怪事捜話
第十六談・双月のメッセンジャー③

「譲渡だと? この期に及んで? よくもいけしゃあしゃあと」
 そう吐き捨てるように言う乙瓜に対し、しかし【月】の二人は顔色一つ変えやしない。
「前任者の態度が態度であった故」
交渉・・に応じて貰えぬ所以ゆえんがそこに在るのかと思い」
「念押しで問い直すものである」
これに同意を示すならば、我らを古霊北中学校裏生徒現代表・花子様の元に案内あない頂きたい」
 先と変わらず二人で交互に喋ると、また口を揃えてこう言った。「賢い返答を期待する」と。
「賢い返答、ね……」
 投げかけられた問いを反芻し、乙瓜は小さく舌打ちした。それは迷いからではない。答えなんて初手から決まっていて、勿論ノーだ。
 しかし、だがしかし。分かり切っている一つの事実が、乙瓜に喉元まで出かかった言葉を吐くのを躊躇ちゅうちょさせた。
 拒絶は報復の開始と同義。彼らの前任であるアンナがそうしたように、彼らとて取引が穏便に済まない場合を想定していないなんて事はないだろう。それに彼らは『最後通告を渡すべく』、と言ったのだ。これ以上言葉や文書で交渉する意思はないと、決裂したならば強硬手段に出る他ないと明示しているのだ。
 そして何より相手は二人。自分たちを【月】の隊長格と名乗った彼らは、アンナの襲撃からここ二ヶ月ばかりでもののついでのように戦ってきた有象無象の雑霊とはわけがちがうだろう。対し、乙瓜は一人。もう一人ばかり戦力になりそうだった杏虎は既にこの場から去り、他の美術部の面々はまだ学校の敷地内に留まっているか、それとも既に出た後か。敵が偶然にしろ狙ったにしろ、今日が部活のない月曜で仲間を呼び集められる保証がないという不安が、乙瓜の決断を遅らせた。
(どうする……)
 不安を噛み砕くように奥歯を噛み合わせながら、乙瓜は思案する。単純に味方が欲しいのであれば、花子さんを中心にした裏生徒たちは自分についてくれるだろう。だが敵は【月喰の影】である。相手二人はアンナではないが、あの恐ろしいダーツ・・・を持ってきていないという保証はどこにもない。そして彼らもまたダーツを所持していた場合、裏生徒たちは味方どころか敵――否、敵も味方も無く場に混沌をもたらすだけの存在と化す危険があり、良策とは言えない。いっそ花子さんの元へ案内するふりをして杏虎を追う事も考えたが、まるで感情の読めないこの二人はあざむかれたと気づいた時点でどんな行動に出るか全く読めない。
(いや、寧ろ騙すもよりもこのまま結界をぶつけて時間稼ぎをしつつ杏虎を追うのも一つの手か)
 ふとひらめき、乙瓜は振り返り様に展開した結界護符をちらりと見遣った。だがそんな些細な視線の動きを見逃さなかったかのように、天に向けて生えるつのを持つ少年・杳月は抑揚のない、それでいて冷徹な声で「無駄だ」と言った。
「無駄だ。それを我らにぶつけて時間ときを稼ぎ、虎の目の女を追おうという魂胆ならば」
「それは愚かな考えだ。その旧式の護符は、我らには通用しない」
 相方の言葉を継ぎ、曲がりつのの音月は目を閉ざしたままで乙瓜と護符を指さした。
護符フダが通用しない? ……どうしてそんなことがわかるんだ。やってみないとわからないだろ」
 胸中を見抜かれた焦りを隠すように乙瓜が言うと、杳月は虚ろな目のままにカクリと首を傾げ、「そうも言うなら試してやってもいいが」と、相変わらず感情の籠らない声で続けた。
「それは交渉の決裂と受け取ることとする。話し合いの余地のない事と受け取る事とする。それでもとするか」
「思い改められよ。貴女きじょはまだ若い。傷つけるには口惜しい」
「貴女がここで我らの求めに頷いても、花子様が首を横に振るのであれば結果としては同じこと」
「彼女の決断に任せればいい。貴女が責を負うことは無い」
 正しい決断を。杳月と音月は最後に口を揃えてそう告げた。はかなげな声が紡ぐ確固とした意思の言葉はしかし、乙瓜に一つの決断をさせた。
「……ああ、わかったよ。正しい決断、賢い返答ってヤツがな」
 それは半ば賭けのようなものであったが、決断を急かされた乙瓜にはもはや迷っている時間は無かった。――故に。

「お前らを絶対に花子さんの前には辿りつかせねえ! それが俺の返答だ!」

 全ての不安を振り払うように声を張る。そんな乙瓜の姿に、杳月の虚ろな目が僅かに見開く。彼は「愚かな」と呟くと、次の瞬間向かってくる護符の隊列から相方の腕を引いて逃れる。
「決裂か。惜しいものだな杳月」
「全くだ。……だがそもそも、ここで応じるようなれば元よりマガツキ様が危惧するにも及ばぬ存在」
 言葉を交わしつつ護符の追撃をかわす二人には、焦った様子は微塵もない。そのあまりにも余裕な様を見て、乙瓜はギリと歯軋りする。
(俺の護符が通用しないってのはブラフでもなんでもなく避けきる自信があったからか! けれど反撃してくる様子がない以上、妙な行動に出る前にどこかしらに命中すれば何かしらの効果はある筈……!)
 あたれ。そんな乙瓜の願いに反し、護符は一向に命中の気配を見せない。目標を外れた護符は左右の壁や上下の床・天井にばらばらと音を立てて張り付き、廊下のその一画だけを曰く付きと見せていた。
 それ程の猛攻であったにも関わらず、護符は一向に中らない。やがて乙瓜の掌に嫌な汗がにじみ切った頃。抑揚無く交互に喋る月の使者は、変わらず静かにこう告げた。
「……哀れな。故に無駄と伝えたのだが」
「貴女の攻撃では我らをくだす事は出来ない。その護符は幾らでも取り出せると見受けたが、取り出しただけ無駄になるだけだ」
しかり。だが言って分からぬのなら決定的な形で分からせるしかあるまい。なあ、音月」
「ああ、杳月」
 二人は頷き合い、そしておもむろに前方へと手を伸ばした。乙瓜より向かって左に立つ杳月が右手を、右に立つ音月が左手を。左右対称の形で手を前方に――乙瓜へと向け。彼らは静かにそれを行った。

「目標、音月より右半歩から前十一歩。修正上方3度」
「展開。範囲8CBM。葬撃発射。着弾カウント開始、30」

 さながら軍隊のように。しかし敵意も殺意も欠片も籠らない声で、彼らは不穏な言葉を呟く。
 だが、何も起こらない。当然何かが起こるものと思っていた乙瓜は拍子抜けした様子で、しかし何も起こらない事に却ってうすら寒いものを感じながら「何をした」と問う。
「何をしたもない。既に攻撃は終わっている」
 果たして【月】の使者は、やはり顔色一つ変える事なく。事務的で儚げで無感情な様子のままに語りだした。
「我らの攻撃は『三十秒後に狙いを定めた特定の狭範囲空間を破壊する』。一度狙いを定められたが最後、あらゆる防壁を無視し、その空間を内側に向かって『圧し潰す』」
「空気の入った紙風船を押し潰すように。すべてのものが内側に向かって潰れていく」
 その様を示すように両の手をパチンと叩き合わせたのは音月の方だ。その一向に開くことない目の代理とばかりに、改めて乙瓜を見た杳月は言う。
「破壊が始まるまでの三十秒は絶対。その間目標が位置をずらせば、全ては無為と化す。貴女もまた攻撃を逃れる事が出来る」
「……? どうしてそんな事を教える?」
 唐突に自ら攻撃の弱点を晒した彼らに対し、乙瓜は己の位置をずらしつつも疑問を口にする。対して月の名を持つ二人はそんな乙瓜の行動を咎める事なく。
「既に宣言した通りだ。既に攻撃は終わっている・・・・・・・・・・・
 そう告げて、上げたままの手をゆっくりと下ろした。
 乙瓜ははじめ彼らの言わんとしている意味がわからなかったが、しかし次の瞬間否が応でも理解できた。彼らの言葉に嘘偽りは一片もなく。言葉の通り、攻撃は既に終わっていたという事が……!
「そういう……ことかッ!」
 乙瓜の背後、廊下の角の向こうから。パリンパリンと立て続けに響く音。振り返った彼女には、その派手すぎずとも耳に付く音に聞き覚えが在った。蛍光灯の割れる音だ。
 音は徐々に乙瓜に近づいてきている。連鎖するように、追い詰めるように。そう、そういう事だったのだ。十五夜の名を冠する音月と杳月は、自らの攻撃の『三十秒後』という特性を利用して。護符の攻撃を躱しながら、既に乙瓜の退路に向けて攻撃を仕掛けていたのだった!
 うかうかしている間もなく、空間破壊の力はやがて乙瓜に到達する。逃れる為には前方へ向かう他ない。そう思い、前方に向き直った彼女は絶句する。
 バリン、と。今まさに己の数歩前の空間で蛍光灯が炸裂し、通常まず剥がれることの無い床材や壁材がめくれ上がり、まるで強力な引力に飲まれるかのように何もない空間の中心に寄せられ爆ぜるのを目にしたからだ。

 もう、前にも後ろにも退路はない。そうして動けなくなったところを、【月】の二人は確実に仕留めに来るだろう。

 このままでは、死ぬ。

 死ぬ。その可能性が浮かんだ瞬間、乙瓜の思考は一気に真っ白に染まった。完全な『お手上げ』だった。彼女の頭には、もう何の策も浮かんでこない。只漠然とした死への恐怖が存在していた。
 趣味にしろ憂さ晴らしにしろ人助けにしろ、今更人ならざるものには怖じる事なく立ち向かっている乙瓜とて所詮は子供だった。否、例えそれが大人だろうがきっと同じだ。誰だって死にたくはないのだ。普通は。
(言わなきゃ良かった、答えなんて)
 己の決断への一瞬の後悔。膝が震え、今更逃げられる隙があったとしても動く事はできないだろうという確信。恐怖。
 全身の血が凍え、頭の内側が痺れていくような嫌な感覚が広がっていくのを感じる中、乙瓜はふと何かを思った。

 ――***のだけは、**に嫌。**さないと。

 その発想がどこから来たのか、乙瓜本人にもわからなかった。何より直後聞こえて来た声に、頭の痺れ諸共かき消されたからだ。

「約定一つ、この者の身辺の安全を保証するもの! 契約認証、契約執行!」

 どこからともなく聞こえて来た聞き覚えのある声を耳にすると共に、乙瓜の意識は一旦途絶えた。

←BACK / NEXT→
HOME