怪事戯話
第十五怪・怪火桜花の怪事戯話③

「いやあたまげたなぁ。満開だこれ」
 飛び出して行った前庭で見せつけるように咲き誇る桜の大樹を見上げながら、乙瓜が感心したように呟く。全ての枝に溢れんばかりの花をつけ、時折その余りを風に落とすその樹は、誰がどう見ても花盛りの様子である。しかし、改めて辺りを見渡してみても他の桜で花をつけている樹は一つもなく。蕾は膨らんできているもののまだまだ時を待っている、といった様子だった。
「これは……怪事か? ……いや、怪事なんだろうなぁ。だって他の桜は一本も咲いてないんだし」
 乙瓜の傍らに立つ魔鬼は、そう言って腕組みした。腕組みしつつ、ゆっくりと桜の樹を見上げる。
 少なくとも魔鬼が今朝登校した時には、この桜も他の桜と同様に蕾の状態だった。それは授業中や教室移動時にふと外を見た時も変わりなく、少なくとも先程慈乃が指摘するまで花の一つも付けていなかった筈なのだ。仮に微細な条件の違いでこの樹だけが季節を早とちりしてしまった為に起こった自然現象だとしても、ほんの数分で満開の状態になるだなんてまずあり得ない。これが怪事であることは、おそらく間違いはないのだろう。
 魔鬼は桜を見ながらどうしたものかと考える。頭上に広がる白とも薄紅ともつかぬ花弁の群れは幻想的で、油断すると吸い込まれてしまいそうな気さえする。
 桜に纏わる怪談なら、魔鬼も幾つか知っている。有名なのは「桜の樹の下には死体が埋まっている」と云うものだろうか。
 ――桜の樹の下には死体が埋まっている。死体から養分を吸い上げているので、桜は綺麗に咲くことが出来る。吸い上げた血の色で花が染まる。そんな話だ。
 この話は全国各地の学校や桜の名所で実しやかに囁かれているが、無論、その怪談の伝わる全ての地の桜に死体が埋まっているなんてことはあり得ない。一つ元ネタのようなものがあって、そこから怪談として広まったのだろう。それは確か小説だったかと、魔鬼は記憶している。
 しかし、だからこそ。魔鬼にはどうしたらいいか分からなかった。
 目の前の桜に起こっている怪現象。それが仮に「桜の樹の下に~」という怪談が元で桜を咲かせているのだとしたら、解決する為に何を叩けばいいのだろうか。そもそも早咲の桜と死体云々の話が関係あるとも言えないし、それはそれで原因不明だ。
 魔鬼はつい先刻まで皆で慈乃に話していたこれまでの怪事を改めて振り返る。思えば、今まで魔鬼と乙瓜が遭遇した怪事ときたら、何かしらの意思や人格のようなものがある妖怪や幽霊が主たる原因であり”原因不明の現象そのもの”というパターンは殆ど、否、全く無かったのでは無いだろうか。合宿先の青年館の怪事ですら、館に巣食う悪霊の意思が大きく関与していた。
 だが、今回は違う。目の前にあるのは只の不思議な”現象”である。
(参ったな、こんな時ってどうすればいいんだろう……)
 最早お手上げ状態の魔鬼は隣を見る。並び立つ乙瓜もどうしたらいいか分からないと言わんばかりの表情で、睨むように桜を見つめている。
「きれい」
 途方に暮れる二人の背後で声がした。魔鬼は振り返る。そこには眞虚が居た。
「きれい。本当に、きれい」
 眞虚は再び惚けたような声で言う。その目は完全に桜の花へと向けられており、振り向いた魔鬼の事などまるで眼中にない様子だ。
 気付けば、美術部の他の面々も桜の下に立っており、皆魅せられたように花を見て、熱に浮かされたようにその美しさを讃えている。
 そんな、蜜に群がる虫のように集う部員達の間を縫い。火遠がすっと姿を現した。
「おやおや、皆魅せられてしまったようだね?」
 クスクスと笑いながら魔鬼と乙瓜の間に立った火遠は、乙瓜の方を見て溜息を吐いた。火遠の視線の先で、乙瓜は一心不乱に桜の花を見つめている。火遠が来たことなど微塵も気にしていない様子だ。
「なんだ、お前まで魅せられてるんじゃないよ。ほら、目を醒ませ」
 そう言うと、火遠は乙瓜の頬を軽く叩いた。ぺしっという小気味のいい音の後、乙瓜は顔をしかめ、そこで漸く桜から目を離した。
「いっつ……何すんだ!」
「朝ビンタ健康法」
「流れるような嘘吐くな、今は朝でもないし健康法じゃないだろがっ」
 憤る乙瓜に、火遠はやれやれと肩を竦める。
「何言ってんだ、ミイラ取りがミイラになる前に呼び戻してやったんだから、感謝はされども怒られる謂れは無いぜ?」
「ミイラ取り……?」
 乙瓜はそこにきて漸く桜の花に魅せられるように集まる部員達に気付く。それに加え屋外で活動していた運動部の面々も幾らか集まり始めている。
「大変なんだよ、なんかどんどん集まって来てるんだよ!」
 魔鬼が焦ったように言う。そのその間にも人は次々と吸い寄せられるように集まり続けている。皆一様に放心したような顔で樹を見上げ、それ以外の事等眼中に無いようだった。そんな異様な状況に、乙瓜は一瞬にして状況を把握して青褪める。
「もしかして、このまま皆桜に食べられちゃうんじゃあ……」
「うあええええ……! このままじゃ私らも巻き添えじゃんかーー!!」
 既に辺りは人だらけ。正気を保っている二人も逃げるに逃げられない状態であり、火遠は火遠で人の波に巻き込まれてどこかへと姿を消してしまった。とんでもない怪事に出くわしてしまったと、体を寄せ合いながら震える二人。そんな彼女たちの前で蠢く人集りの波が、何の前触れもなく二つに割れた。
 まるでモーゼの奇跡のように。惚けたように群がる群衆が、さっと左右にばらけ、人一人分の”道”を作り出したのである。
 その様子を見て、驚きのあまり目を見開く魔鬼と乙瓜。そんな彼女たちに向かって、”道”の向こうから一つの人影が近づいてくる。
「いやあ、本当に。希少な現象だと聞いていたけど、ここまで”魅力”の強いものだとは。お陰で基調なデータが取れました」
 ザッザッと土を踏む音に混じり、ぺらりと紙を捲る音。カリカリと書き物をする音の後に、バタンと重い音。その音が、ハードカバーの本を閉じた音だと二人が気付くのに、さして時間はかからなかった。
 もうその姿は目の前に見えている。分厚い本とペンを持ち、眼鏡を掛けた小柄な姿。妖怪事幽霊事を書き記すのを生業としていると称する珍奇な妖怪、慈乃。
 彼はニコリと微笑むと、二人の前から改めて辺りを見渡し、「それにしてもこれでは少し煩わしいですね」と呟く。
「おまっ……悠長な事言ってる場合か、このままじゃみんなヤバイぞ!」
「そうだそうだ、全員食べられたらどうしてくれんのさ! ていうか何なんだこの桜! お前何か知ってるんだろ!」
 口をそろえて訴える乙瓜と魔鬼に、慈乃は苦笑いする。そして一言。
「この桜は人を食べたりしませんよ」
「……は?」
「……何?」
 ぽかんとする二人に言い聞かせるように、彼はもう一度告げた。
「この桜は人を食べたりしません。これは古霊北中七大不思議の一つ、”思い出桜”という怪事です」
「「思い出桜?」」
「ええ」
 ハモりながら聞き返す二人に頷き返し、慈乃は語り始めた。
「この、通常の開花期よりも少し早く桜の咲く現象は、北中で不定期に起こる怪事・思い出桜に相違ちがいありません。尤も、前回この現象が記録されたのは30年程昔の事なので、お二人が知らなくても無理はありません。そもそも、この怪事を知っている世代の方が希少レアでしょう。それでも七大不思議の一つとして数えられているのは、偏にその怪事の特異性にあるでしょう」
「特異性……?」
「ええ。魔鬼さん。この怪事はご覧の通り人を寄せます。各地に伝わる”トイレの花子さん”や”音楽室の眼の光る肖像”等の学校の怪談は確かにメジャーではありますが、誰にでも観測できるものではありません。多くの学生を恐怖させはしますが、大人たちより幻想の世界に浸かり易い子供達にとっても半信半疑の存在です。ですがこの”思い出桜”は違う。多くの人間に一度に観測されることによって、彼等の”思い出”に住み付きます。確かに起こった不思議な現象として、人間の脳味噌の中に死ぬまで寄生し続けます。だからこそ強い・・・・・・・
 慈乃はそこで一旦区切り、眼鏡をくいと上げて桜を見た。
「魔鬼さん、乙瓜さん。この桜は幻です。地下深く封印された大霊道の力の一部を吸い、妖怪と化した桜の樹が思い描く尤も美しい桜の姿を体現したものです。だからこそこんなにも人の心を惹きつけるのです。今日この場に居る学生たちは、この桜を大人になっても、老人になっても、ずっとずっと憶えている事でしょう。――有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し。例えあれは夢の出来事だと思っても、桜の思い出は鮮烈に”在り”つづける。そしてそれはもうあなた方にも住み着いてしまった。とても解決できるものではありませんよ。尤も、だからとて特に害もないのですが」
 慈乃は何がおかしいのかクスクスと笑った。その様子はまるで誰かさんのようだった。
「解決できない怪事って――」
 それでいいのかと言わんばかりに魔鬼は再度桜の樹を見上げた。――確かに美しい。確かに、この光景はちょっとやそっとの出来事じゃ忘れられそうにない。
「……おいまてよ、解決できないならこの人集りどうしたらいいんだよ。いつまでもこのままってわけにもいかないだろ」
 乙瓜は肝心な事に気付いたのか口を尖らせた。いくら命の危険に関わる害はないとはいえ、こんなにも大勢が心神喪失な状態では大問題だろう。
 慈乃はそれもそうですねと呟いてもう一度辺りを見渡した。人の数は前より明らかに増えており、慈乃が通ってきた”モーゼの道”も既に潰れてしまっている。
「放っておいても、日没と共に桜の幻は消滅します。……ですがまだまだ日没には時間もありますし、いつまでも皆さんを棒立ちにさせておくわけにもいきませんね」
「そうだよそれそれ。何とかできるんだったら早めに何とかしてほしい。私らもうギブだから!」
 おしくらまんじゅう押されて泣くなとばかりに左右からぎゅうぎゅうと人に押され、二人は半泣きで懇願する。
 慈乃はわかりましたと呟いてまた眼鏡を直しながら、左手を高く上げた。

「コヨミさん、レキさん、よろしくお願いします」
 そして藪から棒にそんなことを叫ぶと、彼もまた人の波に押されて姿が見えなくなった。
「うわあああああ!駄目じゃん!」
 もう駄目だと頭を抱える魔鬼と乙瓜の頭上で、ベーンと何かの音がした。
(……え、何? 何の音?)
 そう思い、音のした方向を見上げる二人。その最中にも同じ音が響き、どうやらそれは桜の樹の上から聞こえているようだった。
 一体何が起こっているのかと、二人がやっと見上げた桜の樹。その太い幹から分岐した細い枝の上に、先程までなかった人影が二つほど立っていた。
 少なくとも人間のようなシルエットの二つの存在。一つは鮮やか過ぎる紅の着物を着ていて、もう一つは時代がかった軍人のような恰好をしているのが見えた。
 またビィンと音が鳴る。それは着物の方が奏でる三味線の音であると、漸く魔鬼たちは理解した。不安定な枝の上にも関わらず、まるで安定した台の上に立つかのように安定している人影たちは、三味線の音を一音一音ゆっくりと響かせ続ける。
「あの人たち何してんだ……!?」
 少々季節外れの桜なんかよりよっぽどおかしな光景に目を丸くする魔鬼と乙瓜の回りで、しかし変化は確実に起こっていた。

「……あれ、俺たち一体何してんだ?」
「何だか首が痛いよ」
「部活中になにやってんだろ」
 ざわざわ、ざわざわ。先程まで死んだように静かだった周囲が、次第にざわざわとどよめき立つ。自我を失くしたような生徒たちが我に返ったように呟きながら、次第に桜の樹の下を離れていく。彼らの目はもう桜の樹には向いておらず、樹上に居る二つの影にもまるで関心がなさそうだった。
 瞬く間にスッキリとする周囲。人が殆ど居なくなった桜の樹の裏から、火遠が全身の埃を掃うようにして姿を現す。
「全く、容赦なく樹に押し付けやがって……」
 ぶつくさ言いながら歩いてくる火遠の髪には折れた小さな枝が刺さっていて、乙瓜は思わず吹き出してしまった。
「……なんだよ」
「なんでもねぇよ」
 何でも無いといいつつまだ笑いを堪えるような顔の乙瓜に、火遠は不満そうだった。そんな中で、残された美術部の他の面々も正気を取り戻したようだ。
 夢から覚めたように首をひねる彼女等の後方から、人波に飲まれていた慈乃がひょっこりと顔を出した。
「やあ、上手くやってくれましたか」
 彼は機嫌よさそうにそう言うと、樹上の二人に手を振った。
「誰なんだあいつらは」
「僕の付き人みたいなものです。彼等が音を利用して認識妨害をかけました。生徒たちの奇妙な記憶はそのままですが、もう桜に吸い寄せられることはありません」
 問う乙瓜に得意気に答え、慈乃は微笑んだ。
「坊ちゃん、北中ここの怪事は集まりましたかい?」
 樹上の着物の影が言う。慈乃は「ああ」と答えながら、その声の主を指さして、乙瓜や魔鬼に教えるように言う。
「彼はこよみ。暦法の暦。いつも大抵女みたいな格好をしていますが、男の方です」
 慈乃の紹介に応えるように、着物の影――暦が立ち上がって一礼する。
「坊ちゃん、僕のことも紹介して下さいよう」
「はいはいわかったわかった」
 もう一方が急かすので、慈乃は次いでもう一方の珍奇な軍服のような恰好の影を指差した。
「彼女はれき。歴史の歴。いつも大抵劇団みたいな男装をしていますが、女の方です」
 そう慈乃が言い切るか言いきらないかの間に、軍服の影――歴が声を張り上げる。
「ご紹介に預かりました、姓は日生ひなせ名は歴です。因みに暦の妹であります。以後お見知りおきを」
 彼女はピシっと敬礼した後、兄である暦と顔を見合わせると、まるで芝居の台詞のように語り出した。
「私たち二人、慈乃さまに付き添って二百余年」
「慈乃さま在るところに我ら在り」
「慈乃さまはまだまだ世にある怪事を記す旅の途中。此度は名残惜しくもここを去りますが」
「またいずれ会う事もありましょう。その時は我らの事も宜しくお見知りおきを」
「「ではさらば!」」
 彼等は長々と口上を述べた後、再び礼をして姿を消した。
「な、なんだ今の……」
 呆然とする乙瓜に慈乃は苦笑いした。
「彼等は淡路島の狸なので芝居が好きなのですよ」
 慈乃は仕方ないですよといった風にそう言ったのだが、その意味は乙瓜には全く分からなかった。



 程なくして、慈乃は火遠や美術部に感謝しながら北中を後にした。件の桜はまだ咲いているように見えるが、暦と歴のかけていった術が効いているのか、引き寄せられる者は誰一人として居なかった。
 彼等が施して言った認識妨害について、火遠は見えているけど気にならない状態の事だと語っていた。曰く、人はそれが当たり前だと思った事についてはどんなに奇妙な事でも見逃してしまう傾向があるのだと。
「田舎の独特の風習なんかも、余所者が来て初めて奇妙だって思ったりするわけだ。それと一緒さ。怪事も何てことないと思ってしまえば日常になる。それが例え、化け物じみた美しさを持つ桜でもね。君たちだって、この頃怪事は日常になりつつあるだろ。あの深世が慣れてきたように、いずれ戯れ程度の扱いになってしまうさ」
 火遠はそう言って笑っていた。

 怪事が日常になる。そう言えば、そうかもしれない。
 乙瓜は思う。客観に見て沢山恐ろしい事があったけれど、それに慣れてきている自分が居る。こんな事、一年前の今頃には想像もつかなかったことだ。
 自分の視界の隅には、いつも黒い影が居る。はっきりとした輪郭を持たないそれは、火遠から貰った目で見えているもの。初めの頃はそれに興奮するやら怯えるやらで忙しかったが、今では何とも思わない。すっかり日常の一部に成り下がった。
 目の前を泳ぐ魚のような群れすらも、もう日常だ。
「あ。そう言えば」
 自転車のスタンドを倒しながら、乙瓜は思い出したように独り言を呟く。慌ててスタンドを立て直すと、スポーツバッグの中から何かを取り出し、二組の自転車置き場まで走る。
「魔鬼!」
 二組が自転車を停めている辺りで、丁度魔鬼が自分の自転車を漕ぎ出そうとしていた。すっかり帰る準備も整っていた魔鬼は、慌てて走り寄ってきた乙瓜を不思議そうな顔で見る。
「なんぞや?」
 首を傾げる魔鬼に、乙瓜はラッピングされた小さな箱を差し出した。目の前の箱を見ても尚不思議な顔を浮かべる魔鬼に乙瓜は言う。
「ほ、ホワイトデーのお返し」
 それを聞いて魔鬼は漸く「ああ」と納得したような顔で頷いた。そう、その日は丁度三月十四日で、ホワイトデー当日だったのだ。
 魔鬼は箱を受け取りながら、一月前に自分のあげた小さなチョコレートに比べて大分大きいなと思い苦笑した。
「三倍どころじゃなくないか、これ。お返しとかべつにいーのにさー」
「いっ……、いいんだよ。……気持ちだし」
 乙瓜は少し恥ずかしくなって顔を背けた。赤い夕日の中だったが、その顔がほんのり赤くなっていることに魔鬼は気付いていた。
「わかったわかった。とりあえずもらっとく」
「お、おう。もらっとけ」
 ニヤニヤ笑いつつ自転車をこぎ始めた魔鬼を、乙瓜もまた手を振って見送った。校門に向かって消えていく自転車を眺めながら、乙瓜は魔鬼に笑われた理由を必死で考えていた。
(やばい……俺なんか変な事したかな……?)
 その理由が真っ赤に染まった自分の顔にあることを、乙瓜が気付くことはないだろう。

 赤い太陽が西に沈み、やがて夜闇が落ちてくる頃。一つの怪事が幕を閉じ、そして。

 また次なる怪事が、どこかで始まって行くのだろう。


(第十五怪・怪火桜花の怪事戯話・完)

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