火遠が燃え盛る己の髪を掻き上げると飛び散った炎の片鱗が形を成し、熱く溶解する硝子の床に突き刺さる。
燃える緋から生じたそれは大鎌でも日本刀でもなく、片刃の伐採斧のような形をとっていた。
紅く長い柄の先に黄色い房を生やした斧を、バットでも持つように軽々と持ち上げて魅玄に向ける火遠の瞳は、いつもより一層明るく鋭い炎色に輝いている。
その眼光に気押され、魅玄はその身を僅かに後ろに反らせた。庇われたときから依然と魅玄の腕の中にいる乙瓜は、目を丸く見開いて、ぽつりと。紅く燃え盛る彼の名を読んだ。
みるみる赤に侵食されていく世界の中心で火遠は言う。
「乙瓜から離れるんだ月喰の遣い。……おっと、逃げ場何てないさ? この怪域は完全に制圧した。もうお前の意思で姿を変えることは出来ない。出口はない。逃げ場も無い。勝ち目なんてあるとでも? それとも、今の月は使い捨ての下っ端に敵の事をよく教えておかないのかい? ――ならば記念に一つ教えてあげよう。これがお前たちの敵! お前たち月喰の親玉がどうしても排除しておきたくてたまらない草萼火遠の力だとね。……おわかりかな? お前さんはもう詰んでるんだよ」
荒ぶるように燃える彼から告げられる、冷酷な死刑宣告。完全な『詰み』。
袰月魅玄には先がない。袰月魅玄には後がない。催促しながら処刑人のように進んでくる火遠とやりあえるだけの力もないし、下っ端中の下っ端たる彼には助けもこないだろう。
せめて奴の帰りが一日遅ければ……! 魅玄は己の不運を呪った。――だがしかし。だが、しかし……!
魅玄は己の傍らで相変わらず呆然としている少女を見た。戦う武器を失い、戦意を失い、自分たちが与えた情報をどう整理したらいいかわからず、真実を見失い、ただ呆然とするだけの少女を。
――だが、しかし……! 月喰の影の作戦は成功した……!
魅玄はにぃと口角を上げた。苦し紛れに。最後のあがきに。相対する死神に一泡吹かせてやるために。彼はその一言を口にした。
「殺すのか。僕の事を…………!」
ぴたり、と。火遠の歩が止まった。同時に、人形のように動きの無かった乙瓜が僅かに肩を震わせた。――いける! 魅玄は乙瓜の肩に手を当て、語り聞かせるように続けた。
「……いーかい乙瓜ちゃん。あいつは人も妖怪もみんな、みんな! あの刃にかけて殺すんだ。…………考えてもみなよ、僕は君に何をした? そう、奴の真実を教えただけじゃないか! そこに何の非がある!? つまるところあいつは殺し屋なんだよ、得体のしれない目的の為に、障害になりそうなやつを片っ端から斃して行くだけの!! 冷酷で! 残忍な!! …………――だから、あんな奴と契約してたって、なんも良いことない。碌なことにならない、不幸にしかならない。だから、……だからね、乙瓜ちゃん?」
最後の一押しを、彼は優しい声で囁いた。
「――草萼火遠との契約を解除するんだ」
その言葉に、乙瓜はハッとしたように魅玄を見る。魅玄は穏やかな顔でスッと前を指さす。その指先に導かれるまま、乙瓜は火遠の姿を見る。武器を持って、怒りにその身を燃やしている彼の姿を見る。
「火遠……俺」
口を開いた乙瓜は、いつになく弱々しい声で言った。
「分からないんだ……。魅玄の言ってることが嘘なのか……本当なのか。お前本当に人間を殺したのか? なんで北中に封印されてたんだ? なんで俺を殺そうとしたんだ? そして……なんで俺と契約したんだよ。何のために、何をしようとしてるんだよ……」
雨のようにポツリポツリと吐き出される彼女の言葉に、だが火遠は何も答えない。
勝った、と魅玄は思った。しかし、乙瓜の言葉はそこで終わらなかった。
「……だけど。妖怪がいて、怪事があって、魔法使いがいて、変なものが見えるようになって。お前の姉弟と戦ったり、みんなで合唱したり、人間じゃない生徒と仲良くなったり、色んなことがあったよな。……お前が悪いやつかどうかなんて、俺にはわかんねえよ、つーか、知らねえよ! 中学生に善悪語らせんな、ちくしょうが!」
「!!?」
自分の予想を外した展開に、魅玄はギョッとした。いつの間にか、虚ろだった乙瓜の目には光が灯っている。
「そんなッ、そんな馬鹿な! 確かに不信を植え付けた筈、僕の誘導は完全だった筈、……なのに何故、なのに何故!!」
取り乱してよろよろと後退する魅玄にしっかりと向き直り、乙瓜は言った。
「鏡の中の事が本当だとして、お前あの場に居たのかよ? どんな事実があったにしろ、第三者のお前が伝えるのはあくまで又聞きじゃねえか。お前らが正義の味方かどうかなんてのも知らねえ。なんで火遠が妖怪を狩る妖怪なのかも知らねえ。……でも、どっちが悪でどっちが善とか、そういうのは少なくともお前らに教えられて決めるもんじゃねえ! 俺が俺で考えて決めるものだ! ――そうだろ?」
乙瓜は火遠を振り返った。火遠はもう炎を納め、いつものような不敵な表情を浮かべている。
「言うようになったじゃあないか」
「うるせえ。そもそももとよりお前との間に信頼関係なんて碌にないってことに気付いただけだ。結構酷ぇ目に合されてるからな。……だが後で全部聞かせてもらうぞ、昔何があったのかとかキッチリとな! お前と縁を切るかどうかもそれから決める!」
「くっくっく……全く人間は、短い間に落ち込んだり立ち直ったり忙しい事で。面白いったらありやしない……!」
火遠はカラカラと笑った。
一方、二人が何故こうも普通にやり取りできるのかわからない魅玄は、信じられないようなモノでも見る目でそれを見ていた。
(どうしてそうなるんだよ、ありえないだろ? こんな、ここまでして何にもならないなんて、そんな……そんなことがあるものかよ、……巫山戯るな!)
「巫山戯るなッ! 巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るなよ!!? どうして信頼を失わないッ、どうして契約を解かないッ! 僕の言葉が信じられなくて奴の言葉の方が信じられるってのか!? そんなのって――」
「悪ィな」
苦し紛れの悲鳴のように吠える魅玄に、乙瓜はきっぱりと言った。
「なんていうかさ、俺こいつと会ってから結構楽しい事あったんだ。理由、それじゃあ駄目か?」
「――……ッあ」
――終わった。
どうあがいても覆せない敗北を悟った【三日月】の使者はその場に崩れ落ちた。瞬間、硝子の世界が完全に崩壊し、全ての景色が真っ白の光に変わっていく。
光に包まれた世界の中で、火遠は乙瓜に手を伸ばした。
「帰ろう。みんなが心配してる」
「……ああ」
乙瓜は、彼の手を取った。
――放課後。
「はーあ、結局全部釣りだったってわけかぁー」
「まーまー。そういう事もあるって、諦めな」
美術室の中心で、戮飢遊嬉が残念そうな溜息を漏らし、そんな彼女の肩をドンマイと叩く杏虎。その周りには眞虚がいて、深世もいて、魔鬼もいて、そして乙瓜がいた。誰一人欠けることないいつも通りの一年メンバー、いつも通りの部活風景。
あの後、乙瓜が火遠に連れられて帰ってきたとき。外界の時間は殆ど進んでおらず、乙瓜は遊嬉の知らせで鏡の前にずらりと集まっていた美術部メンバーに出迎えられることとなった。
乙瓜は戻ってきたとき思いっきり火遠の手を握っていたのを見られたのがほんのちょっぴり恥ずかしかったが、彼女の姿を確認すると同時に半泣きの遊嬉が抱きついてきたので、メンバーの殆どが手を繋いでいたことすら覚えていないだろう。
遊嬉は、乙瓜が鏡の中に飲み込まれていくのを見ている事しかできなかった事によっぽど引け目を感じていたんだろう。何度も謝ったのちに「次は絶対助けるからー!!」と言われ、乙瓜はなんだか申し訳なくなってしまった。
乙瓜は思う。
命の危険があったわけではない。けれど、もしあそこで【三日月】の手を取っていたら、自分はちゃんとここへ帰ってこれただろうか。
火遠が悪いやつだとか、過去に何があったとか、正義の味方の正義とは何かとか、正直乙瓜にもよくわからない。けれど、今こうして美術部一年全員が揃った放課後。みんながいて、自分がいる。またその状況に戻ってこれた事に、胸を撫で下ろさずにはいられない。
ほんのちょっぴり感傷に浸る乙瓜の横でポンと空気が弾け、空気を読まない彼が姿を現した。
「ほれ、補充終わったよ」
そう言って護符の束を持った手を差し出す火遠。本日散々に言われてきた彼は、逃げも隠れもせず相変らず美術部の周りに出たり消えたりしている。
「……ありがとよ」
乙瓜は差し出され護符をぶっきらぼうに受け取ると、ポケットの中へと突っ込んだ。
その様子を見ながら、火遠はニヤニヤと笑っている。例の胡散臭い笑いだ。
「何だよ」
「いいや。なんでも。なァんでも。ただ昼間の君は普通の女の子みたいで可愛かったなぁと、思い出し笑いしてるだけさ?」
「――ッ? 何だよその言いぐさ! 俺は……~~~~っ、わたしはっ! 普通に! 女の子だろうが!!」
「おやおや? おやおやおやおや? なんだなんだ、ずっと突っ張ってるからそういう風に扱って欲しいのかと思ってたけど、そうかそうか。普段から可愛いって言ってほしかったんだね?」
火遠はクスクスと笑った。
「別にそういうわけじゃなあぁーい!」
ネクタイを掴もうとする乙瓜の手を、案の定するりとすり抜ける火遠。怒る乙瓜。その二人をちらりと見ていた眞虚は、乙瓜ちゃんが元気そうでよかったと思っていたとかいないとか。
ちょっと賑やかで、ちょっと非日常で、ちょっと微笑ましい光景。火遠が不在の間見られなかった、美術部の日常風景がそこにあった。
街に夜の帳が落ち、街の明かりが消えた頃。
獲物を逃した魅玄は、空っぽになった狩場跡地で一人大の字になって寝転がっていた。
(……火遠は俺を殺さなかった。だがきっと、自分の主はこの失敗を許しはしないだろう。自分なんかは下っ端中の下っ端。いくらでも替えの効く消耗品に過ぎない。……むざむざ帰ったところで死ぬより恐ろしい目に合されるのが目に見えてる。割に合わないバイトだったなぁ……)
「いっそ、殺された方が気が楽だったかもしれないよ……」
そう漏らしたのは独り言のつもりだった。……つもりだった。
「……じゃあ殺してあげようか?」
枕頭に感じる気配に、魅玄は視線だけを動かした。そこには一人の人物が立っていた。
先ほどまで対峙していた男と似た顔立ちの、しかし彼とは全く違う、凍てつくような青い瞳の少年。
草萼水祢。火遠の弟。
そんな彼を前にして、魅玄は旧友にでも会ったかのような顔を浮かべた。懐かしむような、そんな顔。
「ああ、久しぶり。スイゲツの――……いいや、今は……違うか。そういえば君は奴の弟だったね。そして君はどうしようもないくらい、奴の事が好きなんだったね……。はあ。そゆこと。今はそっちに戻ってるんだ。あぁ、やらかしたなぁ……」
これじゃあ殺されても仕方ないと、魅玄は乾いた笑いを浮かべた。
「昔馴染みの誼みでいっそ一思いにやってくれよ。僕はなんていうかもう疲れちゃった。……勝てないっての。ムリゲーだよ。お前の兄さん強すぎ。その下僕もメンタリティありすぎ。このまま帰って勝てないって報告したって、データとるために何回も何十回も戦いに行けって言われるに決まってるんだ。……それなら、ここで死ぬしか……ないじゃないか」
話しながら魅玄の目には涙が浮かんでいた。だが水祢はそんな彼を冷めた目で見つめながら、ぼそりと言葉を漏らした。
「何勘違いしてるの?」
「…………?」
水祢の言葉の意味が解らず、魅玄はきょとんとして目をぱちくりさせる。そんな彼の様子なんてまるで気にしていないように、水祢は懐から何かを取り出す。それは赤いプラスチックの縁に白い花の飾りの付いた、花子さんの手鏡だった。
「殺しはしない。兄さんに嫌がらせをしたことは百万回くらい謝れば許してあげる。友達だから。でもそれとは別に罰は受けてもらう。だけどそれは死じゃない」
言いながら、水祢は魅玄の胸に鏡を押し当て、その上に一枚の人型を貼り付けた。
「――水祢? 何を……」
「煩い黙って。お前は月喰には帰らないし帰れない。その身その力を鏡に捧げ、月の名を捨てて生きるの」
そう言って水祢は、小声で何かの呪文を唱えた。
直後鏡が眩く輝き、その光に吸い込まれるように魅玄の姿が消えて行った。鏡がコトリと落ち、遅れて人型がはらりとその上に重なる。水祢がそれらをそっと拾い上げると、白い人型には先程までは無かった文字が浮かびあがていた。
それを見て、水祢は幽かに笑った
「お前はもう『袰月』の魅玄じゃない。精々その中で反省しながらキリキリ働いてよね。――それじゃあよろしく、雲外鏡」
言葉に反応するように、鏡は薄紫色に輝いた。
(第九怪・夜鏡写し・完)