怪事戯話
第六怪・一夜怪談①

 八月初旬。
 学生は長い夏季休業真っ最中で、広い校舎はがらんとしている。
 いや、部活もあるし、教職員も仕事があるので全くの無人と言うわけではないのだが、学期中に比べれば静かなものだ。
 特に文科系の部の溜まり場・・・・――美術部の美術室、文芸部の図書室、科学部の理科室やコンピューター室などは殆どもぬけの殻という有様だ。例外があるとすれば、七月末の野外発表を終え、次なる秋口の県大会に向けての練習をしている吹奏楽部の音楽室くらいか。
 尤も、文芸部は文芸部で十月の芸術祭に出展する作品を各自自宅で執筆しているようだし、科学部は夏休み後の県展発表に向けて校外の野山や河川の調査をしているので、決して何もしていないわけではない。

 何もしていないところがあるとしたら、それは美術部だ。


 青々とした快晴の空の下。
 庭先の向日葵ひまわりは大輪の花を咲かせ、高く昇った太陽を見上げる正午前。
 烏貝乙瓜は冷房の効いた自室のベッドに転がりながら、部活顧問こもんから配られたプリントを確認していた。
(――今日の部活は……なし)
 夏休み中の日付がずらりと横並びした表は、本日の部活がないことを示していた。今日の部活は、ない。
 ……というか、そもそも美術部の「部活あり」のマル印は週に二回あればいい方で、四十日近い夏休み期間中八日ほどしか活動日がなかった。というわけで、大抵の日は部活がない。
 時々行っても「暑い暑い」と言いながらのんべんだらりんと半日をすごし、時折思いついたように絵を描く程度。芸術祭用の絵は一学期の内にほとんどできあがってしまったし、県の絵は特に顧問から頼まれた部員しか描いていないので、まあ、要するにほとんどの部員がやることを見失っていた。
(どうせやることないなら先生もどっかつれてってくれりゃいいのになー。涼しいところとか)
 などと思いながら乙瓜は予定表を放り投げ、別の印刷物に目を移す。

 プリントというか、ホチキスで留められて本の体を成しているそれの表紙には、クラスの誰か絵心のある人(美術部ではない)が描いた楽しげなイラストとともに、「宿泊合宿のしおり」の文字が躍っている。

 そう、それは文字通り宿泊学習のしおり。乙瓜たち一年生は、この夏の盆明けに宿泊学習に行くことになっているのだ。
 といっても、一泊二日の旅行なので宿泊先は県内だ。途中で博物館等に立ち寄りつつ、直行したら小一時間程度で辿りつく町の青年館に泊り、みんなでカレーだのを作って帰ってくるだけの、まあそれだけのイベントだ。
 別段観光地でもないから何か物珍しいものがあるわけでもなく、遊ぶスポットがあるわけでもなく。一応、中学という新しい環境で新しい仲間との親睦を深めるというお題目があるにせよ、一学期が終わるころにはもうだいたいの人間関係は出来上がっているし、今更やる意味があるのかはわからない。
 ただ、一応はくじ引きによる無作為な班分けがしてあることは付け加えておく。

「はーあ。どうせ行くならプール付きのリゾートホテルとかにしろっつの……」
 独り言をつぶやきながら、乙瓜はベッドの上にだらんとした。

「――オイオイ、部活がないからって他に何をするわけではなく、日だら一日ごろごろごろごろ。そんなんじゃァいつか病気になっちまうぜ?」

「うえあっ!?」
 一人しかいない筈の空間に突如として降ってきた言葉に驚くあまり、乙瓜は変な声を上げた。
 ガバッと半身を起して見上げる視線の先、本棚の上には、猫のように体を丸めてそこにいる火遠の姿があった。
「やあ。はろう」
「うげっ……なっ、なんでお前が居るんだッ!」
「何でとは酷いなあ、屋外そとで全く姿を見ない契約相手が夏風邪でも引いちゃァいないか心配になって折角来てやったというのに」
 ふてぶてしく言って、火遠は「よっ」と本棚から降りる。トンッっという着地音は猫でも降りてきたかのように軽い。
 そして一度のびをすると、何の躊躇ためらいもなくベッドの上に腰かけた。
「……どっから入ってきたんだよ」
 すすっと火遠から離れる乙瓜は、無断で自分のテリトリーに入ってこられたことが気に食わないのか、不機嫌そうに顔を歪める。
「どこって、玄関さ。普通にチャイム押して、君のお母様に挨拶して入ってきたよ? 気付かなかったのかい?」
 友達って言ったら簡単に案内してもらえたよ、と火遠はにこりとする。
(いや友達じゃねえし! 母さん危機意識うっすいなあ!!!)
 乙瓜は何の疑いも無く変な奴を部屋に通してしまった母を少しだけ恨んだ。……だがしかし、乙瓜が火遠との正しい関係性を説明したところで納得してもらえるだろうか。遂に頭がかわいそうなことになったと思われるか、何かあらぬ誤解を受けて修羅場しゅらばになるかのどちらかだと思うが。
(……だいたい、こんな包帯男と友達だとか思われたらまで変な人みたいに思われるじゃないか……)
 じとりと視線を刺す先の火遠は、「しっかしこの部屋、ちゃんと掃除はしてるのかい?」などと呆れ顔だ。そこに来て乙瓜は初めて気づいたのだが、火遠はいつものなんちゃって学生風スタイルではなく、パーカー姿でちょっぴりカジュアルな感じだ。……その服は一体どこで買っているのか。だがそこから先は聞いてはいけないような気がして、乙瓜は口から出しかけた言葉を飲み込んだ。

「ところで乙瓜、君たち盆過ぎに宿泊合宿に行くそうじゃないか」
「……えっ?」
 心の中でぶつくさ言っている最中さなか、唐突に振られた合宿の話題に我に返った乙瓜。
「え……あ、ああ。合宿な。行くけど……って、お前にゃ関係ないだろ」
「確かに、俺には関係ないね」
 と言いつつも、意味ありげにクスクスと含み笑いをする火遠を見て、乙瓜はすごく嫌な予感がした。出会ってもう三ヶ月、こんな調子の時は大抵何かあるときだと、乙瓜は知っていたからだ。
 火遠は続ける。
「その町の青年館、気を付けなよ。……いや、気を付ける要素があるかどうかは君たち次第だけど」
「なんだよ、何か伝えたいことがあるならハッキリ言えよ。……まさか怪事があるとかそういうのじゃねぇだろな?」
「だったら。どうする?」
 ぐるりと乙瓜の方を向く火遠の顔は、これまでになく愉快そうだ。――ああ、これは絶対何かあるな、それもオカルト絡みの何かだ。乙瓜は確信する。
「……で、俺にどうしてほしいんだお前は」
「なァんにも。あっちは校内じゃァないから、俺の代理まとめやくとしては特に何もしなくていいさ。ただ、場合によっちゃァとても面白い・・・ことになると思うから、つまんなそうな顔しないでもっと楽しみにするといいぜ」
 火遠はによによと笑うと、おもむろにパーカーのポケットの中から飲み物の缶を取り出して言った。

「飲むかい?」
「貰っとく」

 何の警戒も無く受け取った缶のコーラは、プルタブを開けると中身が勢いよく噴水のように――ということもなく。ほんの少しガスの抜ける音がしただけで、平穏に開いた。
 乙瓜は、その少し普通より大き目な缶を手にしながら、この大きさの缶がパーカーのポケットに収まりきるわけないよなぁと思ったが、つとめて気にしないようにした。……どうせまた妖海だか妖界だかの謎空間に放り込んでおいたとうオチだろうし。

 一口飲んだコーラの味は、ぬるかった。


 ほどなくして火遠は帰って行った。
 その後、熟の夏期講習から帰ってきた乙瓜の兄が「俺女のくせに彼氏いるとかありえねえべ。妄想乙」などとからかったせいで、アホらしい大喧嘩おおげんかに発展するのだが、それについては省略する。一応、最終的に「あれは彼氏じゃないただの知り合い」という乙瓜の主張が勝ったが、彼女の家族はただにやにやするばかりだったという事を追記しておく。


 さて、長い長い夏休みといえど過ぎて行くのはあっという間。夏祭りに行く者もいれば、海や山に行く者もいる。夏休みの課題を早々に終わらせる者もいれば、課題を後回しにする者も。何をしてもしなくても、時間は刻々と経過していく。

 そして遂に、合宿の日はやってきた。

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