じゃらりじゃらりと鎖を持つ手は左の手。外から少し力を加えれば、ぽきりと折れてしまいそうなほど細くか弱そうな手は、長い長い鎖を握り、一段降りるごとにぶらりと大きく揺れる。
対になるべき右の手は、ごとりと太く異形の手。樹木のような硬質の肌と異様な長さ、四本しかない指先は鋭くとがっていて、一段降りるごとに床を引っ掻ききぃきぃと不快な音を立てる。
真っ白な髪をした「それ」の、覇気のない真っ赤な瞳は大きく丸く。乙瓜と魔鬼の二人を視界に捉えると、歩みを止め、口を開いた。
「だ、あ、れ」
幼い子供のような声だった。引きずるほど長い異形の腕の、鋭角の爪で二人をすうっと指さし、かくんと首をかしげて見せた。
「誰って、お前は俺らを知らないのか」
乙瓜は警戒し、少しだけ後ずさって問う。しかし、相手の反応は予想を大きく外れた。
「だれ、て、おまえは、おれ、らを、しらない、のか」
「はぁ!?」
「えっ……?」
舌足らずなオウム返しに、乙瓜と魔鬼は当惑する。
こんなのは答えでもなんでもない。白い異形の反応は、さながら言葉を覚えたての子供のようだった。
「おいっ、質問に――」
それでも乙瓜が食い下がろうとすると、白い異形は再び歩き出し、階段を一歩二歩と下がり始めた。鎖がじゃらじゃらと鳴り、腕はきぃきぃと引きずられる。静止していたてけてけも、それに合わせるように前進を再開する。
とっさに拙いと感じた魔鬼は小声で何か呪文を呟くと、下駄箱の上に飛び乗った。
僅かに遅れ、乙瓜はスカートのポケットから札を取り出し、技を宣言する。
「十二枚単符結界・闇雲!」
一ヶ月の特訓と修行の成果あってか、ペラペラの紙とは思えないほど鋭く飛んだ札たちは、昇降口と階段の間、乙瓜と魔鬼を取り囲むように展開した。
それは、乙瓜の宣言通り『結界』だった。重力に反し隊列を組んで浮かぶそれは、四方八方隙間なく展開して絶対の防御を施すほど強力なものではないが、攻撃の緩衝材くらいにはなってくれるだろう。
だが、白い異形とてけてけは、警戒する彼女たちになど見向きもせず、きゅっと右へ方向転換すると、廊下を東側に向かっててくてくずるずると歩き出した。
「さんぽ、さんぽ、たのしい、さんぽ」
白い異形は何やら楽しそうに、音程の全く取れていない歌のようなものを口ずさんで去ろうとする。鎖でつながれたてけてけは、何も言わずにずるずるとそれの後を追って行く。
「お、おい……待ちやがれ!」
焦った乙瓜が叫ぶと、それらはぐるりと振り返った。
「おいしい?」
「…………は?」
「おい、しい?」
一体何のことなのか、異形はからくり人形のように繰り返す。何か返答を返すまで続けそうだと思った乙瓜は、訝しみながらも答えることにした。
「……た、食べ物なら持ってないぞ」
すると異形はおいしいおいしい?と繰り返していた口を閉ざし、一瞬黙る。
「ちがう」
ほんの一瞬の妙な間を置いて、それは言った。
「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう」
雪崩のような否定の言葉に、乙瓜も魔鬼も気圧される。
――異常だ。こいつは異様だ。
二人がそう理解するのに、時間はそれほど必要なかった。
壊れたラジオのように「ちがう」を繰り返すそれは、やがて再び。あの禍々しい右手で、こんどは確実に乙瓜だけを指さした。
「――ちがう、ちがう。たべる。たべる。たべる。おまえ。おいしい? いおん、たべる。おいしい? きいてる」
たべる、タベル、……食べる。
あまりにも淡々としていて、あまりにもあっさりとしていて、その三文字ばかりの言葉の意味が咄嗟に浮かんでこなかった乙瓜は、しかし直後にそれを理解し、同時にぞっとした。
(食べる、食べるだと!? この妖怪はヒトを人間を、取って喰らうってのか……!!?)
――危険だ。乙瓜は念のために更なる札を拳の中に握りしめる。下駄箱の上の魔鬼が何か唱えながら、早く昇ってこいとジェスチャーで促す。尤も、こんな高さではほとんど無意味だろう。あのおぞましい右腕のリーチは人間の背丈ほどあるのだ。それにあの鋭さなら、先に仕掛けた結界も容易く破られてしまうような気がしてならない。精々てけてけから避ける程度の気休めにしかならないだろう……!
(だが、何もしないよりは何かしらの抵抗をした方がいくらかマシだっ!)
思うより早く、乙瓜は掌中の札を全て投射して異形を牽制し、下駄箱の一段目に手をかけて跳躍、最下段に足をかけて上りあがる。一月前には到底できなかった芸当だが、先の件から「あまりにも体力がなさすぎる」と遊嬉に指導された(というか、一方的にトレーニングメニュー決めて実行させられた)結果多少運動能力があがり出来るようになったのだ。遊嬉様様である。
下駄箱の上に逃れた直後、先程まで乙瓜が居た場所にスパンと鞭打つような速さで、それでいてハンマーのような重々しい打撃が振り下ろされる。腕だ。白い異形の右腕が、ああ、なんということだろう。精々150、あるいは160センチメートル程度だと見積もっていた腕が、3メートルほどに伸びて勢いよく振り下ろされたのだ。
牽制の札攻撃が効いた様子は全くない。咄嗟の事で大して力も込めていないから仕方ないと言えば仕方ないのだが、床面を這うてけてけも健在だ。
「ごはんーごはんー」
異形が歌う。音程の外れた声で、間延びした声でうたう。
「逃げるぞ乙瓜! こいつはヤバイ、ボサッとすんな、外だ! 靴なんかとるなよ、そのままだぞ!」
魔鬼が叫ぶ。乙瓜はハッとし、不安定な下駄箱の上によろよろと立ちあがって昇降口側に走る。
その背後の魔鬼は踏みとどまって先程の詠唱分を二三発食らわせていたが、期待したほどの効果は得られなかったのか、すぐに走り出す。
下駄箱の一番端、昇降口の目と鼻の先。外まで逃げれば逃げるところはいくらでもある。撒ける……!
安堵感を胸に乙瓜が飛び降りようとした、時。
「まてー」
間延びした間抜けな抑揚のない声が一つ。
続いて、乙瓜の背に衝撃。鈍痛。浮遊感。衝突。激痛。
「っが……あ……!」
「乙瓜ぁっ!!!!!」
魔鬼が叫ぶ。彼女は見ていた。何が起こったか把握していた。
乙瓜が飛び降りた、その瞬間。二人の背後から恐ろしい勢いで伸びてきた腕が乙瓜の右肩から左腰に掛けて叩き、彼女を左方の壁へと飛ばしたのだ。まるで蚊でも叩き落とすかのように、あっさりと。
背中の鈍痛と衝突の激痛でまともに呼吸できず、乙瓜は苦悶の声を上げながら、それでも何とか立ち上がろうとしている。一応は無事なようだ。しかし、敵はすぐそこ。昇降口は目と鼻の先にあるのに、動くことが、逃げることが出来ない。
一方、魔鬼は自分の居る下駄箱上のすぐ左下方から目を離せないでいた。
「おに、ごっこ、かく、れんぼ、あそぶ、あそぶ、たのしい?」
それが居た。異形の腕を持つ異様な白の赤い目の、それがいた。
異形は魔鬼には目もくれず、とことこと乙瓜の方を目指す。
「おい、……おい! やめろ!!」
魔鬼が叫ぶが異形は止まらない。その後からてけてけが続く。その時になってやっと魔鬼は気付くが、てけてけは最初に見たときのような笑顔を浮かべていなかった。無表情。否、どこか諦観しているような、寂しそうな、そんな顔に見えた。
「あわぶく、たった、にえ、たった。にえたか、どうか、たべ、てみよ」
それは唄う。歌いながらすっと前方に持ち上げた腕を、物理的に伸長させていく。槍のように鋭い指先が、動けない乙瓜に向かって無慈悲に伸びていく。
(ああ、奴らは狩猟者だ。冷酷無慈悲な放課後の狩猟者だ。学校の怪談を襲撃したのは怨恨からなんかじゃない……! つまみ食いだ、つまみ食いしていたんだ……!)
ようやっと真相を把握して、魔鬼は震えあがった。
――終わる。
魔鬼が目を瞑った、瞬間。
「いやぁ、間に合った間に合った」
声だ。
あの間延びした不気味な声ではない。乙瓜でも、魔鬼でもない。第三者の声が突如として現れた。
魔鬼が目を開ける。白い異形は乙瓜の直前で腕の伸びを止めている。てけてけも動かない。
そして、ああ。人影だ。乙瓜の前に人影がある。赤い髪の、見覚えのある人影がある。
「火遠ッ!」
魔鬼が気付いた通り、それは草萼火遠の姿だった。
燃える赤い髪と炎色の瞳。いつもの格好の火遠が、白い異形と乙瓜の間に割り入っていた。
赤と白、違う色の似通った格好の二匹の対峙。異形は不思議そうな顔で腕を縮め、カコンと首をかしげた。
「どして、じゃま、する。おまえ、だれ」
もう一度カタンと反対方向に首を曲げる。その動きは糸の切れた繰人形のようでいささか気味が悪かった。
「誰か? 誰だって? ……はあ」
相対する火遠は大きなため息をついた。
「確かに、あなたはそういう人だ。覚えていられるのはせいぜい今まで食べたものとその味くらいか。だがしかしそんなあなたがここに居るとは思わなかったよ。しかも行方不明のてけてけを引っ提げてとは。……全く、水祢といい巡り合わせというかなんというか」
火遠は呆れたような、けれど合点の言ったような顔をして言った。
「学校の妖怪を襲っていたのはあなたなんだろう? 全てを止めてもらうよ、大姉上さま」
白い異形は、火遠の姉は。それを聞いて何か思い出したようににこりと笑った。
「あの、おいしい、みどりのが、ちかい」