怪事捜話
第十六談・双月のメッセンジャー④

 目覚めるまでの一瞬とも永遠ともつかない断絶の底に、乙瓜は何かを見たような気がした。
 己を取り巻く黒と、天面で揺らめく青白い光。そして――そこよりもっと深い底で蠢く、辺り一面の黒より黒きもの。

 深く黒い、黒い魚。

 その気配に振り返ろうとする乙瓜の肩を、誰かの手が掴み止めた――。



「いつまで気絶してるつもりなんだい! ほら、起きな!」
 次に乙瓜が耳にしたのは、そんな誰かの声だった。その声に引き上げられるかのように乙瓜の意識は断絶から浮上し、ぼんやりと開いた目の先には、見慣れた火遠の顔があった。
 怒っているとも悲しんでいるともとれる顔をした火遠は、未だ呆然としつつも気が付いた乙瓜を見て小さく息を吐き、それから不服げな口調で言った。「どうして」と。
「どうして。一人で勝てない相手と気づいていた筈なのに、どうして俺を頼ろうとしなかった!? こんな時の為の契約じゃあないか! ……君は死んでいたかも知れないんだぞ? わかってるのか!?」
 叱るように、それでいて自分の信頼の無さを嘆くように叫ぶ火遠の様を見て、乙瓜の頭は漸く先程までの出来事を思い出す。十五夜杳月、十五夜音月。月の名を持つ二人の連携攻撃。あと一歩で死んでいたかもしれない状況。
 思い出すと同時に恐怖が蘇り、爪先から脳天までを駆け抜ける。直後「どうして自分は生きているんだろう?」という疑問が浮かび、すぐさま目の前の火遠――己の契約妖怪の力に依るものだと気付く。
 よくよく辺りを見てみれば、そこは先程まで立っていた被服室前の廊下ではなく、見慣れた美術室だった。乙瓜の身体は作業机の一つの上に寝かされており、火遠はそれを横から覗きこむようにして立っている。先程までとは一転し、心配するような表情で。
「わかってるよ、死んでたかもしれない事なんて……」
 強がり不貞腐れるようにそう言った、乙瓜の唇は震えていた。当人の意思なんて無視したまま、視界は涙でにじむ。
 まだ恐怖が残っている。火遠はそんな契約者の様子を見て呟くように「すまない」と零し、そっと乙瓜の頭を撫でた。
「……すまないね。きつい言い方になった。だけど少しくらいは頼ってもいいんだぜ。君は俺と契約しているんだから」
 滅多に聞いたことのない優しい調子で火遠がそう言った直後、「フン」と鼻を鳴らす音と共に不機嫌な声が響いた。
「あまり火遠に迷惑と心配をかけないで。助けるのだってノーリスクじゃないんだから。少しは考えて。馬鹿女」
 冷めた罵声。乙瓜が体を起こしながらその方向に顔を向けると、そこには案の定水祢が居た。腕組みする頬はややむくれ、黒目がちの瞳は完全に見下しの色に染まっている。……要するにいつもの水祢だ。
 そんな彼に視線を向け、「そんな言い方はないだろう」と火遠は言う。しかし水祢は悪びれもしない様子で再び鼻を鳴らしつつ、「そんなことよりも」と話題を転換した。
「そんなことよりも奴らについてでしょ。……十五夜兄弟。あいつら宣言通りにあの女嶽木足止め結界を次々突破して生徒会室に侵攻中だよ」
「……理屈を無視して狭範囲を破壊する力は空間に作用する結界符にも有効ってことか。捕縛符なら幾らか有効だろうけど、避けられたのが痛手だな……」
 なにやらブツブツと呟きながら考え出した火遠を見ながら、乙瓜はある事に気づいて慌てて時計を見る。
 黒板の上に掛けられた美術室のアナログ時計の針は3時45分を指そうとしていた。帰りのHRが終わって教室を出たのが3時半なので、それに杏虎と話していた時間や一方的に護符を投げていた時間を加えても、最低五分は気を失っていた事になる。
 たかだか五分、されど五分。『三十秒で特定の狭範囲を破壊できる』相手にとって、五分は決して短い時間ではない筈だ。
 その事に気づいて漸く我に返り、乙瓜は転げ落ちる勢いで机の上から体を下ろした。こうしちゃいられないとばかりに出入り口に向かい、引き戸に手を掛けた瞬間に水祢の声で呼び止められる。
「どこへ行くつもり」
「決まってんだろ! あいつら止めにいかねぇと、花子さんたち学校妖怪が」
「大変だって? ……かなわなかったくせに助けられるとでもおもってるの?」
「それは……、っ……、でもっ……!」
 言葉を詰まらせた乙瓜の背中に、水祢の溜息の音が被さる。はあ、と小さく軽い音。けれども心底呆れたようなその音は、己の無力を実感したばかりの少女の背中には岩の如く重いものとしてのしかかった。
 もはや完全に動きを止めた乙瓜に、水祢は言葉を続ける。
「はっきり言ってあげる。お前が行っても役立たずなの。少なくとも今の護符の力じゃ無理。立ち向かって行った回数分兄さんの手を煩わせるだけ。……わかったらこのまま美術室ここで大人しくしてて。もうすぐ眞虚と遊嬉が学校に戻ってくる。後の事はあいつらに任せればいい」
 水祢は諭すよりもとどめを刺すようにそう言って、固まったままの乙瓜の引きはがすようにして扉を開けると、「じゃあ」と小さく呟くとそのまま美術室を去って行った。
 事実上の戦力外を告知された乙瓜は、そんな水祢に何一つ言い返すことが出来ないままにその場に立ち尽くしていた。その心には悔しさも怒りも悲しみもなく、只々虚しさがあった。
 護符の力を手にして以来、そしてあの水祢や異怨、闇子さんらと戦い渡り歩いて来て以来。乙瓜は漠然と怪事に関して己に出来ない事は何も無いような。この世のモノでは無いモノを日常的に視るようになって、そういう事・・・・・で困っている誰かしらの悩みを解決して、あたかも自分たちが特別であるような。……何の根拠もなしにそんな気がしていた。
 だがそれは幻想まぼろしだった。所詮自分は火遠に力を貸し与えられただけの存在で、起こっている出来事に流されるばかりで、ただ周囲の大多数とは違うという優越感におぼれているだけの子供だった。現状に満足して、それ以上を望もうとしなかった井の中の蛙だった。――その事に、乙瓜は気づいた。気づかされた。……苦しい程に。
 しかし気付こうが後悔しようが、たったそれだけの事であの二人に勝てる力が即・手に入るのだったら誰も苦労はしないのだ。自覚したところで己の力量は変わらない。何日・何週間と費やした先の将来はまだしも、この数分の先で力が手に入るなんて事はほぼほぼあり得ない。
 それが分かっているからこそ、乙瓜は只々虚しく思ったのだ。己と云う存在を。
 そんな乙瓜の背に手を伸ばし、火遠は彼女の名を呼んだ。「乙瓜」と。申し訳なさそうに。
「……乙瓜。水祢の奴は態度は悪いけど、一応お前に何もないように心配はしてると――」
「…………取りつくろわなくてもわかってるよ火遠。……わかってる。現状の俺がどうしようもない役立たずだって事くらい。考えなしに突っ込む事しか出来ない大馬鹿だって事くらい」
 はは、と自嘲気味に笑いながら、乙瓜は静かに火遠を振り返った。その瞬間、火遠の背筋が僅かにざわついた。……ほんの一瞬だったが、確かに見てしまったからだ。振り返った瞬間の乙瓜が、名状し難くも美しく、凍えるような表情で笑っていたのを。
 鳥肌立つ悪寒が火を宿す火遠の身体を震わせる。しかし乙瓜はそんな事に気づいた様子もなく、すぐに浮かべた思い詰めた表情のままに言葉を続ける。
「だけどさ、俺もさ。……できると思ってたんだ。この間魔鬼が、アンナの奴を相手に負け覚悟して、けれど花子さんを守ったって話聞いて。俺にも何かしらは出来るような気がしてたんだ。……だけど」
 駄目だった、と。声を震えさせながら告げる乙瓜の目には、再び涙の粒が光っていた。感情が遅れてやって来たのだろう。言葉にして漸く実感したのだ。本当はどうしようもなく悔しかったという事を。
 火遠はそんな乙瓜に歩み寄り、けれども今度は頭を撫でるような真似はせず。互いの右手側ですれ違うような形で並び立ち、乙瓜の肩から首にかけて支えるように右腕を回した。
「火遠?」
「こっちだって悔しいさ」
 きょとんとする乙瓜に対し、火遠は何かを押し殺したような声で言う。
「護符を旧式と馬鹿にされて、何でもない風に避けられて、挙句に意地っ張りだけが取り柄の君にそんな風に言わせたんだ。……悔しいに決まってるだろ」
「……火遠、…………?」
 普段とは違う雰囲気に気圧されつつ、乙瓜は横目で火遠の顔を見る。右半分だけの横顔。否、そもそも乙瓜が左目を潰したせいで普段から火遠の顔なんて半分見えないのだが……そんな彼の横顔には、確かに怒りが宿っていた。
 火遠は水祢と違ってやり返す・・・・気でいる。勿論、彼だって今のままの乙瓜では【月】の二人に対する勝算がない事くらい分かっている。だがそれ以上に、己の技と己の契約者を虚仮こけにされた事に対して腹を立てていた。それこそ煮えくり返る程に。それを現すかの如く、髪に宿る焔はより一層強く燃え盛った。
「乙瓜。あと少しだけ時間をくれないか。【月】の遣いどもに確実に泣きを見せてやる為に。ほんの少しだけ、時間をくれ・・・・・・・・・・・・・
 はっきりとそう告げた火遠に、乙瓜は黙って頷くしかなかった。火遠は乙瓜から腕を放すと、真正面に向き直っていつもの様にニッと笑った。

「それじゃあパパッと術式更新バージョンアップしてしまおうか」

 それから火遠がした事を見て、乙瓜は目を丸くした。『この数分の先で力が手に入るなんて事はほぼほぼあり得ない』。そんな自分の常識的見地をせせら笑うように、契約妖怪はそれを実行した。


 ――術式開始。
 マークアップは丙六式捌型、灯火九九型記述形式互換型。
 草萼式退魔迎撃用マクロ七年参型読込。
 灯火謹製先行九年型アップデートパッチ降神開始――。


 一方同じ頃、北中の正門には立つ小さな人影が一つ。
 山羊の角と瞳を持つ白い子供――薄雪媛神。小さな葛篭つづらを山羊の手で持ち辛そうに抱えた彼女は、斜陽に照らされた北中校舎をキッと睨んだ。

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