怪事戯話
第一怪・現世に怪事ありて③

 ――知っていますか。気付いていますか。
 現世うつしよには不思議なことが数多あり。
 ――しっていますか。きづいていますか。
 此岸しがんには不可解なことが数多あり。
 幽霊は居る。妖怪は居る。神も仏も、人々が化生・化け物と呼ばり畏れ忌諱する異形異能も存在する。

 その事をってしまった瞬間から。その事に気付いてしまった瞬間から。
 あらゆる怪事あやしごとはこの世に顕現けんげんし、我が物顔で存在し始めるのだ。
 巣喰うように。掬うように。

 それを否定するように、少女は刃を振り上げた。

「まだ生きてやがったかクソ妖怪が。大人しく死ね」
 烏貝乙瓜は血飛沫に汚れたカッターナイフを振り上げ、未だに眼窩から血を流しながらも平然と立ち上がる化け物に対峙する。
 勇ましくも無策無謀な彼女の姿が、魔鬼の目には先刻までとは違う意味でおそろしく映った。
(な、何言ってんだこいつ……相手は化け物だぞ! 刺しても平気にしてるんだぞ? 何無駄な挑発してんの? 逃げろよ!?)
 思えど、恐らく言ったところでこの状態の乙瓜には無駄だろうことは目に見えている。
 ――兎に角、この場をどうにかやり過ごす方法を考えなくては。
 魔鬼は焦る頭で思索を始めつつ、この後予想される「とばっちり」の被害をほんの少しでも少なくするため、尻餅をついた体勢のままずりずりと、僅かに後退した。

 一方、化け物の方は乙瓜の言葉に「はぁ」っと溜息を吐き、呆れたような素振りを見せていた。
「そんな大言、一度仕損じた癖によく言うよ。勇猛果敢、それも結構。だがねぇお嬢ちゃん、何の勝算もなくただ向かっていくのは、それは只の莫迦だよ。莫迦。学生の癖に全くの浅慮、単細胞。あーあ呆れて物が言えないよ」
 少女とも少年ともつかない中性的で小綺麗な顔を一度も歪めることなく、さらりと小馬鹿にするような文言を吐いた後、化け物はふわりと、まるで羽毛が風に飛ばされて浮くように自然に宙へと浮かんだ。
 長髪が重力に反し、一束一束が生き物のようにうねったかと思うと、唐突に薄暗い部屋に明るく、そして熱を持った灯りが生じる。
 ――火だ。
 炎の灯火だ。化け物の髪の毛が炎色に発光し、さながら本物の炎のように発熱しているのだ。
 美術室全体が暖色の朧気な灯に照らされ、異様な雰囲気を発し始める。異様、異常、非日常。その中央には化け物の姿。
 炎の化け物は、魔鬼や乙瓜の身長より僅かに高く浮上した後、恐ろしい言葉を口にした。
「まァいい、そこまでいうなら今度こそ本気で遊んでやるのも一興か。やれるもんならやってみな、凶暴女」
 終わった、と魔鬼は思った。
 もはや衝突は避けられまい、魔鬼は覚悟し、床に投げ出されていた自分の鞄をたぐり寄せた。

 乙瓜は闘犬のように歯を食いしばって体勢を若干低くし、しかし化け物から一ミリたりとも視線をそらさず身構える。
 化け物は余裕の表情で乙瓜を一瞥すると、そのまま右手を宙に突き出し、宣言するように叫んだ。
「来い! 崩魔刀ほうまとう!!」
 刹那、化け物の周囲を取り囲むように更なる炎が生じ、それはやがて秩序を持った形を成し始める。
 ――鎌。それも大鎌だ。炎は巨大な鎌状の武器へと変じ、化け物の手中へ収まる。
「大鎌か……」
(チッ……厄介なモン出して来やがって……!)
 乙瓜はその圧倒的な大きさに舌打ちし、されど引くことなく。武器の鋭さの差違を埋めるかの如く、眼光のみを益々鋭くして立ち向かう。
 勿論、相手の持つ武器の圧倒的大きさが恐ろしくないと言ったら嘘になる。彼女は戦場で鍛え抜かれた百戦錬磨の猛者でもなんでもない、一介の女子中学生に過ぎないのだから。
 あの大きさの刃で斬られたら確実に死ぬな、と思ってしまえば、当然ながら足は竦むし、動悸も早まるし、体の中心から震えがこみ上げてくる。こわい。誰だって死ぬのは恐ろしい。
 だが、もう乙瓜は一歩も引けなかった。否、引けない状況に持ってきてしまった、という方が正しいか。
 宣言した手前、もう彼女には『後に引くという』選択肢は残されていないのだ。
 ――早く。はやく。今此処で潰しておかないと
 催促するように内なる何かが呼びかける。
(……ああ、そうだな)
 乙瓜は己の内から呼びかける声の正体を知らぬまま。素直に。愚直に。その声に従った。

「デカブツ出していい気になってるところ悪ィが、強さと大きさは同値じゃねぇ!!」
 強気の挑発。己を奮い立たせるように精一杯張りつめた声で吼える。
 まるで弱い犬のように。吼えて吼えて噛みつく臆病な犬のように。
「当然大きさと強さは同値じゃないし比例しないさ。だがそれを補い得るだけの技量がお前にあるのかい? 笑わせてくれるじゃないか、人間」
 弱犬の遠吠えを涼しい顔でさらりと受け流す化け物は、そのままの顔で更なる挑発を返す。
 直後、静寂。張りつめた空気。一触即発。
 緊張の糸は、何の前触れもなく唐突に千切れた。

「ああああァああああああアアアあアアああぁああああぁあああぁぁあああああああああああああああああああああアアアアあああああァああああ!!!!」
 数分か、数刻か。長い長い、しかし現実には三秒も掛かっていないであろう時間の後。誰が合図した訳でもないのにほぼ同時に。一人の化け物と一人の人間は床を、宙を、己の足下を蹴り、今まさに衝突しようとしていた――!
 ぶつかる、その一瞬直前。

 カッ!

 紫色の光が起こり、そして――弾けた。

「ストオオオオオオオォオオオオォオオオオップ!!!!!!!」

 聞き覚えのある誰かの叫び。
 直後、風圧か、それとも爆風か。突如起こった謎の力に、目と鼻の先まで接近していた一人と一匹は引き離される。
(なんだこれ……押し返される……!)
(これは……結界か?)
 その力は強く、一度二者を押し返した後も尚、彼らの接近を拒み続けている。
 乙瓜は驚き一瞬反応が遅れるも、先程の叫びがよく知る者の声だったことに漸く思い至って顔を上げた。――そこには。
 
 右手には購買で売っているような有り触れた十五センチのプラスチック定規を携え。左手からは淡く紫に輝く光を発し続け。謎の力の爆心地に立つ第三者。
 黒梅魔鬼が、あたかも乙瓜と化け物の二者を静止するように、間に入っていたのである。
「人のこと無視して勝手に喧嘩ドンパチすんのは結構だけどさ」
 魔鬼は何処か苛立ちと諦めを含んだような声音で語り出す。
「とばっちりはゴメンだし、せめてこのイミフな状況に至った経緯くらいは話してからにしてよ。でないと」

「二人纏めて弾き飛ばすよ?」

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