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ロクマルヨンゴー

シールブレイク

02.蛇と猫

 赤楝蛇やまかがし海音うみねについて特筆して語ることがあるとするならば、彼女が古霊北中学校の当代生徒会長である、ということくらいか。
 彼女はその出生も家庭もごくごく平凡。元農家の祖父と町役場勤務の両親、小学生の妹、そして海音の五人家族。成績優秀、品行方正、スポーツは人並みで、悪い噂は特にない。
 学校では誰とでも分け隔てなく会話したし、極端な下品や陰湿さを含む話題を除けば、どんな話題にも嫌な顔一つせず合わせることもできた。
 故に彼女を悪しざまに思っている生徒は存在しないといっても過言ではなく、故に生徒会長に当選することができたのだが――いつだって周りに合せて『無難』に生きている彼女が普段何を考えているのか知る者は、ほぼ存在していなかったに違いない。
 海音は誰にでも合わせられる反面、自分の胸の内にあることをほとんど口に出そうとしなかった。
 話友達はそれなりにいたのに、常に行動を共にしていたのはたった一人だけだった。

 その一人こそ海音と同じ生徒会の副会長、猫又ねこまた由香里である。

 彼女は垢抜けない田舎娘ばかりのこの学校の中で、一際異彩を放つ存在だった。
 背はほかの女子たちより高くて、手足も海外モデルのようにすらりとしていた。その上化粧もしていないくせにトレンディドラマの主役に引けを取らないほど整った目鼻立ちをしており、めかしこんで都会にでも遊びに行ったのならアイドルかモデルにでもスカウトされそうな。そんな、常人とは何か違うオーラが彼女にはあった。
 入学して二年余りの間、彼女は常に男子たちのマドンナで、女子たちの羨望の眼差しを一身に受け続けていた。
 嫉妬から陰湿ないじめを受けかけたこともあったが、社交的な性格が幸いして友人が多く難を逃れ、三年生となった今では彼女に何かしらの危害を加えようとする者はすっかり鳴りを潜めてしまった。

 そんな由香里にだけ、海音は自分の胸の内にある思想を打ち明けていた。
 彼女だけが海音の大凡世間受けしないであろう特異・・な思想を受け入れてくれた、ただ一人の理解者しんゆうだった。



 1990年代後半、激動の二十世紀も残すところ数年となったその時代。
 後世となっては信じ難いことではあるが、かのノストラダムスの大予言は広く信じられていた。
 否、大半は信じていなかったかもしれない。半信半疑や、一種の「面白ネタ」・話のタネぐらいにしか思っていなかっただろう。『1999年7の月に恐怖の大魔王が――』だなんて、この後十年二十年ほど後のカジュアルな価値観から言わせてしまえば、「中二病」「ポエム」の一言で片付けられてしまうだろう。
 だが、後の世で「そんなもの」と片付けられてしまうものについてテレビで特番が組まれていた時代は確かにあった。マンガやアニメの題材やアイデアモチーフにもなった。1970年代の超能力・心霊写真ブームから浅く深く波を刻みながら続いていたオカルトブームもこの「予言の時」を前に勢い付き、ほぼ毎週のように「そういった」ものを放送していた番組があった。ある種スターのようなおなじみの霊能力者も確かに存在した。
 その内何割が本物であったかは定かではない。番組で寄せられる体験談や心霊写真の内、多くは自己顕示欲や採用賞金目当ての贋物だったかもしれない。
 だとしても――
 当時の多くの子供たちはそれを信じていた。
 だから無邪気にスプーン曲げを試みたり、霊が視えると言ってクラスの注目を引こうとしたり、終末の訪れを信じて奇行に走ったり。
 そんな怪しく不可思議な時代が、確かにあったのだ。

 1998年7月、『予言の時』まであと一年。  彼女たちは、そんな時代に生きていた。

「私は本気さ。本気でやるつもりだよ、由香里。君はどう?」
「勿論、私も。反対する理由なんて、ある? やるなら今、いましかない」
 
 夏休み前日の放課後・北中図書室。
 他の生徒が誰もいないそこで、海音と由香里は自分たちの決意を確認し合っていた。
 向き合って座る机の上には、古びた一冊の本が乗せられている。  日光に変色したページは何度も読み返したことで既に崩壊寸前。いや、一部の頁は既に落丁し、崩壊はもう始まっていると言えるだろう。
 だがそんなことは彼女たちにとって大した問題ではなかった。彼女たちの頭の中には、既に全ての頁の内容が一言一句漏らす事無く記憶されていた。
 故に彼女たちにとってその本は、抜け殻も同然だった。記録の零れ落ちた残骸。だがそんな残骸にも残骸なりの価値があった。少なくとも海音と由香里の間には。
 彼女らにとって、これは聖書だった。聖典、あるいはこれから成そうとしている儀式・・に必要不可欠な魔導書。最重要のキーアイテム。
 それを労わるように優しく手を置いて、海音は言った。
「この前、声が聞こえたんだ」
 主語はない。だが由香里には通じている。彼女は海音の言葉にコクと頷き、真剣な眼差しでこう返した。
「――そう、来るんだね。私たちの『敵』が」
「ああ。来る、もうすぐそこまで来ている。私たちの『敵』が」
 ――『敵』。物騒で、図書室の優等生二人には大凡似つかわしくない単語を挟み、少しの沈黙が二人の間に流れる。
 生徒もなく、司書すらなく、二人きりの図書室では誰も彼女らの会話に耳をそばだてない。故に「誰が」敵なのか、「何と」戦っているのか、そもそも「何の」話なのかを誰も蒸し返そうとしない。故に誰に説明する必要もない。この場の会話の全ては二人の間でのみ通じる符牒で作られていた。
 数十秒の沈黙と、窓硝子ガラス越しの蝉時雨の後、海音が静かに口を開いた。
「引き返すなら今しかない。君は引き返してもらって構わない。だけど由香里、私はやるよ。一人だけでも」
「愚問だね。私たちさっき確認し合ったじゃないか。私たちの運命は一蓮托生、世界が滅びる・・・・・・のも滅びない・・・・のも私たち次第。街に混沌を、世界に地獄を。そして最後の夏休みを笑って過ごそう」
 由香里は笑い、白い手を海音の手の上に重ねた。

 1998年、7月。
 彼女たちは約束をした。
 賢い二人はわかっていた。世間がどう騒ぎ立てたって、どうせ世界の終末が来ないことを。来年もまた明日の続きはまた明日。平坦でこれと言って事件も無く面白味もない日常が待っていると。……「なにもない」だなんて決めつけ、そんなこと誰も保障してくれないのに。
 だけど夢を語れるのは子供の内だけだ。どうせこないならこちらから起こしてやろう。
 ある時海音はふと思った。そして偶然か運命か、その為の聖典どうぐを手に入れてしまった。
 賛同者を一人得てしまった。
 超科学的な啓示を得てしまった。
 妄想は実現可能なものとして計画され肉付けされ、後戻りできない坂へ向かって転がり始めてしまった。

 ――あとはもう、この断崖絶壁にギリギリのところで止まっている背中に手を添えて、少し力を入れてやるだけでいい。
 今聖典の上で重ね合った二人の手が、まさに最後の一押しだった。
 だからもう後戻りはできない。忌まわしき封印を破り。派手で混沌とした終末を迎えるのを待つばかりだ。
 その背を押したのが、本当に自分たちの意思かどうかわからないまま。


 そんな彼女たちから数キロ離れた夏の暑い日差しの下、似つかわしくない長袖シャツをめくりもせずに立つ影が一つ。
「……まったく、近頃の優等生は破滅的で困る」
 は嫌そうに呟き、肩を揺らして長い石段を下った。