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ロクマルヨンゴー

シールブレイク

04.”聖典”と”封印の破壊者”

 そもそもとして。

 赤楝蛇海音が聖典その本を手に入れたのは、去る六月。梅雨の雨がしとしとと降りしきる放課後、借りていた本を図書室に返却しに来た折のこと。
 その放課後、図書室は海音以外まったくの無人だった。図書委員も、こんな田舎まで配属が間に合わない司書教諭代わりに番をしてくれている教師の姿もない。

 だが、それ自体は特に不審な事ではなかった。

 はっきりとした規則でそうなっているわけではないが、古霊北中学校では生徒も教師も部活動を優先していた。とはいえ禁止されているわけではないので放課後に図書室を利用できないわけでもないのだが、貸出等は昼休み中の開放時間に行われるのが通例だった。
 この学校の図書室がそういったきまりで動いていることを、海音は当然知っていた。
 それでも担当の何某かが居る昼休みではなく放課後になって立ち寄ったのは、その日の昼に生徒会全体に臨時の召集がかかったからに他ならない。
 そうした正当な理由があるため、例え海音が今日中に本を返却出来なかったとて咎める者は殆どいないであろう。且つ、海音が借りていたその本は特に人気の児童文学書というわけでもなく。個人的な調べものの為に借りていた専門書だったので、一日や二日返却が遅れた所で、管理責任を問われる図書委員以外誰も文句は言うまい。
 だというのにこうして決められた期限内に返却しに来る生真面目さが、彼女が生徒会長なぞという大抵の人間が面倒がって避けたがる仕事を務めていられる所以の一つだろう。

 どんな理由であれ一度決めたことはやり通さなくてはならない。それが彼女の信条だった。
 よくも、悪くも。

 カウンター上にぽかりと口を開けている返却ポストに本を投函し、海音はやるべきことを果たせた安堵に溜息を吐いた。
 やるべきことが一段落すればまた別のことに意識が向かうのは自然なことであり、彼女の足は次なる『丁度の本』を見繕う為に書架へと向かう。
 本の返却がそうであったように、貸出カードの記入と提出さえ怠らなければ担当者が不在でも本を借りる事はできた。また、最終学年を迎えた彼女は受験勉強の為というていで所属していた科学部を半ば引退した状態にあり、気の向いた時に足を運ぶことはあっても不在を咎められることはない。

 海音は本を愛していた。厳密に言えば本ではなく、本の中に在る膨大な文字列を愛していた。
 彼女にとって文章の世界は実に気持ちのいいものだった。彼女に取って本は、無意味な嫌味を言ったり意地悪をすることなく知識だけを的確に与えてくれる友であった。それが物語つくりばなしだったとしても、文字の流れの向こう側で起っている非現実的な出来事に思いを馳せれば、現実の多少嫌な所を一時だけ忘れられた。

 赤楝蛇海音はきっちりとして、模範的で、社交的で、優等生でありながら、そうである自分が嫌いだった。
 無難で、面白みがなくて、テスト勉強は出来ても多少知識をつけても秀でた才能はなくて、美人でもなくて、普通で。そんな自分の『現実』が嫌いで、それを忘れるために本を読み漁っていた。
 
 無難で、普通。
 それでも彼女の常識的で無難な一面は、「このままでいいじゃないか」と思っていた。いと書いて無難、特別でなくても困難がないならそれは幸せだと。理解していた。
 だが一方で、彼女の中のある面が叫ぶのだ。「このままで本当にいいのか」と。それは幼い頃は殆ど誰しもが持っていた夢見がちの心。現実と向き合うにつれてやがて薄れて行ってしまう、大それた夢を叫ぶ心。
 ――無難なまま大人になってしまっていいのか?
 それはこれから努力や経験を重ねて何某かになるのが嫌ということではなく、たぶん、

『大人』になることそのものへの、幼く漠然とした反抗だった。

 そんな気持ちを胸のどこかに抱え続けていた彼女は、ある時期からオカルトにハマっていた。
 時代の空気もあったろう。狭い日本で立て続けに起きた大災害、テロ事件、同年代の少年が起こした凄惨な事件。暗い事件と経済不況に寄り添う陰謀論と、迫る世紀末の予言。
 自分の未来から目を逸らすように、海音は少しずつオカルトにかぶれていった。雑誌の占いから、怪しげなおまじないから、少しずつ。
 勿論根っから信じたわけではない。『逃避』だった。こんなことしてどうなると思わなくもなかった。でも、何かが起って欲しかった。今まで普通だと思っていたものを少しでも壊してほしかった。
 だから、やがて現れた猫又由香里という同士と共に様々なことを密かに試し、検証し、ままならぬと頭を抱え続ける。それが彼女の日常になっていた。

 そこまでで終わっていたなら、後々もっと『大人』になったときに思い返して苦笑いするような、青春時代の痛い思い出で済んだだろう。大なり小なり何かしらやらかすのはそこまで珍しいことではない。

 だが、彼女らの場合それで終わらなかった。

『丁度の本』を捜していた海音は、見つけてしまった。
 見慣れた書架の中にポツンと佇む、見慣れない古めかしい一冊。吸い寄せられるように手に取ったその本のタイトルが、海音の心をひどく惹きつけた。

『現実の壊し方』

 古印体のおどろおどろしい文字列はともすればライフハック本のようにも見えるが、自分の願望を見透かしたようなそのタイトルと対面して、彼女は思わずぞくりとした。
 一瞬後には誰か自分の思想に気付いた者が仕込んだのではないかと思って辺りを見回すが、やはり図書室内は自分を除いて全くの無人であり、誰かが潜んでいっる気配はない。
 その状況をどこか不気味に感じつつも、彼女はその本を手放す事ができなかった。
 周囲の本に比べてあまりにも痛んでいるその本を慎重に開き、裏表紙裏を確認する。そこに貸出カードとそれを収めるためのポケットがないことはやはり不審ではあったが、……ならそれはそれで都合がいい、どうせ誰も見ていないのだ。そう考えて、海音はその本をそっと鞄の中に忍ばせたのだった。


 その晩、彼女は大いなる衝撃を受けた。

『現実の壊し方』は、彼女が過去に目にしてきた神秘体験や占いまじない本の類ではなく、かといって物語や、ましてやライフハックを記したものでもなかった。
 そこに記されていたのは、この町の暗い歴史。古霊北中学校の成り立ち。
 かつてミトウの森と呼ばれた場所に存在した『黄泉に通ずる大穴』、大霊道と、その封印と復活の繰り返しの歴史。
 各所に残る禍々しい伝説。旧家と呼ばれる家々に伝わる禁忌と呪い。この町の四大寺社、居鴉寺、神逆神社、童淵神社、夜都尾稲荷神社。それらが何故特別視されるようになったのか。
 大人が伝えなくなって久しい、否、大人ですら知らないような禁忌の歴史すらもありありと記し、その本は他ならぬ海音に語り掛けていた。

 ――『古霊北中学校内の封印を壊せ』
 ――『それはきみたちにしかできない』
 ――『その方法、期日は……』
 海音はその言葉を信じた。誰かの仕込みにしてはあまりに手が込んでいて、故にその気になってしまった。
 そして、どんな理由であれ一度決めたことはやり通さなくてはならない。それが彼女の信条だった。

 彼女は由香里にそのことを話し、二人で本を回し読みしてその内容を頭の中に叩きこんだ。
 海音と由香里が本の中身をすっかり覚え、本が本としての体を成さなくなってしまったとき、二人の前に一人の奇妙な少年・・が現れた。彼は二人の『計画』を成すべき日付を告げ、彼女らの目の前で煙のように消えてしまった。
 あからさまな軌跡を目の当たりにした彼女らの中で、本は聖典へと昇格した。密かに動き出した計画は夢見がちな少女の夢想を遥かに超えて形を成しつつあった。

 そして迎えたその日、彼女らは一線を超えた。
 平和で無難な世界に別れを告げ、忌まわしき封印を破り。派手で混沌とした終末を迎えるために。
 古霊北中学校に数多存在する不思議の一つ、『開かずの会議室』の扉を破り。その内にある大霊道の封印祭壇を破壊した。

 それが開戦の狼煙のろしだった。――そうだとしても。

「私はね。無難で普通で模範的で社交的であることをこの先一生求められるくらいなら、全部が壊れてもいいと、もう決めてしまったんだ。それを愚かだと思う私が、後悔している私が、……私の中にはまだ生きているけれど。由香里。君はそんなを殺してくれるかい?」
 滅茶苦茶になった『開かずの会議室』で。箒片手に肩で息をする海音の呟きに、由香里は笑ってこう答える。
「いいよ。海音が私のことも殺してくれるなら」
 その言葉に海音は笑って、由香里に向き直って――そして聖典に記されていたもう一つの禁忌を犯す決心をした。

 聖典には記されていた。封印を破り世界の均衡が崩れた時、それを正すために現れる『敵』の存在が。
 二人の願いを叶える為には、それを迎え撃たないといけない。だから彼女らは戦うための力を得ることにした。
 その為に、誰かの命を生贄に。
 ヒトでない『敵』を迎え撃つために、ヒトの道を外れたヒトデナシになってヒトを超える禁忌の呪法を実行する。

 その為の丁度の人間が、そう。鶉と目白だったのだ――