると同時に、改めてガッキに感謝するしかなかった。

 ……そうだ、あの子にも何かお礼がしたいな。何がいいかな。
 考える内に先生が入って来て、いつも通りに『朝の会』が始まった。



 六時間目の授業が終わり、あたしもみんなもいそいそと帰り支度をはじめた。
 昨日あんなことがあったからか。授業中も休み時間も、どこかで何か起こるんじゃないかと思えて、心の中はあまり穏やかじゃなかったけれど、何とか無事学校での一日を終えることができたみたいだ。あたしはほっと一息吐く。
『帰りの会』で先生が配布物を配り始め、前から後ろへと何枚かの紙が渡る。
 学校から親へのお知らせのプリント、町の広報紙、どこかの方でやってるイベントの告知なんかを適当にクリアファイルに突っ込みながら、帰る前の先生からのお話を適当に聞き流していると。

「ところで、これは今日のお昼頃あったばかりの話だけれど、蛇沼へびぬまにある神社に泥棒が入って、ゴシンタイが盗まれたそうだ。みんなの家でも戸締まりに気をつけるよう、家族の人にちゃんと伝えるんだぞ」

 ――……え?

 いま、なんて。いまなんていった?

 蛇沼の、神社。それって、それって……もしかして、もしかしなくても……あたしが秘密基地にしてた、昨日神様に襲われた神社だよね?

 え? わけわかんない。えっ?

 ゴシンタイって、御神体だよね? 神様が宿ってるっていう、あの御神体。
 盗まれてた? なんで? 何のために?
 あたしは秘密基地にしてたときに見たことあるけど、なんか妙ちきりんな銅の板だったよ?
 骨董品っぽいっていったら雰囲気あるけど、わざわざ田舎のボロ社から盗むよりもっと綺麗なお宝が別のところにあるんじゃないの?
 なんで、なんでよりにもよって、なんであの神社なのさっ……!

 ……すごく、やな予感がする。

「……ねえ、ねえってば」
 隣の席のチカって子が、心配そうにのぞき込んできた。気付けばみんな帰りの挨拶のため起立していて、座ってるのはあたしだけだ。
「顔真っ青だよ、だいじょおぶ?」
「え……ぁ……」
 まともな返事が返せない。それどころか体全体に力が入らず、立つこともできなかった。
「大丈夫か戮飢、少し休んで行くか? すまん、だれか、保健係。戮飢を保健室に連れて行ってあげてくれ」
 先生の声で、すぐに保健係のミヨさんが駆けつける。
 ミヨさんとチカと二人がかりであたしを立たせると、両サイドでしっかりと支え、三人でゆっくりと人保健室に向かって歩き始めた。

「どったん遊嬉ちゃん、夏風邪?」
 廊下に出ると、チカが聞いてくる。あたしはふるふると首を横に振ると、「少し目眩がしただけ。すぐなおる」と、やっと出せるようになった言葉で嘘をついた。……どうせ本当のこと言ったって、信じてもらえないだろうし。
「そっかァ。んでも、いちお・・・熱測って、あったらおうちの人に迎えにきてもらったらいがっぺ」
 チカはほんの少し安心したみたいにニコリとした。ミヨさんは「あーたは先生か……」と呆れ顔だった。
 だけど、「あんま夜遅くまでゲームやってるからそうなるンだよ。小学生は早く寝ろ、成長止まるぞ」なんて言ってるミヨさんも大概だと思う。

 そうしてやっとたどり着いた保健室、二人は保健室の先生にあたしを丸投げして、お大事にねなんて言いながらそそくさと退散していった。薄情なやつらだ。

 保健の先生が渡してくれた体温計がピピピと音をたてる頃。どの学年でも帰りの会が終わったのか、窓の外には校庭で遊んでいる同級生や上級生の姿が見える。
 いいなあと思いながら見た小さな液晶には「38.6℃」の文字。どうやら気持ち悪いのは気分の問題だけではないらしい。
 先生にも見せると、「お家に電話して、迎えにきてもらいましょう」ということになって、迎えが来るまでベッドで寝ていることになった。
 今日日詐欺なんかがあるからか、職員室の電話からかけに行った先生を見て、あたしは「学校に自分のケータイ持ち込めたらすぐ連絡つくのになぁ」と思っていた。なんだかなあ。


 大した用事でもないのになかなか戻ってこない先生を待ちつつ、熱でぼんやりする頭で何を考えるでもなく天井を眺めていると、ドアがガタンと鳴った。

 先生が戻ってきたのかな?
 緩慢な動作で首を動かすも、ドアの所には誰もいない。それどころか、開いた形跡すらない。

 ――えっ?

 頭の中の霧が吹き飛んだような気がした。高熱から来る眠気が一時失せ、両の目をカッと見開いた、その時。

『みイつケタ』

 ――声。
 男のような、女のような、子供のような、お年寄りのような。あるいは、そのどれでもないような、何かの声が、自分の真上から降り注ぐ、降り注ぐ。

 いる、そこに、いる。

 だけどだめ、見てはいけない。本能的にそう思った。
 わかっている、わかっているけど、あたしの目は、体は。まるで操られているかのように、じわじわとそれの方向を向いていく。

 嫌だ、厭だ! 見たくない!

 だけど体はもう自分の言うことなんて全く聞いてくれない。瞼を閉じることも手で目を覆うことも出来ない……!

 たすけて、たすけて!
 大声で叫びたかった。先生でも校庭に残っている子たちでも、誰でもいいから助けを呼びたかった。だけど声は出なかった。口が動かないのだ。


 もう駄目だ。もうそれを見てしまう……!


「申し訳ないけどその辺にしてもらえないかい? 見苦しいったらありゃしない」

 また、声。
 同時にヒュン、と。何かが勢い良く風を切る音がした、直後。

『あ゛あぁ゛ああぁア゛あ゛あァあああアああァああ゛アア゛ァぁ゛アあッ!!!!』

 物凄い叫び声とともに、あたしの体に自由が戻る。今更ながら瞼が降り、頭上の絶叫に耳を塞ぐと、叫びはやがて黒板を引っ掻いたように不快な声に変わった。

『おのれ、おのれアヤカシ如きが何をするか! 何故邪魔立てする!』

 凄まじい怒りを帯びた言葉。それを向けられているだろうもう一つの気配は、平然としていてちっとも怯む様子がない。

「……はあ、なんとまあ嫌な神だろうか。拒み逃げた少女を自ら捕まえにくるなんて、なんとまあ堕ちたことか」

 その声を聞いていて、あれっ、となった。
 あまりに急なことで気づかなかったが、そうだ、これはガッキの声だ。

「ガッキ? ガッキなの!?」
 呼びかける。目を再び開こうとする。
「駄目だ遊嬉ちゃん、目を開けちゃあ駄目だ! みてしまう・・・・・!」

 思わぬ強い制止にあって、あたしは開きかけた目を再びぎゅっと閉じた。
 真っ暗な視界の中、すぐ近くから電波の悪い雑音のような声が響く。

娘子ムスメゴよ、ならぬならヌ、ダマされてはならぬ。あやつは、あれはアヤカシぞ。ヒトを食らうぞ、肉ヲ食らうぞ。お主のことも食らうぞ。あなおソろしヤ、オそろしや』
 ゼイゼイと苦しそうな喘ぎが混じるも、どこか勝ち誇ったように声は謳う。
『娘子娘子、我の妻になれば退屈はサセぬ、哀シませぬぞ。わレとトもにこの地にずっと暮らそう。もし欲しい物あらば与えるぞ、何一つ不自由させぬぞ。心配ない。病苦もなく、老いもセず、ずっトずッと共にアろう。娘メごノ一族にも恩けイをやろう。沼を家としコノ地をより良き場所にシよう』

 猫なで声でそれは言う。

「遊嬉ちゃん駄目だ、聞いてはいけないッ!」

『口出しするなアヤカシ風情ガ! この地に生まレシ娘なれば、我ニめトられるコトこそが最大のほまレというもの! ね! 下賤のアヤカシよ去ね!』

 それが威嚇するようにシャァッと鳴くと、保健室の空気はびりびりと震え、窓や扉はガタガタと、棚の上に置いてある消毒液の瓶はゴトゴトと音を立てて揺れた。
 大きな地震でも来たかのようなその気配に、あたしはただただ怯えることしかできなかった。

『渡さぬぞ、返さヌぞ! この娘ハ我の妻ぞ!』
 それが尚も吼えるのとほぼ同時、あたしの体になにかひやりとしたものが触れる。冷たくて、つるりとしていて、なんだかとても気持ち悪い。
 そんな気持ち悪いものは、目をぎゅっと閉じているあたしにぐるぐると巻き付いていく。蛇のように、蛇のように……!

 そうだ、そうだった。

 あたしは何故か忘れていた、昨日見たモノの姿を思い出した。

 あれは、あの神社の神様は蛇だったんだ。真っ暗な空間の中、蜷局を巻いてあたしを見下ろす黒色の大蛇……!

「やぁ…だ、たすけ……ッ!」

 大蛇があたしを絡め取り、体は持ち上げられるように宙に浮かぶ。あたしは辛うじて自由な右腕を必死で伸ばす。恐らくはガッキが居ると思われる方に向かって、精一杯に手を伸ばす。その間にも蛇神の不快な笑い声はゲラゲラと響いている。
 下品な音響の中、小さな溜め息が一つ。

「――はあ。蛇神よ、……いや、元はこの地に棲む大蛇か。女子供を取って喰らうので退治され、荒ぶる御霊みたまを鎮めんと祀り上げられてなおも鎮まらんか。を下賤のアヤカシと貶すけれど、果たしてお前のような禍神とどちらが下か」
『黙れタケのひメ、卑しく穢レた家畜メ! このムスめゴに先に手を付けたのハ我だ、我ノ勝ちだ、我の勝ちダ、貰って行くぞ、貰って行くぞ!』
「お前は『魔王』か。……はぁ」
 呆れたような溜め息が再び。そして、ガッキは。

「離さないなら仕方ない、交渉はなさないなら仕方ない。どんなモノだろうが神の類と見て譲歩してやったけれど、どうにも我慢ならねぇな」
 静かだけど、呆れと怒りを含んだ冷徹な声が保健室に響く。スゥーーッと何かと何かが擦れるような音と、シャリンという金属音が続く。
「遊嬉ちゃん! 決して目を開けないで! 必ず助けるから、おれが「いい」と言うまで、決して目を開けるなよ!」
 ガッキの言葉に、あたしはここから助かりたい一心でコクコクと頷いた。

『愚かなリ竹のヒめ、そノ細クか弱キ身で神に刃向かうか! ばけモノの分際でヒとを救うか!』
 蛇が一層強く締め付け、その苦しさにあたしは呻く。

「否、貴様などは神ではない、貴様などは神ではないッ! 今、この私が定義した!」

 一瞬のことだった。
 水を打ったような静寂があった。
 その、数秒の後。

 締め付けられる圧迫感が失せ、あたしはベッドの上に落下する。
 げほげほと咽せ、自由になった肺に空気を取り入れる。
 まだ目を開けていいとは言われていない。けれど、あたしはうっかり目を開けてしまった。

 やっと戻った視界の中、あたしが見たのは。

「失せろ」
 そう冷たく言い放つガッキの姿と、どこから出てきたのだろう、カタナ――日本刀を突き立てられてボロボロと消えていく大きな蛇の頭だった。
 ガッキはこちらをチラリと見る。その顔の半分には血のような液体がべとりと付いている。あたしは少し驚いて声を漏らす。ガッキは少し困ったように笑うと、言った。
「見てはいけないと言ったろう?」
 少し寂しそうな声だった。そしてそっと何かを隠した。
 でも、あたしはもう気づいてしまっていた。

 ガッキの左腕が、人間のものではない形をしていたことに。

 俯くガッキの顔は長い前髪で隠れてしまっている。ふと見ると、ガッキの腕は普通の、人間と同じ腕に戻っていた。

「……ごめん。騙すつもりはなかったんだ――」
 右手で左腕をぎゅうと掴んで、ガッキは言った。

「――びっくりさせてしまったね」

 再び上げられたらガッキの顔、その瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。……見られたくなかったんだ。
 でもあたしは、ふるふると首を横に振った。それを見たガッキは意外そうに目を見開く。
「怖く、ないのかい?」
「助けて……くれた……助けてくれたでしょ。怖くないよ怖くないよ」

 もらい泣きって言うのかな、何故かあたしの目にも涙がうかんできた。色々ありすぎたからなのか、今更になって色んな感情がドッとこみ上げてきて止まらない。
 目に溜まった涙はやがて大粒の雫になって、ぽろぽろと頬を流れ落ちていった。

「助け……呼べないっておもったとき……こわかったぁ、……こわかったよぉ……っ!」
 しゃくりあげて上手く言えない。でもここで何か言っておかないとガッキが居なくなってしまうような気がして、あたしは兎に角言い続けた。この気持ちを伝えたいと思った。

「でもっ……でもぉッ! がっき、来てくれてっ、そのとき……一番、一番ね、嬉しかった」
 泣きじゃくりながら、でも本当のことを伝える。嬉しかった、本当に嬉しかった。

「あたし、ガッキがぁ! お化けだってなんだって、きにしないから……ッ! ……ありがとぉ、……ありがとうガッキ」
 涙でぐしゃぐしゃの顔で精一杯、笑顔を作ってみせる。
 いつの間にか、ガッキはすぐそばにいて、涙を掬うようにあたしの頬をそっと撫でた。

「……馬鹿だなあ、こんな『お化け』に感謝したって、何もいいことないぜ?」
 呆れたように言うガッキに、だけどあたしは言ってやるのだ。

「『友達』は、いっぱいいたほうがいいって、先生言ってた」



 ふと気がつくと、ベッドの隣にお爺ちゃんと保健の先生が立っていた。

 保険室は何でもない様子で、壊れているものもないし、蛇の血も死体もどこにもなかった。ガッキの姿も。

 心配したとか大丈夫とか言うお爺ちゃんと先生の言葉も碌に聞かず、あたしの目はキョロキョロと保健室を見渡すけれど、やはりガッキはいなかった。

「先生、あたしの他に誰かいなかった?」

 聞くと先生は不思議そうな顔をして、「遊嬉ちゃんの他には誰も居なかったよ」と言うのだ。
「先生すぐに戻ってきたんだから、誰かいたら気づくよ。それに、遊嬉ちゃんぐっすり寝てたじゃない。夢でも見たんだね」
 などと言って笑う先生。

 ……あれ? もしかして、夢?

 あんなにリアルだったのに、あんなに怖かったのも、あんなに嬉しかったのも、全部全部ーー夢?

 ベッドから起き上がって呆然とするあたしの手を牽き、お爺ちゃんは言う。

ぇっぞ」

 釈然としないまま帰宅。
 全部が夢、昨日からのこと全部が夢だったとしたなら、大勢の鴉も赤い瞳も全て夢……ガッキも夢。

 あまり信じたくなかった。自分の部屋の中でずっと呆然としていた。

 ふと思い出してケータイの着信履歴を見ると、昨夜の電話は無かったことになっていた。

 ――やっぱり、あたしの夢だったんだ。
 いや、一度は確かに夢であれと願った筈なのに。なのにどうして、……涙が零れた。

 食欲のないまま夕飯の席、学校で熱を出したからということで出てきたお粥はあんまりおいしくない。
 ぽそぽそと食べていると、お爺ちゃんがふと妙なことを言った。
「そういやな、蛇沼ン所の神社の御神体、けえってきたんだと」
「あんらまあ、泥棒捕まったんです?」
 お母さんが反応すると、お爺ちゃんは首を横に振る。
「泥棒は捕まってねぇげんどよ、粉々におっ壊れた様で社の中に戻してあったんだど」
「やだわ、罰当たりなことするもんもいるんですねえ」

 二人の会話にハッとする。

 盗まれた御神体、壊れた御神体。
 ガッキが倒した蛇。
 やっぱりあれは、やっぱりあれは――!

「夢じゃ、ない?」
 驚きを押さえきれず漏らした言葉は、家族の誰にも聞こえていなかったようだった。