6045*

白薙の境目、黒の虎

 それに行き会ったのは、何も特別な日なんかじゃない。
 至極普通の日常の中の、至極普通の時間の流れで。偶々異質なモノと出会ってしまった、只それだけのことだった。
 小学校の帰り道。友達と別れて一人きりになった道で。私はそれに出会った。

 それは、真っ黒な、しかし影よりも黒々とした塊の。けれど無機質ではなく艶々房々とした質感の、ああそうだ。獣の毛皮だ。
 飲み込まれそうなほどに黒一色の大きな獣が、一本の木の下に出来た陰の中に、どっしりと座って居た。
 黒の獣は唸るでもなく睨むでもなく、その体色に似合わず透き通るような蒼い目で、僅かに紅色の滲み始めた空を、静かに見つめていた。思わぬモノに出くわして硬直する私の姿など、まるで眼中にない。
 ――淋しい顔だ。
 ふと、そう思った。何故そう思ったのかは知らない。獣の表情など私の専門ではないし読み取れる筈もないのに。何故だか、思ったのだ。この獣は淋しい気持ちでいるのだと。
娘子むすめご。儂が見えるのか』
 はっとした。
 獣はいつの間にか完全に此方を向いていた。
 私は驚いた。獣に見られていることではない。この獣は口が利ける。まだ誰の物と決まったわけではないその声を聞いて、直感的にそう思ってしまった、否、理解してしまったからである。
『驚かれたか』
 獣は全てを見透かすような透き通る色の双眸で、私を完全に捕らえている。
 この瞳、この声、これは恐らくこの世の物ではない。
 私は直感し、震えた。
 獣はそんな私の様子を見て、カッカッと言った。笑っているようだった。
『怯えることはない、恐れることはないのだ娘子よ。儂は只、久方ぶりに儂の姿を見ることが出来た人間と話がしとうて呼びかけたのじゃ。何も取って食いやせぬわ。カッカ』
 獣は老人のような口調で語った。どこか愉快そうだった。
 あまりにも敵意のない様子に、私は恐る恐る尋ねた。
「……一体、何者なの?」
『儂か。儂は虎じゃよ』
 おっかなびっくりの質問に、獣は即座に答えて見せた。まるでそう聞かれるのを予め分かっていて、模範解答を用意していたみたいに早かった。
 寧ろこの遣り取りをするために、始めに名乗らなかった様ですらある。
 そうか。この獣は――虎は楽しんでいるのだ。久方ぶりだと言った、姿を見た人間との会話を。

 しかし、妙である。
 虎といえば、大抵の人間は老若男女問わず金毛で黒い縞のある、所謂虎柄の生き物を連想する。
 しかし目の前のこいつは、どこまでも深い深い黒一色で、金毛でも虎柄でもありやしない。
 加え、日影に佇んでいる所為か輪郭すら曖昧で、巨大な獣なのは疑うまでもないが本当に虎なのかと聞かれると怪しい。
 どちらかと言ったら熊なのではないのか?
 疑問に思い、眼前の獣を注視する。
『儂が真実まことに虎かうたごうておるな』
 同時、投げかけられた虎の言葉にどきりとする。
 ――心を見透かされた?
『なぁに、御主のような娘子の考えることなどお見通しよ。儂があまりに虎らしくないんで訝しんでおるんじゃろ』
 カカカと笑い、虎は続ける。
『娘子。儂も若い頃は確然に虎柄の虎じゃったよ。そんじょそこらの虎に比べて、えらく立派な毛皮じゃった。毛皮の素晴らしさじゃあ、儂に適う虎なんぞ一匹もお らんかった。だが儂も老いた。毛艶も色も見劣りして、立派な毛皮でなくなった。だが、でもな。それだけじゃア毛が真っ黒になったりはせん……』
 虎はそこまで言うと、何かを思い出したようにうなだれた。
「一体、何があったのさ」
 私が好奇心のままに言うと、虎は頭を上げて悲しい声で言った。
『戦に負けちまったのさ。仲間も大勢死んだ、先の戦でな。儂も老骨に鞭打って闘ったが、奴は強すぎた。この老い耄れは殺されこそしなかったが、毛を剥がれ真っ黒に焼かれてこの様よ』
 虎は自嘲気味に力無く笑った。
「先の戦」が私の死っている戦に相当するのか、それとも彼らしか知らない戦いがあったのかはわからないが、恐らく相当熾烈なモノだったであろうことは容易に想像がついた。
 この老虎は命を賭して戦い、そしてこのような姿へと変じたのだ。
 仲間を失い、嘗て自慢だった毛皮を失い、一体どの様な心持ちなのだろうか。
 辛い? 悲しい? 憎い? 恨めしい?
 表面的には何とでも表せるその感情。残念ながら人生経験がたったの十数年しかなく、戦争も飢餓もなくぬくぬくと育った私には、それを言い表すことが出来なかった。

 それから暫く私も虎も黙り続けた。
 空はじわじわと紅に変じ、日は傾き。影は滲んで闇となり、虎の輪郭をより一層曖昧なものにした。
 虎の形が朧気になって、しかし蒼の瞳だけがくっきりとそこにあるのを確認し、安堵の溜め息を吐いた時、唐突に虎が口を開いた。
『娘子よ、娘子よ』
 その呼びかけに私は「何」と一言返した。
 虎はやや嬉しそうに続けた。
『こうして出会えたのも何かの縁じゃ、娘子。名前を教えてくれぬかのう』
「名前? 私はし――」
 言いかけて、止まった。
 そう言えば以前聞いたことがある。名前は呪だと。人外の類に名前を安易に教えてはならないと。
 教えてくれた近所の子の顔をふと思い出して、出しかけた名前をのどの奥へと仕舞う。
 だが、やはりそんな考えはこの虎には見透かされていたようだ。虎は「なぁに、知って御主をどうこうする気はない」と、優しい声で言った。
 余りに敵意も悪意も感じないその声に。だから私は。
「わたし、は……」

 騙されてしまった。

「――白薙杏虎」



 その日私は、虎の眼を手に入れた。